第一話 愛されるために自分を変える
今回は珍しく現代恋愛です。
第1話・第2話はモラハラや暴言など、少し重い内容となっております。
苦手な方はご注意ください。
お話の結末は、ハッピーエンドです。
「ねえ、お母さん。これ、お父さんとお母さん?」
娘が開いていたのは、結婚式の写真を収めたアルバムだった。
写真の中の私は、白無垢に身を包み、夫の隣で満面の笑みを浮かべている。
あの日のことは、今でもよく覚えている。
前日まで天気がよくなかったのに、当日は雲一つない青空が広がっていたこと。
慣れない衣装の重さに戸惑い、少し緊張していたこと。
そして、ちょっとしたトラブルが起きても、二人で笑っていられたこと。
そのどれもが、今では大切な思い出になっている。
何より、ようやくこの人と夫婦になれるのだという、胸いっぱいの幸福感は、今でも忘れられない。
「そうよ。お父さんとお母さんの結婚式の写真」
「へえー! お母さん、こんな格好してたんだ!」
娘は興味津々といった様子でページをめくっていたが、ふと思いついたように顔を上げた。
「ねえ、お父さんとお母さんって、どうやって知り合ったの?」
「そうねえ。趣味がきっかけで仲良くなったのよ」
娘は「そうなんだ!」と頷き、再びアルバムに目を落とした。
私も隣から写真を覗き込む。写真の中の夫は、今と変わらず穏やかに笑っている。
出会ってから、もう十五年以上が経つ。
あの人と結婚して、子どもたちが生まれ、毎日が慌ただしく過ぎていく。
そんな日々の中で、夫と出会えたことを、私は今でも心から幸せに思っている。
けれど、夫と出会う前の私は、こんな未来が訪れるなんて想像もしていなかった。
誰かと結婚して家庭を築くことさえ、自分には向いていないと思っていた。
好きな人の隣で、こんなふうに心から笑える日が来るとは、思ってもいなかったのだ。
◇
夫と出会うよりも前、私は初めてできた恋人と、八年間も遠距離恋愛をしていた。
今になって振り返れば、ずいぶん長い時間だったと思う。
付き合いの終わり頃は苦しいことの方が多かったけれど、最初からそうだったわけではない。
初めての恋人で、本当に好きだった。離れていても、毎日のように話せることが嬉しかった。
彼と知り合ったのは、パソコンでプレイするオンラインゲームの中だった。
当時、私も彼も学生だった。住んでいる場所は遠く離れていたけれど、ゲームの中ではいつでも会えた。
一緒に冒険したり、くだらない話をしたり、ときには夜遅くまで夢中になって遊んだり。画面の向こうにいる彼のことを、少しずつ好きになっていった。
初めて直接会ったとき、彼は私に香水をプレゼントしてくれた。そのとき一緒に出かけた先では、数百円ほどの指輪も買ってくれた。
決して高価なものではなかったけれど、好きな人からもらった贈り物が嬉しくて、どちらも大切にしていた。
社会人になってからは、仕事中に指輪をつけられなかったので、チェーンに通して首から下げていたほどだ。
けれど、それ以降、ゲームの中で何かをもらうことはあっても、現実でプレゼントをもらうことはなかった。
◇
数年後、私のほうが先に学校を卒業し、社会人になった。
彼はまだ大学生だったので、会いに行くのも自然と私の役目になった。
働き始めたばかりの給料から交通費を捻出し、休みを合わせて、彼の暮らす街まで出かけていく。
遠距離恋愛とは、そういうものなのだと思っていた。
けれど、彼が就職してからも、その形はほとんど変わらなかった。
仕事の都合で彼の住む場所は何度か変わったものの、会いに行くのは基本的に私で、旅費も自分で負担することが多かった。
もちろん、彼がこちらへ来てくれたこともある。
ただ、八年間を振り返ると、その回数は片手で数えられるほどだったように思う。
当時の私は、その状況をそれほど不満に感じていなかった。
むしろ、次に会える日が決まれば嬉しかったし、旅の準備も楽しみの一つだった。
せっかく遠くまで出かけるのだから、二人で観光もしたかった。
けれど、彼はそうした外出には、あまり乗り気ではない様子だった。
私にとっては観光地でも、彼にとっては普段から暮らしている場所だ。それなら、わざわざ出かけたいと思わなくても仕方がないのかもしれない。そう考えていた。
当時の私はまだ運転免許を持っていなかったので、現地で車に乗るときは彼が運転してくれた。それはありがたかったし、運転を代われないことを申し訳なくも思っていた。
ある日、助手席で少しだけうとうとしてしまったことがある。
「俺だけに運転させといて寝るなよ」
彼にそう叱られて、私は反省した。
一人で運転するのは疲れるだろうし、話し相手になってほしかったのかもしれない。隣で寝てしまうのはよくなかったのだと考え、それからは眠らないように気をつけた。
そんなふうに、私は少しずつ彼の望む振る舞いを覚えていった。
その頃はまだ、それをおかしいとは思っていなかった。
好きな人のために努力するのは、恋人として当たり前のことなのだと思っていたからだ。
◇
彼との関係が、いつから苦しくなっていったのか。今となっては、はっきりした境目が思い出せない。
ただ、気づけば私は、彼に叱られることが増えていた。
最初に違和感を覚えたのは、二人で遊んでいたゲームの中だったように思う。
私は弓を使う職業が好きで、仲間を回復したり支援したりする役回りも好きだった。
一緒に遊ぶほかの人から立ち回りを褒めてもらえることもあり、自分なりに楽しんでいた。
けれど、彼からは操作や判断について、よく注意された。
「もっとちゃんとしろ」
「何もわかってない」
ときには、「お前がやるより俺の方がうまい」とも言われた。
最初は、私が下手だから教えてくれているのだと思っていた。彼のほうがゲームに詳しかったし、実際に操作も上手だったからだ。
私は言われたことを直そうと、攻略情報を調べ、装備を考え、できるだけ迷惑をかけないように気をつけた。
それでも、叱られることは減らなかった。
当時遊んでいたゲームには、戦闘で倒れると経験値が減る「デスペナルティ」があった。苦労して稼いだ経験値を失いたくない気持ちは、私にもわかった。
問題は、そのときの彼の反応だった。
私が操作を間違えたり、判断が遅れたりすると、彼は容赦なく罵声を浴びせてきた。
怒鳴られると、次こそ失敗してはいけないと焦った。緊張すればするほど周囲が見えなくなり、普段ならしないようなミスまでしてしまう。そして、また激しく叱られる。
何がいけなかったのかを尋ねても、はっきりした答えは返ってこなかった。
「それくらい察しろ」
失敗したくないから質問するのに、質問しても怒られる。
かといって、自分で考えて行動すると、今度はどうして勝手なことをしたのかと不機嫌になられる。
私は、どうすればいいのかわからなくなっていった。
少しずつ、ゲームをしていても、彼の機嫌が気になるようになった。
声が低くなっただけで、何か失敗しただろうかと身構える。ため息が聞こえると、胸の奥がぎゅっと縮む。舌打ちが聞こえたら、マウスを持つ手が震え、冷や汗をかいた。
いつしか私は、ゲームを楽しむことよりも、いかに彼を怒らせずに済むかを考えるようになっていた。
操作を間違えないように気を配りながら、彼との会話にも応じる。どちらかに気を取られて失敗しないよう、いつも緊張していた。
むしろ、ほかの人たちも交えて遊んでいるときのほうが、気楽だったかもしれない。
本来なら、恋人と二人で遊ぶ時間こそ、気兼ねなく楽しめるはずなのに。
私は大人数で遊ぶときには、仲間を回復したり補助したりする支援職をやるのが好きだった。
仲間の命を預かる役割だからこそ、戦闘中はできるだけ操作に集中したかったし、音声チャットでもあまり喋らずに済むほうがありがたかった。
一緒に遊ぶ人たちは、私の支援を上手だと褒めてくれることもあった。
けれど、彼からは駄目出しばかりだった。
彼はゲームの仕組みに詳しく、私が知らないこともたくさん知っていた。
私はそこまで細かくシステムを調べて遊ぶタイプではなかったから、知識の面で指摘されると、うまく言い返すことができなかった。
だからといって、彼と同じような遊び方に変えることもできなかった。
それでも、私はゲームが好きだった。彼と遊ぶ時間が楽しかった頃のことも、覚えていた。
だから、私がもっと上手くなればいいのだと思った。もっと頑張れば、また以前のように笑い合えるはずだと。
けれど、いくら頑張っても、言われることは変わらなかった。
「努力が足りない」
私なりに頑張っているつもりだと伝えても、返ってくるのは厳しい言葉だった。
「お前の頑張ってるつもりなんて、全然頑張ってない」
では、どうすれば頑張ったことになるのだろう。何ができれば、認めてもらえるのだろう。
その答えが見つからないまま、私はひたすら、彼の望むように自分を変えようとしていた。




