第2話 彼女が怒った理由
まだ初日だというのに、教室はすでに騒がしかった。
笑い声、自己紹介、連絡先の交換。
――俺には関係のない世界だ。
「……はぁ」
小さく息を吐き、視線を落とす。
少し離れた窓際では、弟の航がすでに女子のグループに囲まれていた。
ポケットからスマホを取り出す。
『勇者パーティから見放された、はぐれ賢者は実は最強な転生者』。
最近ハマっている小説だ。こうして二次元に没入している時間だけは、余計なことを考えなくて済む。画面に意識を落としかけた、その時。
「あれー? 小説読んでるぅ?」
嫌な声が降ってきた。
顔を上げると、いかにもギャルって感じの女子が、面白そうにこっちを見下ろしていた。
「ねえねえ、本当にあの五十嵐くんの双子なの? 全然似てなーい! 今それ読む? 入学初日だよ?」
「そのままだとさ、一生ぼっち確定じゃん」
くすくすと笑い声。周りの視線が、じわっと集まる。
……面倒くさい。弟のダシに使われるのは中学からのテンプレだ。
「……別に」
短く返して、スマホの画面を閉じた。
遠くで、航の纏う空気がスッと冷たくなるのが見えた。あいつは俺をバカにする奴を極端に嫌う。マズい、入学初日から弟が女子と揉めるのは避けたい。
俺が立ち上がろうとした、その時だった。
「――うるせぇよ」
地を這うような低い声が、空気を切り裂いた。
次の瞬間。
「うるせえっつってんだろ!!」
ドンッ!!
激しい音とともに、俺の隣の机が思い切り蹴り飛ばされた。
教室が一瞬で水を打ったように静まり返る。
そこに立っていたのは――さっき教室から逃げ出したはずの、橘琥珀。
先ほどのポンコツ具合はどこへやら。彼女は眉間にしわを寄せ、今にも噛みつきそうな目で、俺に絡んでいたギャルを睨みつけていた。
「くだらねえことで騒いでんじゃねぇよ。目障りだ」
吐き捨てるような声。完全に“ヤンキー”のそれだった。
さっきまで笑っていた女子が、顔を引きつらせて後ずさる。
教室の空気が、凍りついた。
(……え? なんで俺の真横でヤンキーがキレてんの!?)
俺のことでキレた?
そんなわけがない。さっき俺にガン飛ばして謎の威嚇をしてきたばかりだ。おそらく、ギャルの甲高い声が気に食わなくて八つ当たりしただけだ。
俺が息を潜めて震えていると――
「あ……」
一瞬だけ。
橘の視線が、こっちに向いた。
「しまった」というようにキュッと唇を噛み締め、すぐにプイッと逸らされる。
ただ、その耳は、ほんのりと赤く染まっていた。
(……は?)
理解が追いつかない。
ガンを飛ばされたのか、それとも別の感情か。
その時――
ガララッ!!
勢いよく教室の扉が開いた。
「おいおい、初日から何やってんだお前ら。まだホームルーム前だぞ」
間の抜けた声。
入ってきたのは、くたびれたスーツの中年教師だった。
張り詰めていた空気が、一気に緩む。
橘は舌打ちを一つした。
そして、ほんのり赤い耳を隠すように顔を背け、乱暴に立ち上がる。
「……うっせーな。ちょっと空気吸ってくる」
「おい橘、どこ行くんだ」という教師の制止も聞かず、彼女はズカズカと教室から出て行ってしまった。
遠くでそれを見ていた航も、「あー、俺も便所」と適当な理由をつけ、肩をすくめながらふらりと後を追うように教室を出ていく。
残された俺は、蹴り飛ばされた隣の空席を見つめながら、静かに冷や汗を拭った。
(……いや、絶対何かあるだろこれ)
あのヤンキー女子の怒りの導火線も、わざわざ後を追っていった弟の行動も、何もかもが不穏すぎる。
俺の平穏は、初日にして完全に詰んでしまったのではないか。
静かにそう確信しながら、俺はもう一度スマホを強く握り直した。




