第1話 その一言を、俺はまだ知らない
「痛っ……やめて、引っ張らないで……っ!」
放課後の裏庭。乱暴に掴まれた髪が悲鳴を上げ、私の視界はまた涙でぐちゃぐちゃに滲んでいく。
お父さんからもらった大切な茶色い髪。それを嘲笑われ、無神経に扱われることに、私はただ耐えることしかできなかった。一生、この惨めな日陰の世界で生きていくんだと思っていた。
「おい、お前ら! 女の子泣かせて何やってんだよ!」
その声が響いた瞬間、私の止まっていた時間は、唐突に動き出したのだ。
彼は、乱暴に扱われた私の髪をそっと手に取った。
光に透かすみたいに掲げて、しばらく見つめて――
それから、信じられないくらい無邪気な顔で笑った。
「――――」
言われた言葉は、あまりにも馬鹿で、まっすぐで。
でも。
それは、誰にも言われたことのない言葉だった。
――あの日、彼がくれた魔法の言葉が、私のすべてを変えた。
高校一年生、春。今の『アタシ』は、絶賛バリバリの不良をやっている。
******
平穏無事。目立たず、騒がず、息を潜めて生きる。
それが俺、五十嵐湊の高校生活における絶対目標だ。
工業高校・建築学科。男女比がほぼ半々というこの華やかな環境で、入学初日の教室はすでに残酷なヒエラルキーが完成しつつあった。
その頂点に君臨しているのが、窓際で早々に女子の群れに囲まれている爽やかイケメン――俺の双子の弟である、五十嵐航だ。
同じ顔、同じ苗字のはずなのに、あいつの周りにはキャーキャーと黄色い声が飛び交っている。一方、長めの前髪で顔を半分隠し、分厚い眼鏡をかけて猫背で座る俺の周りには、見事なまでの無風地帯が広がっていた。
素晴らしい。パーツが同じでも、纏う空気が陰湿なら人はここまで透明人間になれるのだ。これぞ俺が求めていた平穏――。
「よお。相変わらず陰気くせえ顔してんな」
不意に、無風地帯に土足で踏み込んでくる影があった。
見上げると、女子の群れから面倒くさそうに抜け出してきた航が、俺の前の席にどっかりと腰を下ろしている。
「……目立つからあっち行けよ。お前の信者たちがこっち睨んでるだろ」
「あー? ほっとけ。中身も見ねえで騒ぐだけの連中なんか知るかよ」
航はつまらなそうに鼻を鳴らす。相変わらず、モテるくせに女子に対する評価がやたらと冷ややかな奴だ。
「おい、航。てめぇこんな所で何油売ってんだよ」
突然、ドスの効いた声が頭上から降ってきた。
ビクッと肩を揺らして声の方を見ると、そこにはこの教室で一番関わってはいけない劇薬が立っていた。
制服を着崩し、透き通るような茶色い髪を揺らすバリバリのヤンキー女子――橘琥珀だ。
航と同じ中学出身だという彼女の登場に、周囲の男子たちが遠巻きに息を呑む。
「あ? 別にいいだろ。……ああ、橘。ちょうどいいから紹介するわ。こいつ、俺の双子の兄貴の湊」
ニヤニヤしながら航が親指で俺を指差す。
その瞬間、ヤンキー女子の鋭い琥珀色の瞳が、俺の分厚いレンズ越しの目とバッチリ合ってしまった。
(うわっ、最悪だ……ッ!)
俺のトラウマが激しく警鐘を鳴らす。弟に馴れ馴れしくしている地味なオタク。ヤンキーからすれば、最も気に食わないサンドバッグの対象だろう。カツアゲか、パシリか。俺は最悪のシチュエーションを覚悟して身を強張らせた。
ところが。
俺を睨みつけていた彼女の動きが、唐突にピタッと止まった。
「あ、……えと、その……」
ドスの効いた声はどこへやら。聞こえてきたのは、消え入るような小さな声だった。
見れば、彼女はギュッと自分の制服の裾を両手で握りしめ、耳の裏まで真っ赤に染めながら、もじもじと落ち着きなく視線を彷徨わせている。
(……え? なんだ?)
ヤンキー女子が、突然俯いてワナワナと震え始めた。
俺は戦慄した。これはマズい。オタクの分際で目を合わせてしまったことで、彼女の怒りゲージが限界を突破しようとしているのだ。ガチでブチギレる5秒前だ。
助けを求めて航を見ると、あいつはなぜか、この地獄のような状況を特等席で楽しむようにニヤニヤと笑っている。
「……あの、えっと……」
ついに彼女が顔を上げた。
限界まで赤くなった顔で、俺を真っ直ぐに見つめ――。
「……い、五十嵐、先輩……いや、お兄、さん……ち、ちげぇッ! ……よ、よろしく、お願い、しますッ!!」
バツンッ!と。
彼女はなぜか直角の最敬礼でお辞儀をすると、そのまま脱兎のごとく教室から逃げ出していった。
「…………は?」
「くくっ……あいつ、アホすぎだろ……」
呆然とする俺の横で、弟だけが腹を抱えて笑っていた。
こうして、俺の平穏な高校生活は、入学初日にして早くも崩れ去ったのだった。




