霧の異変
斧が幹へ食い込むたび、木の内部から湿った香りが弾けた。腕を振り下ろすたび、振動が手首へ反響し、指先まで軽いしびれが走る。
額の汗は斧の柄に落ち、木屑が肌に貼りつく。森は生きている。呼吸し、うごめき、その胸の奥に蓄えてきた年輪の重さを、俺の腕に返してくる。
「ご主人様、その木の角度は危険です。倒れる際に跳ね返る恐れがありますので……あとこちらの枝も、私が払いますね」
背後から、いつもの落ち着き払った声がした。ジャンヌだ。手斧一本で、信じられない効率で枝を落とし、積み上げていく。
メイド服なのに、汗で前髪が額に張りついているのに、それでも気品を崩さないのはもう才能だと思う。
「……なぁ、ジャンヌ」
「はい、ご主人様」
「……俺たち、いま何してるんだっけ?」
「森の木を伐採しているのです。森が有罪判決を受けたので」
その言い方があまりにも普通すぎて、俺は斧を落としかけた。
「正気だと思うか? 森が有罪って、わけがわかんねえよ」
「目の前で犯行が行われていたのに止めなかったと、昨日の第二回動物裁判で判断されました。ですから、森への罰として伐採が命じられたわけです」
「だぁぁぁ……狂ってる……! 完全にいかれてやがる……!!」
思わず頭を抱える。事の発端は昨日の朝だ。森の方へどんぐりを拾いにいった青年が死体を見つけた。人間の男のだ。頭には鈍器で殴られた形跡。目撃者もいなかった。当然、捜査は難航を極めた。凶器も見つからず、動機も不明。金がらみか、痴情のもつれか。はたまた、宗教関係か。犯人は見つからない。それでも、誰かを罰する必要があった。
だから、森が裁かれた。殺人を止めなかった罪で。ジャンヌは枝を束ねながら、淡々と続けた。
「不安なのですよ、皆。疫病の原因が分からない限り、“何か悪いもの”を見つけて裁かずにはいられないのです」
「だからって森……? 森を罪にするか普通……?」
「普通ではありません。ですが、普通ではない事態だからこそ、スケープゴートを捧げ秩序を回復する必要があるのです。ご主人様」
そう言うジャンヌの横顔は、森の薄暗い影の中でも透き通って見えた。優しげな瞳の奥に、冷静な分析の光があった。
木を運んだり切ったりしているうちに、森の空気が変わり始めた。いつの間にか、視界の奥がゆらゆらと白く染まりつつある。
「……霧?」
俺とジャンヌが同時につぶやく。最初は薄い煙のようだった。だが、次第に濃くなっていく。 まるで森の地面そのものから立ち上るように、白い霧があたりを満たしていく。霧が腕に触れると、冷たいというより重い。まるで何か粘度のある液体が肌を這うような、不気味な触感があった。
風が吹いているわけでもないのに、霧は揺れ、まるで呼吸するように膨らんでは縮む。気味悪いな。俺が眉をしかめていると、ジャンヌが声を落として言った。
「これは……普通の霧ではありません。水分が重すぎます。それに、音の反響が妙です。霧が……音を飲んでいるような……」
たしかに、森の鳥の声すら聞こえない。音が霧に吸われているかのようだ。ヴィヴィアナは霧に手を差し出し、眉間に皺を寄せる。
「……魔力反応がある。しかも自然の魔力じゃない。揺らぎ方が……人工的。誰かが作り出した霧よ、これ」
「嫌なこと言うなよ……」
背中がじりじりと熱くなる。まるで霧がこちらを観察しているような、そんな“視線”のような気配を感じた。
「シンジさん! 撤収しましょう! この濃さは危険です!」
ガリベンの声が森の奥から飛んできた。森に居た全員が即座に撤退の判断をし、工具をまとめ、森を急ぎ足で抜けていく。森を抜け、街へ向かう通りへ出た瞬間、俺たちは思わず立ち止まった。
「……なんだ、あれ……?」
街の中心広場に、黒い影が突き立っていた。それは巨大な黒い石——光を歪めるような材質の、奇妙なモノリスだった。高さは俺の2倍、いや3倍はある。
まるで雷に打たれた地面から、黒い刃が生えたような異形の存在感。磨かれすぎた鏡面のようなその表面には、広場へ集まった市民たちの不安な顔が歪んで映り込んでいる。
誰もが「これは何なのか」と問いたげな目で石碑を見つめ、ざわめきが地面を這う虫のように足元へまとわりついた。ガリベンは表面の碑文に触れた指先をゆっくりと離し、その表情に、普段は見せない影を落とした。
「この碑文は古代エルフ語で書かれています。“二つの神を一つにせよ。さすれば、救われん。”極めて宗教色の強い文言です」
彼の言葉は静かだったが、その静けさが逆に不穏を増幅していく。まるで誰かが、広場全体の空気の中へ冷たい針を混ぜ込んだかのようだ。
俺は眉をひそめながら石碑を仰ぎ見た。見れば見るほど不安が喉に引っかかる。碑文はたった一行なのに、その背景に広がる意味の深さが底知れない。
「なあ、“二つの神を一つにせよ”って……どういうことだと思う?」
二つの神とはおそらく、この街で人に信仰されている女神クラトスとエルフ族の女神デーモスのことだろう。そこまではわかる。だがそこから先がわからない。ジャンヌが控えめにモノリスへと近づく。
「対立する信仰を調和させる、ということなのでしょうか。平和の神デーモスと、戦いの神クラトス……その二柱の教義を統合するとか?」
碑文を解読していたヴィヴィアナが立ち上がり、俺たちの方へと向き直る。
「それ、やった瞬間に双方の信者が暴動起こすでしょ」
広場には、クラトス教徒とデーモス教徒が混じっており、どちらも不穏そうに相手陣営を見ている。それだけで、碑文の危険性が伝わってきた。
宗教戦争。想像するだけで寒気が背筋を走る。そこへアテナが息を巻いて前に出てきた。金髪が風を受け、光の筋を描く。
「ここは、わ・た・し の出番じゃないかしら? ほら、私って女神でしょう? つまり、二つの神を一つにする存在……アテナ教を立ち上げろっていうお告げじゃない?」
「何でも自分中心にするな」
この女がしゃべる時だけ、妙に空気が和らぐのが腹立たしい。議論が錯綜し始めたところで、遠くの通りから、砂埃を蹴り上げながら走る男の影があった。男は息を切らし、顔は死人のように青白く、額の汗は乾かずに流れ落ちるまま。
その動きは明らかに尋常ではなかった。走るというより逃げてきたという形容がふさわしい。商人が広場へ飛び込むと、地面に膝をついたまま震える指で街門の方角を指さした。
「……霧……街道が……霧で……!まるで……うねる壁のように……!」
声は震え、言葉が息に絡まって、まるで喉の奥で千切れるような断片にしかならなかった。しかし、その断片だけで十分だった。広場のざわつきは、一気にざわめきへ変わり、さらにざわめきは恐怖へと形を変えた。石畳が揺れるほどの動揺が波紋を広げる。
(まさか……さっきの森の霧と同じ?)
胸の奥で小さな心臓がもうひとつ脈打つような、不気味な感覚が湧きあがる。




