街が包囲された日
俺たちは商人を先頭に、広場を駆け抜け街門へ向かった。遠くで鐘が鳴っている。音は風にちぎれ、霧に溶けるように途切れながら響いた。
街門が見えてきた瞬間、足が止まった。そこには白い壁があった。いや、壁のような霧が、街の外へ伸びていた街道を完全に覆い隠していた。
霧はただ白いだけではない。濃度が異常だ。乳白色の液体が空中に固まったようで、奥行きがあるのに、前が見えない。表面がわずかに波打っている。
耳がツンと痛み、霧が空気を押し潰すように密度を増しているのが分かった。
(……息が……重い)
霧に近い場所では、空気を吸うだけで肺が冷たく締め付けられ、喉元に氷の爪が触れたような感覚が走った。門番たちの手から槍が震え、金属がかすかに触れ合う音が不吉に響く。
ヴィヴィアナは霧へ手を伸ばしかけ、しかし寸前で止めた。目が細められ、銀色の光が宿る。
「……この霧、魔力が……反転してる……。普通の結界は外から内へ向かって圧力をかけるのに……これは逆。内側から外を拒絶している。まるで……ここだけ世界を切り取るためのドームみたい」
言葉は淡々としているが、その声にはわずかに震えがあった。ジャンヌも静かに霧を見つめる。彼女の手はかすかに震えていた。普段のジャンヌからは信じられないほどの緊張だ。
アテナは声も出せず、俺の背後にぴったり貼りついて震えている。体温が伝わってくるほど近くにいるのに、彼女自身の体温はいつもより低く感じた。
(……マジでやばいな、これ)
そう思ったところで、商人と話していた背後のガリベンが言った。
「街が封鎖された可能性があります。危険ですが……調査が必要です」
霧の異変を調べるため、冒険者を中心に俺たちは調査隊を結成することになった。カリスさんが俺に携帯用ポーションを渡す。
「注意しろよ。シンジ君。20年この街に住んできたがこんな現象は初めてだ」
正門の前は、湿った冷気が石畳の隙間から滲み上がるように漂い、霧の匂いがまだ路地の奥にしがみついていた。
街道の上に立つと、その向こうは乳白色の靄が平原を覆い尽くし、世界の境界線を抹消したように見えた。
(……ここから外に出れば、本当に隣町へ行けるのか? いや、その前に、この霧は道として成立するのか……?)
そんな不安が胸の奥で静かに渦巻く。その横では、アテナが門番の詰所にしがみつき、全力で拒否していた。
「ムリムリムリ!! やっぱり行きたくないわ!! あの霧、絶対に何かいるって! ほら、そんな雰囲気だもん!」
「動物裁判の時、散々迷惑かけたのはお前だろ!? こういう時に役立てよ!」
俺が腕を掴むと、アテナは猫のように反り返った。
「やだぁーーーーっ!!」
ジャンヌが深いため息をつき、その両脇を挟むようにアテナの肩へ手を添えた。
「奥様、どうか諦めてください。街の未来は、私たちの行動にかかっているのです」
アテナは涙目になり、俺とジャンヌに両脇を掴まれながら、まるで処刑場へ向かう罪人のように引きずられていった。
ヴィヴィアナは霧の方へじっと目を凝らしていた。朝の光を吸い込むように揺れる白濁の壁、その表面には微弱な魔力の脈動が見える。
「……やっぱり、この霧、時間が経つほど濃くなってる。“自然現象”ではありえない波形ね。完全に、何者かが発動している結界よ」
彼女の声が静かに落ちると、霧がわずかに震えたように見えた。
門をくぐると、霧はすぐに俺たちの視界を奪い始めた。最初は薄絹のように足元から漂い、しばらく歩くと、顔の高さまで白い膜が広がる。
靴の底が草を踏む音。湿り気を含んだ風が、首筋に触れる感触。それ以外の音は何一つ存在しない。世界が消えていくみたいだ。霧には匂いがなかった。だからこそ不気味だ。土の匂いも、植物の青臭さも消されている。
無味無臭の白い空間に、ただ自分たちの呼吸音だけが響く。アテナは俺の背にしがみつき、半ば泣きそうな声で囁く。
「ねぇ……これ、本当に進んでるの? 同じところを歩いてる気がするんだけど……」
「黙って歩け。怖がる暇があるなら、前見ろ」
「前なんて見えないわよ!!」
ジャンヌは足場を慎重に確かめながら周囲に目を配る。
「ご主人様、この霧……方向感覚が狂います。まるで、道そのものが変形しているようです」
ヴィヴィアナは魔力探査の魔法を繰り返していたが、やがて魔力の流れを読み取るたびに顔を曇らせた。
「……嫌な予感しかしない。魔力の流れが“円”を描いてる。本来真っすぐの地形なのに、魔力が戻ってくるなんて……」
「えーと、つまり?」
「ループしてる。この霧の中は、一本道でも、ぐるっと回って街へ戻る構造になってる」
閉じ込めるための迷路かよ。霧は生きているように呼吸を続け、俺たちを取り囲んだまま、どこまでも沈黙を続けた。
おれたちはひたすら歩いた。それでもどれだけ進んだか分からない。空の色は変わらず白い。地面は泥の感触を持ちながら形を視認できない。
人間は視界を失ったとき、歩行の速度が落ちる。気づけば呼吸は浅く速くなり、身体の中心が冷えていくような感覚に襲われる。そのすべてが、この霧のせいだった。
俺はある地点で足を止めた。胸の奥に、原因不明の焦燥が渦巻く。
「……なぁ……本当に進んでるのか、これ?」
返事は霧に吸われ、虚空に溶けていった。沈黙が落ちる。その沈黙の中、霧の奥で何かが蠢いた気がした。見られている?そんな錯覚に囚われた瞬間、背筋が冷たい針で刺されたように痛んだ。
「奥様がいません!!」
その声が霧に吸われながらも、鋭い刃物のように響いた。
(……嘘だろ!? さっきまで俺のすぐ後ろにいたのに!?)
俺はすぐに周囲へ声を張り上げた。
「アテナーーーッ!!」
霧は何も返さない。不自然に静かだ。俺たちの声が反響しない。吸い込まれていく。焦りで喉が焼けるように乾き、胸が激しく脈打つ。
霧の中でも、ヴィヴィアナが焦っているのがよくわかった。
「……まずいわね。感覚ごと切り離された……?」
俺たちは半ば自棄のように叫びながら、霧の中へ走りこみ、そして、ほんの数秒後、正門の前にいた。
(は……? なんで……俺たち戻って……)
さっきまで平原だった場所が、いつの間にか硬い石畳に変わっている。門の上の見張り台にいる兵士も、呆然とこちらを見ていた。
「シンジ君!」
霧の中から甲冑の金属音が響き、やがて白い壁を割るようにしてひとつの影が現れた。カリスだ。その腕に、アテナが抱えられていた。アテナの身は小刻みに震えており、頬は血の気が引き、唇はわずかに青紫色を帯びている。
「君たちとは別ルートを調査していたところ、うずくまっている彼女を見つけた。……ひどく怯えていたぞ」
アテナは震えた声で、かすれた言葉を紡ぐ。
「……いたの……霧の向こうに……“誰か”が……私を……呼んでたの……手を伸ばして……そして……」
その言葉に、俺の背筋が氷の板で押されたように強張った。
(誰かって……何だよ……! そもそも、この霧にそんな存在がいるのか!?)
しかし、アテナの声はそこから急変した。ふいにアテナは跳ねるように起き上がり、霧の方角を見つめた。その表情には恐怖はなく、陶酔にも似た光が宿っていた。
「……分かったわ……神が……私に啓示をくださったのよ……!」
空気が一瞬で変わった。
「私は救世主になる。この街を救う“唯一の女神”になるのよ」
「お、おい……。何言ってんだお前……正気か……?」
だがアテナは耳を貸さない。自分の胸に手を当て、目を閉じ、まるで見えない何かと会話しているかのようだ。
「……この霧は罰なのよ……罪を犯した私達への……」
アテナがそう呟いた時、霧が小さく震えた。脈拍のような振動が走り、霧の表面が内側に引っ張られる。空気が一度だけ押し返され、次の瞬間、冷気が爆発するように吹き出す。
その冷気は、氷点下の風が針に変わったかのようで、頬に触れた瞬間、痛みが走った。
(やばい……これは……尋常じゃねぇ)
背後で誰かが息を呑む音。誰かが足を引きずる音。誰かの心臓の鼓動。外へ出ることが不可能であると、霧の存在そのものが告げていた。
エルフェンウッドが——世界から切り離された。




