豚野郎
「ほらね? 私は嘘をついてないって言ったでしょう」
俺は混乱していた。じゃあ最初に鳴らなかったのはベルが本当に壊れていたから?
いや、それよりも。
「……どういうことだよ」
思わず呟いた、その瞬間だった。兵士たちが人垣を割って現れた。
「逃亡していた豚野郎を拘束して、お連れしました」
「ご苦労」
ケーガンが、当然のように言った。そこから現れたのは縄で後ろ手に縛られた一人のオークだった。
大柄な体。分厚い腕。だが、武器は持っていない。身に着けているのは鎧ではなく、行商人がよく着ている毛皮の外套だった。
「……は?」
俺は目の前の光景が理解できなかった。豚が被告席にいる。だから俺たちはずっと豚を被告とした動物裁判をやっているつもりだった。
なのに、なぜ、 オークがここに? アテナは、そのオークを指差し、鬼の首を取ったように言った。
「私が見た豚野郎とはこいつのことよ。こいつこそ、黒ミサの主犯よ!」
一瞬、意味が分からなかった。だが俺の脳裏に裁判冒頭のアテナの証言が思い浮かんだ。
「わたし……見たの……夜の森で……あの豚野郎どもが集まり、悪魔と契約する光景をを!」
次の瞬間、頭の中で言葉が順序立てて組み替わった。豚。豚野郎。罵倒語。オーク。そして、理解した瞬間、俺はほとんど悲鳴みたいな声で叫んでいた。
「わかるか、そんなもん! 豚が被告席にいて、豚野郎なんて言われたら、誰だってそっちを指してると思うだろ!」
喉が痛い。肺が苦しい。
「アンフェアなミステリー小説みたいなこと言いやがって!」
広場中の視線が、俺に突き刺さる。だが、止まらなかった。アテナは肩をすくめる。
「でも、嘘はついてないわ」
――その通りだ。嘘じゃない。だからこそ、最悪だった。オークは青ざめた顔で前に出る。
「お、俺は……」
震える声で、必死に弁解する。
「俺はこの街に家畜を売りに来ただけだ! 夜になって寒くなったから、焚火をして……豚と一緒に温まっていただけなんだ!」
ヴィヴィアナがベルを見る。
「宣誓して」
オークは唾を飲む。
「俺は悪魔と契約なんてしていない。黒ミサなんて知らない。疫病とも何の関係もない」
――チン。鳴った。群衆がざわめく。誰かが言う。
「じゃあ……本当に無実なのか?」
俺も頷いた。
「疫病との因果関係も、ねえ」
焚火。夜の冷え込み。家畜と一緒に暖を取る商人。どう考えても、黒ミサでも悪魔契約でもない。
ヴィヴィアナは腕を組み、視線を細めている。ジャンヌは静かに祈るような姿勢を保っていた。
俺はというと、内心で何度も同じ言葉を反芻していた。これ、無罪だよな。
少なくとも、裁判としては。だが沈黙を破ったのは、ケーガンだった。彼は、オークをまっすぐ見据え、低く言った。
「疫病が流行した時期、この被告は街にいた。よって、因果関係が疑われる」
ヴィヴィアナが即座に反応した。
「時系列を整理しましょう」
彼女の声は、淡々としている。
「疫病の初期感染は、このオークの来訪以前です。原因より後に来た存在が、原因になることは決してありません」
俺は思わず口を挟んだ。
「このオークだけ時間が逆行してんのかよ」
小さな笑いが起きた。ケーガンは、最後の一手を打つ。
「だが、オークは、本質的に危険だ」
その言葉が出た瞬間、俺ははっきりと分かった。今のはまずい。これは理性ではなく感情に訴える論証だ。事実、ケーガンの近くの男が身を乗り出して聞いている。
「この街を支配した歴史がある。再び災厄をもたらす可能性は否定できん」
群衆が、納得するように頷く。理屈ではなく、記憶が反応している。だがそれは、裁判では使ってはいけない。
ヴィヴィアナが、冷ややかに言った。
「それは種族の歴史です。今、裁いているのはこの個人です。それを理由に有罪とするなら、この街を訪れたオークは生きているだけで、有罪になります」
完全な沈黙。誰もとっさには反論できない。ヴィヴィアナは裁判官に向き直った。
「さて……オークの潔白はほぼ確定したわね。裁判官?」
裁判長は小槌で机を二度叩き、重々しい声で言った。
「証人よ。最後の質問です。あなたが見たのは本当に黒ミサの光景でしたか?」
アテナは、唇を噛み、肩を震わせ、ついに言った。
「……違うわ。私の勘違いよ」
アテナは証言台で、両手を胸に押し当て、ついに涙声で叫んだ。
「き、聞いて! 私だって……怖かったの……! みんなが疫病で倒れて、私が犯人にされるかもしれないし……! だからっ……!」
彼女のドレスの金の刺繍が震え、長い金髪が涙に濡れて頬へ貼りつく。しかしどれだけ一流の女優でも三流の脚本では限界があった。今のアテナの姿は、ただの言い逃れにしか見えない。
「お前が怖かったのは分かるけど……だからって豚に罪押しつけんなよ」
「だって……だって……! オークと豚なら誰も擁護しないと思ったのよ!」
「最低だな、お前!? マジで反省しろよ!」
アテナが反論しようと口を開いたとき、豚が「ブヒィ」とひと鳴きした。それはどこか誇らしく、まるで正義が勝ったとでも言いたげな響きだった。市民たちの間から、くすくすと笑いが漏れ始める。
豚は胸を張るように前脚を上げ、堂々と証言台のアテナを見上げた。その姿に、アテナがぐぬぬと歯を噛む。
「な、なんで豚に見下されてるのよ……!! ありえない……!!」
「いや、普通にお前より正直だからだろ」
裁判官が、ゆっくりと立ち上がる。顔は青ざめ、額には汗が滲んでいる。
「……判決を言い渡す。証人のアテナに対しては懲罰として街への奉仕活動を命ずる。また、本件において、被告のオークに有罪を認める法的根拠は存在しない。よって無罪とする」
その瞬間やっと、何かが終わった音がした。裁判としては、完全勝利だ。俺は、胸の奥で小さく息を吐いた。
だが、広場の空気はまったく晴れていなかった。どこかから、呟く声がした。
「……でもよ。オークだぜ?」
それだけだった。たった一言。だが、その一言は、今まで積み上げられてきた理屈を、音もなく崩し始めた。
「オークが、この街で何をしてきたか、忘れたのか?」
「ああ。疫病だって、やっぱり、偶然じゃないかもしれねえ。また支配される気かよ」
声が増えていく。低く、荒く、理屈を必要としない声だ。
さっきまで「豚が怪しい」と言っていた連中が、今度は何のためらいもなく矛先を変える。物語が終わった瞬間、人は次の物語を欲しがる。それが、もっとも都合のいい形で。
「静粛に!」
裁判官が小槌を鳴らす。だが、その音はもう、群衆のざわめきに飲み込まれていた。オークは青ざめ、肩をすくめるように巨体を縮めた。
「待ってくれ……」
震える声で、必死に訴える。
「俺は本当に、商いをしに来ただけなんだ。この街が独立したって聞いたから。疫病のことは本当に知らないんだ……」
独立。この街では独特の重みをもつその言葉が、逆に火を注いだ。
「だからって、信用できるか! オークはオークだ! 俺たちの敵だ!」
叫び声が飛び交う。俺は歯を食いしばった。
「待て、こいつは無実だって、分かってるだろ!」
だが、俺の声は、もう届かなかった。理屈は通じている。理解もされている。それでも選ばれない。ジャンヌが、俺の横で前に出る。彼女は頭を下げた。
「お願いです。この方に、罪はありません。どうか……ご慈悲を」
その姿に、一瞬だけ群衆が戸惑った。だが、すぐに別の声が重なる。
「じゃあ誰が責任取るんだ! 疫病で苦しんでいる連中はどうなる!」
責任。その言葉が出た瞬間、俺は悟った。もう、誰が犯人かなんて、どうでもいいんだ。必要なのは責任を押し付ける相手だ。そいつは別にオークじゃなくても構わない。
裁判官は、青ざめた顔で群衆と被告席を見比べていた。その視線が、オークで止まり、そして豚へと移る。俺はその瞬間を見逃さなかった。
「……本件について」
裁判官が、ゆっくりと口を開く。
「疫病の直接的な犯人を、特定することはできなかった。しかし、街の安全を守る必要はある」
群衆が、安全という言葉に反応する。安全。それは、いつだって正義と同じ位強い。
「よって、被告の豚については、疫病の原因である可能性を完全に否定できない以上」
俺は、思わず叫びそうになった。完全に否定できない? さっきまで散々、「証明できないものは裁けない」って話をしてただろ。
「……エルフェンウッドの外へ追放する。森へ放ち、二度と街へ近づくことを禁じる」
群衆の中から、安堵と満足が入り混じった声が漏れる。
「殺さないだけ、まだマシだ」「慈悲深い判断だな」
違う。これは政治的判断だ。無実のオークを裁けば、外交問題に発展しかねない。だが、誰かを生贄にしなければ、今度はこの裁判官が裁かれる。
森には魔物も、野盗もいる。家畜が、首輪も餌もなく、一人で生きていける場所じゃない。それは名前を変えただけの死刑だ。
「異議あり!」
俺は、堪えきれずに叫んでいた。
「それは裁判じゃねえ! 責任を押し付けてるだけだろ!」
ジャンヌも、一歩前に出る。
「無罪と認めた存在を、危険だからという理由で追放することは――」
アテナがうろたえ始めた。
「もしかして、私のせいでまずいことになってる!?」
「静粛に!」
裁判官が、小槌を強く打ち鳴らす。
「以上をもって、本審理を終了とする」
その一言で、すべてが終わった。法ではない。正義でもない。ただの都合だ。
兵士たちが動き、豚の体を持ち上げる。豚は鳴いた。不安そうに、短く。その声が、やけに人間の泣き声みたいに聞こえて、俺は歯を食いしばった。
「ざまあみろ、豚野郎」
その言葉が、俺の胸を抉った。さっきまで、オークを指していた言葉だ。今は、豚に向けられている。意味なんて、どうでもいいのだろう。
豚は広場の外へ連れて行かれる。夕方の風が吹き、木々がざわめき、霧が、ゆっくりと立ち上っていた。俺は、その背中を見送りながら、胸の奥に、重たいものが沈んでいくのを感じていた。




