真実のベル
裁判官席に立つ男は、神官でも貴族でもない。どこにでもいそうな、役所上がりの中年だった。
「それでは証言を開始する」
裁判官の声は震えていたが、必死に抑え込んでいるのが分かる。法廷の形だけは整えねばならない。そうでなければ、これはただの私刑になってしまう。
そのために用意されたのが、ひとつの魔道具だった。小さな鐘、いやベルだ。青白い金属でできたそれは、持ち手に細かな魔術刻印が施されている。
「真実のベルだ」
裁判官が説明する。
「宣誓した者が、自らの言葉を真実であると確信している場合、ベルは鳴る。意図的に偽りを述べようとすれば、ベルは沈黙する」
群衆がざわついた。魔道具に対する信頼は、この街では高い。特に、目に見える形で正しさを保証してくれるものは、今の不安な空気の中ではなおさらだ。
「便利な道具だな。裁判にはうってつけだ」
俺は小さく呟いた。ヴィヴィアナは腕を組み、冷ややかな目でベルを見つめている。
「便利? 違うわ。分かるのは、『本人が嘘だと思っているか』だけよ」
「同じじゃねえのか?」
ヴィヴィアナは俺を見る。何を言っているんだ、こいつは。そんな顔だった。
「全然違うわ」
「たとえば?」
「『私は絶対に賭ければ勝てる』って心の底から信じている馬鹿がいたら、このベルは鳴るでしょうね。例え賭けに負けるとしても」
「……お前、それ自分の話じゃないよな?」
「違うわ」
裁判官が咳払いして、順番に宣誓を促す。まずは検察側のケーガン。彼はゆっくりと前に出た。その顔には疲労の色が浮かんでいるが、瞳の奥には確固たる信念が宿っている。
「私は、神に誓い、この裁判において、自ら真実と信じることのみを述べる」
――チン。ベルが澄んだ音を立てて鳴った。
次は弁護側の番だ。俺は喉を鳴らし、前に出る。
「……俺は、俺の見たことと考えたことを、偽らずに話す」
――チン。ベルは鳴った。ヴィヴィアナも、それぞれ短く誓い、ベルは確かに応えた。
最後に証人。アテナが、軽やかな足取りで前に出る。彼女は一瞬、ベルを見下ろし、唇に自信満々の笑みを浮かべた。
「私は真実を語るわ。この街を救うためにね」
風が吹き、旗がはためく音だけが、妙に大きく響く。ベルは、鳴らなかった。俺は思わず、ベルとアテナを交互に見た。
「……おい。ちょっと待て! こいつ嘘つく気満々じゃねえか!?」
ざわめきが広がる前に、アテナが口を開く。
「壊れてるのよ。見れば分かるでしょ。安物だもの」
「さっき三回連続で正常に鳴ってたぞ!」
「だから今壊れたのよ」
「都合良すぎるだろ!」
裁判官が額を押さえた。
「証人。質問に答えてください」
「答えてるでしょう? わたしがわざわざ嘘つくはずないじゃない」
何の躊躇もなく、さらりと言い切った。群衆の中から、失笑が漏れる。そして、不思議なことに誰も強く反論しなかった。
独立運動を導いた女神の言葉は、それだけで空気を押し切ってしまう。裁判官は一瞬ためらった後、杖で地面を叩いた。
「わかりました……続行しましょう」
俺の胸の奥で、嫌な音がした。何かが、決定的にずれた音だ。ヴィヴィアナが、俺の隣で小さく呟く。
「……今の、聞いた? ベルは別に壊れてたわけじゃない」
彼女は視線を逸らさずに言った。
「ただ、真実か嘘か判断できなかっただけ」
「……どういうことだ?」
「本人にとっては真実だけど、事実とは違う可能性がある」
その言葉が、俺の中で引っかかった。本人にとっては、真実。裁判官が咳払いをする。
「証人のアテナよ。改めて、あなたの見たことを述べなさい」
アテナは舞台女優のように白い光を背負って法廷の中央に歩いてきた。彼女は涙の粒を光らせながら証言台に立ち、胸に手を当て、芝居がかった声を出した。
「わたし……見たの……夜の森で……あの豚野郎どもが集まり、悪魔と契約する光景をを!」
群衆が再びざわめく。被告席の豚が、鼻を鳴らして身をすくめる。
「彼らは円陣を組み……『ブヒィィィ……ブヒィィィィ……』と奇怪な呪文を唱え……その中心には生贄を燃やすための真っ赤な炎が燃え盛っていたわ! わたしは……恐怖で震えながら……『これは悪魔との契約に違いない!!』と確信したの……!!」
公開裁判というものは、劇場みたいなものだ。誰かが語り始めると、その言葉は勝手に物語になり、聞く側はそれを補完し始める。豚がいて、疫病があって、「豚が悪魔と契約した」という証言があれば脳は自動的に、最も分かりやすい絵を描いてしまう。
馬鹿馬鹿しいとしか思えなかったが、裁判所はいまやアテナの大げさな証言に完全に飲まれていた。
「黒ミサ……やっぱり豚は悪魔と契約していたんだ!」
市民たちは手に汗を握り、まるで舞台の悲劇を観劇しているかのような陶酔感に包まれている。
しかし、そんな熱に満ちた法廷のただ中で、冷めた声が、床を走る冷気のように響いた。
「質問、いいかしら?」
ヴィヴィアナだ。彼女は一歩前に出る。足取りは軽いが、視線は鋭い。ギャンブルに勝負を挑む時と同じ目だ。だが今回は、運に任せていない。
「な、なにかしら。ヴィヴィアナ。わたしの証言に……文句でも?」
「文句じゃないわ。ただ、事実と勘違いを区別しなきゃいけないと思って」
「なによその言い方……!」
裁判官が頷く。
「弁護側、質問を許可する」
アテナは不安げに喉を鳴らし、ヴィヴィアナの冷徹な視線から逃げるように顔をそむけた。
「証人の話には、致命的な前提の矛盾があります」
群衆がざわつく。
「悪魔と契約した、と言いましたね?」
「ええ、そうよ」
ヴィヴィアナは指を二本立てた。
「では確認します。悪魔との契約には、最低限二つの条件があります。一つ目は意思です。契約を結ぶと理解した上での選択です。二つ目は対価。何かを差し出すことです」
彼女は、被告席を指した。
「この被告、豚が、その二つを満たしたと、あなたは証言できますか?」
静寂が落ちる。俺は思わず豚を見た。豚は場違いな鳴き声をもらしながら、石畳の地面に鼻をこすりつけていた。意思? 契約? どう考えても、無理があるだろ。
「……魂を差し出したのだろう」
答えたのは、ケーガンだった。彼は一歩前に出て、低く言う。
「魂は、命ある生き物すべてに宿る。それならば、悪魔との契約は可能だ」
「そうですか。では質問を変えます」
ヴィヴィアナは淡々と返す。彼女は、被告席の豚に向き直った。
「この豚が、魂という概念を理解していると?」
どっと、笑いが起きた。落語の客席みたいな空気が広場を包んだ。豚は、相変わらず意味の分からない顔で鼻を鳴らしている。
「理解していなくとも、神の前では成立する、この豚たちが悪魔と契約したのだ」
ケーガンは譲らない。
「それは、神学です」
ヴィヴィアナが、はっきりと言い切った。
「今、ここで行われているのは裁判です」
その一言で、空気が変わった。神の名を盾にする論法が、いったん止まる。
「裁判で裁けるのは、行為と意図だけです」
ヴィヴィアナは、静かに続けた。
「意図を証明できない契約は、契約とは呼べません」
群衆の中に、戸惑いが広がる。さっきまで確信していた物語が、音を立てて崩れていく。俺は舌を打った。やっぱりだ。理屈を並べれば、豚が犯人なわけがない。だが同時に、嫌な予感もあった。人は、理屈で安心するよりも、感情で安心したがる。
「……なるほど」
裁判官が、額の汗を拭いながら言った。
「証人アテナ。あなたは、この豚が意思をもって悪魔と契約したと、断言できますか?」
アテナの証言は、論理的にはすでにボロボロだった。悪魔契約の定義は満たしていない。豚に意思も認識もない。疫病との因果関係も説明できない。
ヴィヴィアナの指摘は的確かつ正論で、俺ですら「これは無罪だろ」と思わざるを得ない。なのに、アテナは引かなかった。
「……だから言ってるでしょう!?」
彼女は、証言台の上で腕を組み、苛立ったように言った。
「私は嘘なんてついてないのよ」
群衆がざわつく。
「でもベルが鳴らなかったじゃないか!」「あんた嘘をついたのか!」
そんな声が飛ぶ。俺は内心で叫んでいた。いや、もう黙っとけ。これ以上やったら本当に詰むぞ。だが、アテナは違った。証言台の横に置かれていた魔導ベルに手を伸ばした。
「……なら、もう一度誓ってあげるわよ!」
その仕草に、空気が一変する。裁判官が慌てて口を開く。
「ま、待ってください! 許可なく再宣誓をしないように」
「黙りなさい」
ぴしゃり、と一言。アテナはベルを手に取り、高らかに宣誓する。
「私は、私の見た光景について、一切の偽りなく語ったわ」
――チン。澄んだ音が、確かに鳴った。一瞬、広場が静まり返る。
「……え?」
俺の口から、間抜けな声が漏れてしまった。
鳴った? 今、鳴ったよな? ヴィヴィアナが目を見開いている。裁判官も明らかに動揺していた。
じゃあ何なんだ。今までの反論は。 アテナが嘘をついていないのなら、本当に豚たちは悪魔と契約してたってのか?
アテナは、勝ち誇ったように口角を上げた。




