動物裁判
冒険者ギルドの奥、臨時の療養所に仕立てられた一角で、俺とヴィヴィアナ、ジャンヌは病人の介抱をしていた。
ジャンヌは慣れた手つきで水を運び、額の汗を拭き、短い祈りを捧げる。その所作は戦場よりも、むしろこういう場所でこそ完成されているように見えた。
「ご主人様、次のお水です」
「ああ、助かる」
ヴィヴィアナは壁にもたれ、患者の呼吸と脈を数えている。表情は相変わらず冷静だが、目の奥には疲労が溜まっていた。
ゴオン、と教会の鐘が鳴った。祝祭の合図でも、弔いの合図でもない。何かを裁くような鳴り方だった。
室内の空気が、目に見えない形で変わった。患者のうめき声が一瞬止み、介抱していた者たちが顔を上げる。
嫌な予感が背中を這い上がってきた直後、扉が乱暴に開く。
「シンジ! 大変だ! 裁判が……始まるそうです……っ!」
ガリベンだった。頬は青白く、額には汗が滲み、呼吸も荒い。
「裁判?」
「はい、街中を騒がせている疫病の犯人を裁くための……緊急裁判です!」
室内の空気が、目に見えない形で変わった。患者のうめき声が一瞬止み、介抱していた者たちが顔を上げる。ガリベンが息を整えながら続けた。
「被告は……豚です!」
「……は?」と思わず間の抜けた声が出た。介抱していたジャンヌの手が止まる。
「豚……というのは、その、動物の豚のことですか? あだ名とかではなく?」
ガリベンは、絶望しきったように頭を抱えた。
「アテナさんが……豚が黒ミサを開いていたと証言して、ケーガン神父が完全に信じてしまったらしく……裁判が、動物裁判が始まってしまいました!」
俺とヴィヴィアナは同時に言った。
「やりやがったなアテナ!」
俺たちは即座に飛び出した。ギルド職員には申し訳ないが、これは緊急事態だ。
街の通りはざわつき、市民が裁判所へ向かって走っている。湿った風が人々の動きにあおられ、埃を巻き上げる。
「悪魔の豚を裁け!」「これで疫病が収まる!」
耳の腫れが残る市民たちの顔は、恐怖と疲労で歪み、何でも信じたいという危うい空気が漂っている。ヴィヴィアナが肩をすくめて言う。
「こういうときは、民衆は一番バカになるものよ。ギャンブルで負けが続いたときと似てるわ。最後は救いの一手に飛びつく。破滅への道だと知らずに」
中央広場は、いつもなら市が立ち、子どもが走り回る場所だ。だがその日は違った。密集した人垣が、熱を持った呼吸を吐き出し、広場全体を生き物のように脈打たせている。
広場の中央には、急ごしらえの法廷が組まれていた。木箱を重ねただけの裁判官席。縄で区切られた証言台。そして被告席にいたのは、三頭の豚だった。
丸々と太った体。泥に汚れた蹄。鼻先をひくひくと動かし、落ち着きなく首を振っている。どう見ても裁判が必要な犯罪者の顔ではない。
「ブヒ……ブヒィ……」
豚は怯えたように鳴いた。俺はその表情を見て、胸の奥が痛む。
(この豚……何もしてねぇだろ絶対……)
だが市民の顔は真剣そのもの。
「こいつが悪魔と契約した豚か!」「呪いを撒き散らした!!」
ジャンヌは震え声で言った。
「ご、ご主人様……あの豚、本当に罪があるようには……」
「あるわけねえだろ……! アテナの適当証言に決まってる……!」
俺の脳裏には、あの女神の顔が浮かんだ。
(……アテナのやつ……絶対法廷でやらかす……!)
そのとき、広場のざわめきが一段、低くなった。人々が視線を向ける先。金色の髪が、日差しを受けて揺れた。
「……来たわね」
アテナだった。彼女はいつも通り、堂々としていた。疫病の影など、まるで感じさせない。金の装飾が施されたドレスは汚れ一つなく、足取りも軽い。まるで、これから始まるのが裁判ではなく、舞台挨拶であるかのように。
「皆、落ち着いて」
アテナが声を張り上げる。
「この街を救うために、真実を明らかにする必要があるの」
群衆がざわつき、そして静まる。女神の言葉には、まだ重みがあった。俺は嫌な予感を覚えながらも、彼女を見ていた。
どこかへ出かけていた、とは聞いている。だが、まさか。アテナは証言台に立ち、胸を張る。
「私は見たわ!」
その一言で、空気が変わった。
「夜の森で、あの豚野郎どもが集まって、悪魔と契約する光景を! 悪魔がこの街に疫病をまきちらしたのを!」
どよめきが広場を包んだ。豚野郎。その言葉と同時に、無数の視線が被告席の豚に突き刺さる。
「……やっぱり、豚か」
誰かが呟く。
「エルフが連れてきた家畜なんて、何考えてるか分からないからな」
そんな声が、あちこちから上がる。豚は、ただ鼻を鳴らした。言葉を持たない被告。それだけで、すでに不利だった。裁判官らしき男が壇上に上がったその時、一人の男が前に出た。クラトス教の神父ケーガンだ。
彼は広場を一瞥し、ざわめきが自然と収まるのを待ってから、淡々と口を開いた。
「裁判を開始する前に、確認事項がある」
その声は低く、感情をほとんど含んでいない。だからこそ、逆に不安を煽った。
「今回の疫病流行に関与したと見られる被告のうち、何匹かが、すでに逃走している」
ざわ、と人々がざわめく。俺は反射的に被告席を見た。縄で囲われた区画の中には、例の豚がいる。
「現在、兵士が捜索中だ。捕まり次第、順次この法廷へ連れてくる」
裁判官席に立つ男が、小槌を打つ。
「……静粛に」
その声には、威厳よりも疲労が混じっていた。役人特有の、場を収めようとするが収めきれない声だ。
「本裁判は、疫病流行の原因と見なされた存在を審理するためのものである」
原因と見なされた存在。ずいぶんと便利な言い回しだな、と俺は思った。裁判長は一度、被告席の豚に視線を落とし、それからゆっくりと広場全体を見回した。
「被告に対し、正式な弁護人を立てる必要がある。……誰か。この豚の弁護を引き受ける者はいないか?」
音のない沈黙だった。誰かが小さく咳払いをし、誰かが足を引き、誰かが子供の肩を抱いて一歩下がる。視線が交わされ、すぐに逸らされる。誰も、手を挙げない。
無理もないだろう。豚の弁護をしたら、次は自分が疑われる。
豚を守るという行為そのものが、この状況ではリスクだ。「あいつは豚の仲間だ」 「異端だ」そう言われる危険を孕んでいる。誰も声に出さない。だが、恐怖は共有されていた。正しいかどうかじゃない。安全かどうかだ。裁判長の額に汗が滲む。
「……いない、のか?」
その声は、確認というより、祈りに近かった。俺は、喉の奥がひりつくのを感じていた。
(このままじゃ……弁護人なしで、裁判が始まる)
それはもう裁判じゃない。結論をなぞるための儀式だ。隣で、ヴィヴィアナが小さく息を吐いた。
「……露骨ね」
「だな」
俺は短く返した。正直、関わりたくなかった。関われば面倒なことになるのは、火を見るより明らかだ。
だが、この光景を見て、何もしないのも、どうしようもなく気分が悪い。胸の奥に、重たいものが溜まっていく。
「……しょうがねぇ」
ほとんど独り言だった。それでも、声に出した瞬間、自分の中で何かが決まった。俺は一歩、前に出る。
「弁護人、いないみたいだし俺がやる」
「え……あいつ」「正気か?」
視線が突き刺さる。後悔が、ほんの一瞬だけ胸をかすめる。だが、もう止まらない。裁判長が、目を見開く。
「……あなたが、弁護を?」
「ああ。一応、冒険者だし」
理由は、完全に後付けだった。次の瞬間。背後から、やけに楽しそうな声がした。
「豚の弁護……ちょっと、面白そう」
嫌な予感がして、振り返る。ヴィヴィアナだ。
「おい、その理由で出てくるな」
だが、彼女はすでに一歩前に出ていた。
「安心して。学生時代、スピーチの授業で、私は暴走する言葉の輪転機と呼ばれてたのよ」
「全然安心出来ないんだよ!」
俺は頭を抱えた。ああ、ダメだ。こうなったらもう、止められねえ。裁判長は、俺たち二人を交互に見て、短く息を吸う。
「では、あなた方を弁護人として認め、これより、疫病流行に関する動物裁判を開始する!」
その宣言と同時に、俺の胸の奥で、何かが軋む音がした。これは、本当に裁判なのか?
だが、もう後戻りはできない。人は一度裁く場を作ってしまうと、そこから引き返すのが何より難しくなる。俺たちは、知らないうちにその渦の中心へと立たされていた。




