病気の原因
「なあ。これ、本当にただの流行り病なのか?」
俺の問いかけは、曖昧だが核心を突いたようだ。ジャンヌは一瞬考え込むように目を伏せた。部屋の空気が、少しだけ引き締まる。ヴィヴィアナがカップを置いた。
「仮定の話でいいのなら」
前置きしてから、淡々と続ける。
「症状は、高熱。耳周辺の腫れ。それから、数日の潜伏期間」
指を一本ずつ折りながら。
「アカデミーで習った症例の中だと、コウモリ由来の感染症、ウェスペル病が一番近い」
ジャンヌが、静かに頷く。
「私も……そう思いました」
その声は、パラディンとして看病の現場に立つ者の慎重さを帯びている。
「私が以前看病した方々の症状は、文献で見たウェスペル病と、とてもよく似ていました」
「とても、って言うと?」
「耳の腫れ方、発熱の波、意識がはっきりしている時間帯……」
ひとつひとつ挙げながら、最後に言葉を選ぶ。
「ただし、断言はできません」
その一言で、場が引き締まった。断言しない。けれど、否定もしない。ヴィヴィアナも同じ思いでうなずいた。
「既知の症例と一致している、というだけ」
そこまで言って、止まる。部屋に沈黙が落ちた。コウモリ。その単語だけが、空気の中に残る。焚き火の爆ぜる音。洞窟の天井をかすめる羽音。串に刺さった、黒ずんだ肉。脳裏に、ふと記憶がよみがえる。あの夜、平然と、豪快に、それを口にしていた人物。
「……あ」
思わず声が漏れた。
「どうしました?」
ジャンヌが心配そうに顔を向ける。
「い、いや……なんでもない」
俺は慌てて首を振った。だが、胸の奥に引っかかった不安は、消えてくれない。ヴィヴィアナは話を続ける。
「ウェスペル病は、飛沫感染と接触感染が主よ。特に、高温多湿で人が密集する場所では、爆発的に広がるわ」
彼女は一瞬、言葉を区切った。
「公衆浴場。宿屋。酒場。この街には、条件がそろいすぎているわね」
ジャンヌが、静かにうなずいた。
「……私が看病した方々も、頻繁に酒場や浴場へ通っていたそうです」
その声は、確信に近かった。部屋の中に、重たい沈黙が落ちる。誰もまだ、名前を口にしていない。
だが、全員が同じ方向を、無意識に避けるように見ていた。金色の髪の女神を。
アテナは、足を組んだまま、視線を逸らしていた。沈黙は、音がないからこそ重かった。言葉を発しない誰かの視線が、部屋の空気を少しずつ削っていく。
アテナは椅子に深く腰掛け、明後日の方向を見ている。その横顔は、いつも通り自信に満ちているように見えた。だが、俺には分かっていた。これはいつもの余裕ではない。考えないようにしている顔だ。
「……ウェスペル病、か」
俺は喉の奥に引っかかったものを飲み下しながら、言葉を選んだ。
「それって、どれくらい昔の病気なんだ?」
「発見されたのは数十年前」
ヴィヴィアナは淡々と答える。
「ただし、根絶したわけではないわ。条件がそろえば、今でも再流行する可能性は十分にある」
条件。その単語が、嫌なほど現実的だった。
「……具体的にその条件とは?」
ジャンヌが尋ねる。彼女の声は柔らかいが、逃げ場を与えない響きを持っていた。ヴィヴィアナは指を折る。
「第一に、媒介動物との直接接触。第二に、初期感染者が人の多い場所に出入りすること。第三に、衛生意識の欠如」
そこまで言ってから、彼女は一瞬だけ言葉を止めた。ほんの一瞬。だが、その間が致命的だった。
「……つまり」
俺は口を開いてしまった。自分でも、なぜ止められなかったのか分からない。
「最近、コウモリと接触した人がいて、その人が、浴場とか、宿とか、人の多い場所に行ってたら……理屈としては説明がつく、ってことか?」
部屋の空気が、ぴしりと凍りついた。ジャンヌが、ゆっくりと視線を動かす。ヴィヴィアナも、視線を逸らさない。そしてアテナだけが、妙に早口で口を開いた。
「な、なによそれ!」
明らかに早すぎる反応だった。
「そんな人、いるわけないじゃない! コウモリなんて、普通は触らないでしょ!? そんな野蛮なこと――」
途中で、言葉が詰まった。俺はその沈黙で確信してしまった。
「アテナ」
名を呼んだだけで、彼女の肩がぴくりと跳ねた。できるだけ、軽い調子で続ける。
「リザードマン討伐の時だ。その時、洞窟でさ……コウモリ、捕まえてたよな?」
「……捕まえてないわよ?」
否定は、あまりにも即座だった。
「ちょっと近くを飛んでただけ! 別に、食べたりなんて――」
言い切る前に、ジャンヌが静かに割って入る。
「食べていましたね」
その一言は、短く、冷たく、そして容赦がなかった。
「焚き火で軽く炙っていました。中心部は完全に生焼けでした。衛生的観点から言えば、最悪です」
「ち、違うわよ!」
アテナは勢いよく立ち上がった。椅子が床を擦り、甲高い音を立てる。
「私は女神よ!? 病気になるわけないじゃない!! それに、あれくらい冒険者にとっては普通よ!!」
「普通じゃねえだろ!」
俺のツッコミに対して、ヴィヴィアナの声は相変わらず冷静だった。
「さらに言えば、その後」
彼女は一瞬、言葉を選ぶように視線を伏せ、そして続ける。
「私たちは公衆浴場にも行ったわよね」
その事実は、誰もが知っていた。クエストで泥と藻まみれになったアテナのために公衆浴場へ行くことを提案したのだ。
「浴場は、湿度が高く、人が密集し、皮膚接触も多い。感染拡大の観点では、理想的すぎる環境ね」
俺は胃の奥がきゅっと縮むのを感じた。
「……つまり」
言葉にしたくなかったが、しなければならない。
「あくまでも理論上だが……アテナが感染の起点だった可能性があるってことだよな?」
アテナの顔から、血の気が引いていく。怒り、困惑、恐怖、そして、否認。
「そんなの……ただの仮説でしょ!? 証拠は!? 証拠はあるの!?」
ヴィヴィアナは正直に答えた。
「もちろん、ないわね。ただ――」
彼女はそこで、言いかけて口をつぐんだ。アテナが叫んだからだ。
「言わないで! 私は……私は悪くない! そんな役、押し付けないでよ!」
その声には、いつもの尊大さはなかった。ただ、必死だった。
沈黙が再び落ちる。仮にこいつが原因だとしても悪意があったわけじゃない。
むしろ、何も考えていなかっただけだ。それが一番、厄介だった。沈黙は、誰かが壊さなければ永遠に続きそうだった。
だが、その役目を果たしたのは理性ではなかった。
「……ふざけないで」
アテナの声は、低く、震えていた。怒りというより、恐怖に近い。
「あなたたち、私を疑ってるのね?」
誰もすぐに答えられなかった。否定も、肯定も、どちらも嘘になる。シンジは椅子の背に手をかけ、ゆっくりと立ち上がった。
「疑ってるっていうか……」
言葉を選びながら続ける。
「可能性の話をしてるだけだ。今は、原因を特定しないと」
「だからって!」
アテナは机を叩いた。茶器が跳ね、かすかな音を立てる。
「どうして私なのよ! 最近来たエルフ移民かもしれないでしょ!? 交易に来た商人かもしれない! それなのに、真っ先に私を疑うなんて許さないわ!」
その論理は確かにもっともだった。ジャンヌが一歩前に出る。その声は、祈るようだった。
「誰も、奥様を責めているわけでは……ただ、これ以上被害を広げないために……」
「黙りなさい!」
アテナは叫んだ。その声は、明らかに女神の威厳を借りたものだった。
「いいわ、私が証明してあげる。疫病の元凶が、私じゃないってことを」
そう言い捨てて、アテナは部屋を出た。扉が開き、廊下の冷たい空気が流れ込む。金色の髪と白いドレスが、階段の向こうに消えていく。
残された俺たちは、しばらく動けなかった。ジャンヌは、俯いたまま呟いた。
「奥様は、本気で怒っておられます……」
「……ああ。分かってる」
俺は頭を抱えた。逆切れだ。でも、ただの八つ当たりじゃない。
正論に追い詰められ、責任を背負わされそうになり、そして一番怖い未来を想像してしまった。だから彼女は、怒るしかなかった。
その怒りが、どこへ向かうのか。この時の俺は、まだ分かっていなかった。




