大流行
目が覚めた瞬間、まず思ったのは、体が妙に重いということだった。
布団の中で寝返りを打とうとして、思わず小さく呻く。筋肉痛とは違う。内側から熱を含んでいるような、鈍いだるさが、四肢の奥に溜まっている。
「……風邪か?」
呟いた声は、少し掠れていた。額に手を当てると、ひんやりしているはずの皮膚の下が、じんわりと熱を持っているのが分かる。高熱というほどじゃない。だが、平熱とも言い難い。
最近のことを思い返す。モンスターとの闘い。遠征。街の噂。流行り病。考えすぎて、疲れが出ただけだ。そう結論づけて、俺は布団から抜け出した。
宿の廊下は、朝の光が差し込んでいて静かだった。いつもなら、ジャンヌがすでに朝食の準備を始めている時間だ。鍋の音や、食器が触れ合う乾いた音が聞こえてくるはずなのに、それがない。
あのメイドは、早朝から動くことこそ喜びという変わり者だ。寝坊なんて滅多にしない。なのに、今日は、厨房は静かだった。鍋から立ち上るはずの湯気はなく、テーブルに置かれる皿の音もない。
しん、とした空気。家の壁が、まるで息を潜めているような感覚。嫌な予感がした俺はジャンヌの部屋へ向かった。
「ジャンヌ、起きてるか?」
ノックをしたが返事はない。廊下は静まり返っていて、扉越しには、布擦れの音どころか呼吸の気配すら感じ取れない。胸がざわつく。
「……悪い、入るぞ」
扉を開くと、ひやりとした空気が肌にまとわりついた。カーテンは半分閉じられ、淡い光が床を斜めに照らしている。
ベッドの上には、ジャンヌがいた。だが、その顔は真っ赤に火照り、額には大粒の汗が浮かび、呼吸は浅く、喉からかすかなうめき声が漏れていた。
「……ジャンヌ!?」
近づくと、さらに異変が見えた。耳が、腫れ、尖っていた。ふだんは丸く控えめな人間の耳が、皮膚の下で炎症を起こし、膨れあがり、エルフの耳のように細長く伸びていた。
赤く、熱を帯び、触れれば痛みが走るのだろう。その不自然さに、背中を冷たい指でつままれたような感覚が走った。
(なんだこれ……昨日までこんな兆候なかったぞ……?)
「……ごしゅ、じん……さ、ま……」
ジャンヌが薄く目を開け、俺を見た。その瞳は焦点が合っておらず、光が揺れている。喉は乾き、声はかすれ、いつもの優雅なメイドの面影は消えていた。
「待ってろ……すぐヴィヴィアナを呼んでくる!」
俺は急いでヴィヴィアナの部屋へ行った。ヴィヴィアナは朝が弱い。起きていないのは不自然ではないが、それでも嫌な予感が胸の奥に沈んだ。扉を開くと、甘いような、汗の匂いが部屋にこもっていた。ベッドの上で、ヴィヴィアナが毛布を抱え込むように丸まり、額に濡れたタオルを乗せてうなされていた。
「くっ、まだ賭け金が……返して……」
寝言がひどい。
「いや、それどころじゃないだろ……!」
近づくと、ヴィヴィアナの耳も、エルフの耳のように尖り、腫れあがっていた。**
ジャンヌと同じ症状。だとすれば、これはただの風邪ではない。脳裏に最悪の可能性が浮かぶ。
(感染症……? 街で流行してるってマリナさんが。でも、なんで耳なんだよ)
考えている暇はない。俺自身も少し熱っぽく、体が重い。時間が経てば経つほど、二人の容態は悪化するだろう。
俺は立ち上がり、深く息を吸った。アテナを引っ張り出すしかない。
アテナの部屋は、呆れるくらい頑丈にバリケードされていた。扉の前には椅子が逆さに置かれ、クッションが積まれ、何故か香草が敷き詰められ、外気を一切入れないための処置が施されている。俺は扉を壊れる位の勢いで叩いた。
「アテナ!! 出てこい!!」
「やだ!! 病気が流行ってるでしょ!? 私は絶対に部屋から出ない!!」
中から、強い拒絶の声。
「ジャンヌとヴィヴィアナが倒れた」
数秒の静寂。扉の向こうの空気が変わったのが分かる。アテナの声は、さっきよりずっと小さい。
「倒れた……?」
「高熱だ。耳も腫れてる。お前の看病が必要なんだ!」
「で、でも……私……」
「アテナ!!あいつら、お前の仲間だろ!!」
俺は思わず怒鳴っていた。すると扉の向こうで、アテナが息を呑む気配がした。
しばらくの沈黙。それから、「……わかったわよ」と鍵が外れた。
扉の向こうには、消毒ポーションを手にしたアテナが立っていた。目元は不安と決意が入り混じった表情。
「二人を看病してくれ。俺は薬を買ってくる」
アテナは大きく息を吸い、両袖をまくり上げ、ジャンヌとヴィヴィアナの部屋へ向かった。
ジャンヌとヴィヴィアナをアテナに託し、俺は薬を求めて外へ出た。扉を開けた瞬間、外気が肌に触れた。その風は、朝のものとは思えなかった。
本来なら朝露の冷たさと、街のパン屋の香りが混じるはずなのに、今日は、乾いた土埃の匂いと熱にうかされたような空気が漂っていた。
耳を澄ませば、遠くから、かすかな呻き声が風に乗って響いてくる。何かがおかしい。階段を降り、通りに足を踏み入れた瞬間、その違和感は確信へ変わった。石畳の道のあちこちに、人々が倒れていた。
毛布代わりに外套をかけられ、息を荒げ、ひどい汗をかき、苦しげにうなっている。そして、耳が腫れ、赤く膨らみ、エルフのように尖っていた。
「……くっ……あづい……みず……」
近くの男が手を伸ばすが、その指先は震え、力なく地面へ落ちた。通りの端では、母親が子供の額に濡れ布をあてている。その手も青白く、まるで自分自身も倒れる寸前のようだ。
街のすべてが、静かな悲鳴をあげていた。俺の喉が、乾いた音を立てた。
(……これは、完全に感染が広がってる……何が起きてるんだ……?)
石畳に倒れた男のかすかな息遣い、煮詰まった薬草の匂い、そして街を覆う異様な静けさ、そのすべてが、状況の深刻さを物語っていた。俺は薬局へと走った。
薬局の扉を押し開けた瞬間、鼻を突いたのは、薬草の匂いではなかった。
汗と、吐瀉物と、焦げついたような熱の匂い。人の体から立ちのぼる、生々しい匂いだ。店内は、ほぼ満員だった。棚の前に人が群がり、床には座り込んだまま動けなくなった者がいる。呻き声と咳が重なり合い、空気が濁っているのが分かる。
「薬……薬は……」
誰かが掠れた声で呟く。俺はカウンターへ向かったが、店主の姿を見て足が止まった。彼も、座り込んでいた。顔は青白く、目の焦点が合っていない。額には汗が滲み、呼吸は浅い。そしてやはり、耳が腫れていた。
「……もう、ない……」
俺が声をかけると、店主はかろうじて顔を上げた。
「昨日の夜で……全部、出た……」
「追加は?」
「……問屋が、動いてない……」
それだけ言うと、彼は再び項垂れた。棚を見る。空だ。瓶も、包みも、影だけが残っている。ここで立ち尽くしている暇はない。確か、オークとの戦いを準備する時、冒険者ギルドに医薬品を備蓄していたはずだ。
「待ってろよ……」
そう呟いて、俺は踵を返した。外に出ると、街の様子はさらに酷くなっていた。倒れ込む人。支え合う人。そして、怒鳴り合う声。
「俺は違う!」「近づくな! 耳を見るな!」
誰もが、自分の異変に怯え、他人の異変に恐怖している。耳。それが、すべての象徴になっていた。尖り始めた耳は、もはや単なる症状じゃない。「異なるもの」の印になりつつあった。
ギルドの前に辿り着いた時、俺は一瞬、足を止めた。扉が、開け放たれている。中から溢れ出す声と熱気が、外にまで広がっていた。
覚悟を決めて中へ入る。地獄だった。床には毛布が敷かれ、その上に人が横たわっている。冒険者も、市民も、区別はない。呻き声、咳、祈りの言葉。それらが混ざり合い、耳鳴りのように響く。
「水を……」「熱が……」
視線を巡らすと、中央に見覚えのある姿があった。
「……マリナさん」
クラトス教のシスターは、休む間もなく人々の間を行き来していた。顔色は悪く、目の下には濃い影。明らかに、徹夜だ。
「包帯を替えますね。大丈夫です。すぐ良くなります」
その声は優しかったが、足取りはふらついている。
「マリナさん!」
俺が声をかけると、彼女は驚いたようにこちらを見た。
「シンジさん……」
「薬はありますか? 俺の仲間が臥せているんです」
「……ほとんど、尽きています」
苦しそうに答えた。その時、低くよく通る声が、ギルド全体に響いた。
「愚か者たちよ」
入口に立っていたのは、クラトス教の神父だった。黒い法衣。手には、戦いの女神クラトスの紋章。彼は一歩前に出て、腕を広げる。
「これは、偶然ではない。神の罰だ」
その言葉にざわめきが強まる。
「異端の教えが街に蔓延した。混浴、共生、平和などという甘言」
神父の視線がゆっくりと室内をなぞる。
「信仰を忘れた結果がこれだ」
誰かが声を上げた。
「……本当に神の罰なのか?」
神父は、即座に答えた。
「疑うのか? この街が、どれほど変わったかを思い出せ」
そして、その視線が俺に向いた。
「――お前だ」
空気が凍りつく。
「シンジ。エルフと共に戦い、エルフの神像を受け入れさせた者。お前こそ、神罰を招いた張本人だ!!」
どこかで、息を呑む音がした。俺は、言葉を失った。反論は、頭にいくつも浮かぶ。だが、この空気の中ではどれも、火に油だった。
ギルドの空気が揺らめいたように見えた。群衆は疲れ、怯え、痛みに追い詰められている。そんな感情は、矛先さえあれば簡単に怒りへ変わる。人々の視線が俺へ集まった。群衆が、ざわめき始める。
「確かに最近、おかしかった……」
恐怖が、怒りに変わる瞬間だった。その時。
「神父様」
静かな声が、割って入った。マリナさんだった。彼女は神父に近づき、深く頭を下げる。
「こちらで、祈りの準備が整っています。どうか、こちらへ……」
一瞬の隙。彼女は、俺にだけ分かるように、視線で合図した。俺は理解した。彼女が、全てを引き受けるつもりだということを。
「……すみません」
小さく呟き、俺は人の隙間を縫って走った。背後で、再び神父の声が響く。
「逃げるのか!」
だが、追ってはこなかった。裏口を抜け、冷たい空気を吸い込む。胸が、痛い。息が、荒い。だが、立ち止まるわけにはいかなかった。
――薬を、持ち帰らなければ。裏の薬品室へ着くと、そこにはガリベンがいた。机いっぱいに薬草と本を広げ、青白い顔で慣れない手つきで調合していた。
「ガリベン……!」
俺を見ると、ガリベンはほっと息を吐いた。
「シンジか。良かった……無事で。今は混乱がひどい。説明してる余裕もなくて」
ガリベンが薬の包みを差し出す。
「薬が必要なんだろ?……早く届けてあげてくれ」
「ありがとう。恩に着るぜ」
「あなたも……気をつけてください。本当に危険な状態なんです、街全体が……」




