公共財
俺たちは、まだ営業している数少ない雑貨店のひとつに入った。店内は思っていたよりは人で溢れていたが、それでも活気はない。誰もが声を潜め、囁くように話している。
「毎日教会に行ってる奴は感染しないらしい」「クラトス神の怒りだとか……」
確証のない言葉ばかりが、湿った空気のように漂っていた。さっきの狼狽振りはどこへ行ったのやら、アテナはそれらを一瞥し、わずかに鼻で笑った。
「感情で動いているわね」
その口調には、軽蔑が混じっている。
「不安に支配されると、人は判断を誤る。こういう時こそ、冷静であるべきなのよ」
そう言いながら、彼女は保存食の棚へ向かった。
「これと、これ。それから……これも」
指差しは迷いなく、動きには一切の躊躇がない。袋に詰められていく食料の量を見て、俺は眉をひそめた。
「……アテナ?」
「なに?」
振り返った彼女の顔は、本気だった。
「最悪のケースを想定するのは、リスク管理の基本でしょう。人は起きてから後悔する。女神は違う。起きる前に備えるの」
その言葉だけを切り取れば、この店で一番理性的なのは、間違いなくアテナだった。……量を除けば。
「それ、何日分だ?」
「二週間。節約すれば三週間はいけるわ」
俺は無言で、積み上がった袋の山を見る。
「……四人分なんだよな? 一人分じゃなくて」
「そんなわけないでしょう。自分の分は自分で買いなさい」
彼女はさらに棚を見回し、保存薬、香料と手を伸ばしていく。
「誤解しないで。これは恐怖からの行動じゃないわ。合理的判断よ」
そう前置きしてから、彼女は続けた。
「私の体はね、公共財なの」
俺は一瞬、発言の意味を考えた。公共財という言葉、そんな使い方するやつ初めて見た。
「……公共財?」
アテナは真剣な顔で頷く。
「そう。私の信徒にとって、女神の存在は精神的基盤よ。それが損なわれることは、社会的損失なの」
言葉は立派で、論理も通っている。だが、彼女はその公共財とやらを守るために、今まさに棚を空にしようとしていた。
「……あら」
アテナの視線が、別の棚に移った。そこには、香油や美容液、肌を整えるための薬草が並んでいる。
「これも必要ね」
迷いなく、手に取る。俺は思わず声を上げた。
「まさか、それも必需品なのか!?」
「当然でしょう」
即答だった。
「勘違いしないで。女神の外見は、信仰の入口なの」
入口、という言葉が、頭の中で引っかかる。
「見た目が崩れた女神に、誰が祈るというの? 信仰の安定は、社会の安定。いわば、必要経費ね」
彼女は美容液を袋に入れながら続ける。
「肌荒れは免疫低下の兆候。つまり、これは予防医療でもあるの」
その理屈で通るなら、世の中のエステサロンは全部病院だ。アテナは、なぜか店内の人々に向かって言った。
「皆、落ち着いて。今は感情で動くと失敗するわ」
数人が怪訝な顔をしてこちらを見る。
「必要な物だけを、必要な分だけ。冷静な判断が重要なのよ」
アテナの足元を見ると保存食と薬草、香料、そして美容品が詰め込まれた袋が、いつの間にか床に積み上がっていた。この袋の山を越えなければ永遠にアテナに辿り着けないのではないか、と思えるほどの量だ。俺は内心で思った。言っていることだけ聞けば、完璧な正論。だが、視覚情報がすべてを台無しにしている。
俺がその山を見つめていると、横から静かな声がかかる。
「……奥様」
ジャンヌだった。彼女は手袋を外し、きちんと揃えた所作で、アテナの方を見ている。
「保存食と医療品の確保は、非常に合理的かと存じます」
「でしょう?」
アテナは即座に頷いた。味方を得たとでも言うように、わずかに胸を張る。
だが、ジャンヌはそこで一拍、間を置いた。その間が、やけに長く感じられた。
「ですが――」
その一言で、アテナの眉がぴくりと動く。
「仮に街全体が困窮した場合、この量は備えではなく、買占めと見なされる恐れもございます」
ジャンヌの声は、責める調子ではなかった。あくまで、事実を述べているだけだ。
「奉仕とは、分け合うことでもありますので」
その言葉に、店内の空気がわずかに揺れた。アテナは即座に反論しなかった。一瞬だけ、考えるような間がある。だが、すぐに口を開いた。
「それは事態が落ち着いている場合の話よ」
声は冷静で、論理的だった。
「今は違う。不確定要素が多すぎる以上、まず守るべきは核よ」
核、という言葉に、俺は小さく眉をひそめる。
「信仰の核、この街の精神的支柱。つまり――私」
堂々と言い切った。ジャンヌは反論しなかった。ただ、ほんのわずかに視線を伏せる。
「……承知いたしました」
その返答は、従順だった。だが、その声音には、どこか割り切れないものが残っていた。
買い物が終わった後、アテナは両腕に抱えきれないほどの荷物を持っていた。ドラゴンの巣から宝を持ち帰る盗賊のような満足げな笑みを浮かべて。
「見なさい! これで私はしばらくの間、無敵よ!」
パーティー拠点の宿に戻る途中、夕暮れの街は異様に静かだった。
店の扉の半分以上が閉まり、灯火の数は普段の三割ほど。通りすがる住民たちは口元にマスクのように布を巻いて、どこか急ぎ足で家へ帰っていく。
街の空気に重い膜が張られたようで、風の冷たさすらいつもより刺々しい。
アテナは荷物を抱えたまま、パーティー拠点の宿に向かって早足で歩いていた。その背中には妙な決意があった。
「というわけで、私は今日から感染症終息まで外出禁止措置を自分に課すわ!!」
「なに勝手にロックダウンしてんだよ……」
俺は額に手を当てた。
「だって、病気になったら美が崩れるのよ。命より重い損失じゃない」
「お前、価値観が完全にねじ曲がってるぞ」
「それじゃあ、さようなら! ご飯はドアの前に置いといて! パーティーメンバーでも直接の接触は禁止だからね! ジャンヌ、非接触給仕よ!」
アテナはそのまま宿の部屋の扉へ突進し、勢いよく中へ消えた。鍵の閉まる音が、やけに重く響く。
ジャンヌは部屋の前で立ち尽くしていた。
「奥様、一体どうしましょう……」
ヴィヴィアナは壁にもたれ掛かり、完全に呆れかえっている。
「放っておけば? どうせ数日もすれば飽きるわ」
「そうなることを願うしかないか……」
しばらく俺たちはアテナの扉を見つめていた。沈黙の重さだけが伝わってきた。街もアテナも、たった二日程度で、色んなものが急に変わってしまった。




