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念のため

 「変わった?」

 俺は眉を寄せた。

 

 「はい。最初は……軽い風邪だと誰もが思っていました。咳をする人が増えて、季節の変わり目だと。でも、一昨日あたりから、高い熱を出す人が、急激に増えたんです」

 そう言った瞬間、マリナさんの視線が少し揺れた。まるで、その光景を思い出すのが辛いかのように。一昨日あたりというと、俺たちのパーティーがワイルドボアー討伐クエストのために遠方に向けて出発した日だ。ちょうど、俺たちが留守中に病気が広まったことになる。

 

 「熱と、ひどい咳。それから……関節の痛みで歩けなくなる人もいて……」

 俺の背筋にひやりとした感覚が走る。マリナさんは、そっとカウンターに置かれた消毒ハーブの瓶へ視線を落とした。

 

 「街の人々は、最初は気にも留めませんでした。けれど、商人や料理店の人たちが相次いで倒れ……昨日には、浴場や酒場の従業員さんたちまで。行政と教会が人混みを避けるようにと勧告を出しました」

 

 その声は沈んでいたが、決して混乱してはいない。状況を理解し、それでも職務を続ける者の声だった。

 「その結果……多くのお店が営業を停止してしまいました。テルマエ・エルフェンのような大人数が集まる場所は、真っ先に休業命令の対象になってしまって……」

 

 アテナが絶望したように耳を塞ぐ。ジャンヌは心配げに口元を押さえ、ガリベンは申し訳なさそうに書類に目を落とした。

 俺は深く息を吸った。胸が重い。

 

 「それでギルドの職員も?」

 「はい。今ここにいる職員さんたちは、ほとんど動ける人を集めただけです。それでも足りなくなって……」

 

 マリナさんは困ったように微笑んだ。

 「ガリベンさんと私が、お手伝いに来ました。本当は教会の仕事も多いのですが……いまは街が大変な時期ですから」

 

 ガリベンが苦笑しながら眼鏡を押し上げる。

 「僕は数字を見るのが得意なので。職員さんが戻るまで、せめて混乱しないようにと」

 

 俺は彼らの姿を見て、ようやく街の異常さが実感として胸に落ちてきた。いつも冒険者たちの活気に満ちていたギルドは、静まり返っている。聞こえてくるのは紙をめくる音と、弱々しい咳払いだけ。

 

 この場所にいるだけで、街の体温が下がっているのが分かった。

 「……俺たちに何か手伝えることは?」

 

 思わず身を乗り出す。だがマリナさんは、そっと首を振った。

 「ダメです。あなた方は遠征帰りで、疲れているはずでしょう? 今無理をして感染してしまえば……この街に、さらに負担がかかってしまいます」

 

 その声の奥には、優しさと、強い責任感があった。

 「だから今日は休んでください。あなた方が無事でいてくれることが、一番の助けになります」

 

 俺は何も言い返せなかった。言えなかったというより、その真剣な眼差しに、軽々しく反論できなかった。

 

 静かなギルド。消毒薬の匂い。受付に立つシスターと書類を抱えたガリベン。

 ほとんど客のいないロビー。いつも明るい街の、空気が重く沈んでいるのがよく分かった。

 マリナさんの説明がひと段落した瞬間、ギルドの空気がわずかに沈んだように感じた。外では夕刻の冷たい風が吹き始めている。木製の扉の隙間から、その風がひゅるりと入り込み、室内の紙束の端をかすかに揺らした。俺たちはしばし沈黙した。

 

 それは、戦闘で疲れきった身体に「現実」という重石が落ちてきたような、薄い痛みを伴った沈黙だった。

 その沈黙を破ったのは案の定アテナだった。

 

 「か、感染症……!? ねぇシンジ、それって……死ぬ病気なの!? え、やだ、私まだ死にたくない!! 美容パックも使い終わってないのよ!?」

 

 その顔色は、リザードマンに追いかけられたときより真っ青だった。

 「いや、落ち着け。そこまで重症とは——」

 「でも熱が出るんでしょう!? 咳も出るんでしょう!? 関節痛!? 痛いのもイヤ!! 死ぬのはもっとイヤ!!」

 「だから落ち着けって!」

 

 アテナは全く聞いていなかった。腕を抱えて震えながら、周囲をキョロキョロと見回す。

 「こ、この空気……すでに不浄な気がする。わ、私の肺に、病原菌が……ッ!!」

 「いや、ただのギルド内の空気だよ!? 変なイメージで汚すな!!」

 

 アテナの妄想は完全に暴走していた。ヴィヴィアナが呆れたように言う。

 「ねぇ……あなた、つい最近、コウモリの生焼け食べてたわよね? それに比べたら、ここの空気なんて可愛いものじゃない?」

 「やめて!! 思い出すだけで気分が悪くなる!!」

 「いや、お前が勝手に食べたんだろ……」

 

 ジャンヌは必死にアテナを宥める。

 「奥様、深呼吸しましょう。落ち着いてくださいませ……!」

 「落ち着けないっ!! 清潔こそ女神の命!! 私は生き延びるために戦うわ!!」

 

 嫌な予感しかしなかった。そして、その予感は一分後に的中した。アテナは突然立ち上がり、指を天に突きつけた。

 「買い物よ。念のため、買い物に行きましょう」

 

 こいつの言う念のためという言葉ほど、信用ならない前置きもない。

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