街の異変
山道を下りきったところで、俺は深く息を吐いた。肺の奥まで溜まっていた重たい空気が、ようやく外へ抜けていく。
ワイルドボアー討伐。リザードマン討伐から数日後、他のパーティーとの競争に勝ち、やっと受注したクエスト。簡単かと思いきや、実際は泥と血と汗が混じった激戦だった。
相手がただの野生獣と思ったら大間違い。あいつらは質量の暴力の塊だ。
「今日の偏差も悪くなかったわね」
ヴィヴィアナが肩の力を抜きながら呟く。銀髪は泥でところどころ固まっていて、光も反射しない。
「奥様、ご無事ですか……?」
ジャンヌは振り返り、後方を心配そうに見つめた。
「……はぁ……汚れた。もうヤダ……」
アテナがいた。真っ白いドレスは茶色い染みでまだら模様になり、金髪は湿った犬みたいに張りついている。
そして、近づくと分かる。嗅覚を裏切りなく殴ってくる、強烈な獣の臭い。
「お前……その匂い……」
「なに!? 言いたいことあるの!?」
「いや……言わんでも分かるだろ……」
アテナは戦闘中、巨大ワイルドボアーが跳ね散らした泥を真正面で浴び、さらに転んで地面を三回転した結果、この惨状である。
「とにかく、風呂よ!! 風呂に入って、汚れも将来の不安も全部吹き飛ばしちゃいましょう! サウナに入って頭パーになれば全部忘れちゃうわよ!」
汚れはともかく、将来の不安については吹き飛ばさずに真剣に考える必要があるのではないか。そう言おうと思ったが、止めた。女性陣は俺に目もくれず歩き出していたからだ。疲れた足を引きずりながら、俺たちは街の大浴場へ向かった。
街へ戻ると、夕暮れの光が石畳を赤く照らしていた。焼けた土と市場の匂いに混じって、どこか消毒薬のような刺激臭が漂ってくる。
テルマエ・エルフェン――エルフェンウッド最大の大浴場。いつもは湯気と人声で賑わっているはずなのに。
「……妙に静かね?」
ヴィヴィアナが首をかしげる。近づくと、入口に木札が掲げられていた。
『当面の間、休業。市当局・教会の指導により』
俺は「は?」と思わずまぬけな声を漏らした。
扉は固く閉ざされ、浴場の中では従業員らしき男女が巨大な水甕をひっくり返して中身をぶちまけている。鼻を刺す薬品の匂いが風に乗り、目の奥を軽く刺激した。
「な、なにこれ!? 誰が私の美の復活を止めてるのよ!? まさか、アンチ? 私に嫉妬したアンチの仕業ね!!」
アテナがアホなことを言いながら、紙を引き剥がさんばかりに睨みつける。
「本当に意味が分からないんだけど。この大浴場はエルフェンウッドで一番市民に愛されている場所でしょ。閉めるなんて、まともな考えじゃないわ」
「まともじゃない事態が起こってる可能性があるけどな」
口ではそう言ったが、内心では俺も不安だった。この浴場は、エルフェンウッドの象徴みたいな場所だった。人間もエルフも、宗教も身分も関係なく、裸で同じ湯に浸かる。
良くも悪くも、この街の自由さを体現していた。それが、何の説明もなく閉じている。周囲を見回して、違和感はさらに広がった。通りを歩く人影が、明らかに少ない。普段なら聞こえてくるはずの呼び込みの声も、雑談もない。代わりに聞こえるのは、靴音と、遠くで鳴る扉の軋みだけだ。
「……静かすぎないか?」
戦争の前とも違う。祭りの後とも違う。街全体が、無意識に息を潜めているような感覚。理由は分からないが、嫌な予感だけが、じわじわと胸に溜まっていく。
「仕方ありません」
ジャンヌが静かに言う。
「まずは、クエストの報酬を受け取りに参りましょう」
彼女の声は落ち着いていたが、その落ち着きが逆に、この異変を現実のものとして突きつけてくる。俺たちは進路を変え、冒険者ギルドへ向かった。
ギルドの扉を開けた瞬間、嫌な予感は確信に変わった。人はいる。
だが、いつものギルドとは明らかに違う。酒場のような騒がしさも、クエストを巡る口論もない。あるのは、低く抑えた声と、書類をめくる音、そして空気に染みついた焦燥感だけだ。
「……あれ?」
受付カウンターを見て、俺は思わず声を漏らした。いつもの受付嬢がいない。代わりにそこに立っていたのは、ガリベンだった。しかも、その隣にはクラトス教のシスター、マリナさんがいる。
本来なら、ギルドの裏方に立つような二人じゃない。二人とも、修道服や普段着のまま、慣れない手つきで帳簿を捌いている。だが、その動きには無駄がなく、業務を止めないようにひたすら回している感じがあった。
「やあ、シンジ」
穏やかな声で手を振られるが、笑顔はいつもより薄い。
「ここ、ギルドだよな?」
「はい。ですが、少々事情がありまして」
マリナさんが顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
「ギルド職員の多くが流行り病で体調を崩してしまって。人手が足りず、お手伝いを」
「交渉役と祈る人が、事務仕事か……」
思わず呟くと、ガリベンは小さく肩をすくめた。
「役割は、状況次第ですから」
その言葉は軽かったが、現実は重い。周囲から、小さな囁き声が耳に入ってくる。
「……南区の方がひどいらしい」「森に近い地区から病気が広がったって」「エルフが多い辺りか……」
断定ではない。だが、言葉の向きは揃っている。胸にざわめきを覚えた俺はガリベンに近づき、小声で聞いた。
「……あいつらの話、本当なのか?」
彼は一瞬だけ手を止め、静かに首を振った。
「事実ではありません」
即答だった。だが、その後に続いた言葉は、どこか慎重だった。
「ただ……そう思いたくなる気持ちは、分かります」
「分かるのか?」
「不安は理由を欲しがるものですから」
彼は帳簿に視線を戻す。
「正しさより、安心の方が早く広まります」
そう言ってから、ガリベンが手際よく書類をまとめ、いつもの受付嬢の代わりに報酬を渡してくれる。
「こちらがワイルドボアー討伐の清算です。伝票はしっかり処理しましたので……ご安心を」
「ありがとう。助かる」
「いえ……僕は自分に出来ることをやっているだけですから……」
そう言うガリベンの横顔には、街を守ろうとする強い意志があった。
受付台の向こうで、マリナさんは困ったように手を胸元で組んだ。修道服の袖には、いつもより多くの紙粉がついている。ギルド内の空気は、いつもの喧騒が嘘のように薄く、代わりに消毒薬のような匂いがわずかに漂っていた。
「……実は、ここ数日で街の様子が大きく変わってしまったんです」
マリナさんは、俺たちの疲れを気遣うような柔らかい声で話し出した。




