説教
アテナは、白地に貴族御用達の有名ブランドのマークがついた、やたら高級そうな湯浴み着を身にまとっている。濡れた金髪が背中に張りつき、布越しでもはっきり分かる体の自己主張の強さに、思わず目を逸らした。
「……なに? その反応」
すぐ気づかれた。
「女神が湯浴み着を着て何が悪いのよ。むしろ神聖さが増してない?」
「増してるかどうかはともかく、視線の置き場に困るんだよ……」
隣ではヴィヴィアナが、静かに湯に足を入れていた。薄手の湯浴み着が体に沿い、銀髪が真っ白な肌にしっとりと濡れている。本人はまったく気にしていない様子で、湯の温度を確かめるように目を閉じた。
「……この布、魔力の拡散に向いてる」
「そういう問題じゃない」
そして最後に、ジャンヌ。彼女の湯浴み着は、アテナとは対照的に無駄のない実用一点張りのデザインだった。だが、姿勢が良すぎるせいで、スタイルの良さが逆に目立つ。
「ご主人様、お側に失礼いたします」
そう言って、自然な動作で俺のすぐ近くに腰を下ろす。
「入浴は団体行動が基本でございますので」
意味が分からない。アテナが、俺の様子を見てくすっと笑った。
「なに緊張してるのよ。さっきまで泥まみれで転げ回ってたくせに」
「それとこれとは話が別だ!」
湯気の中で、三人の気配が近い。近すぎる。この街の混浴文化、想像以上に精神力を削ってくる。
「ここ、蒸気浴もあるみたいよ」
アテナの一言で、俺たちはスチームサウナへ移動することになった。近づくと、石造りのアーチの向こうから、柔らかい蒸気が流れてくる。
扉を開けると、白い霧がふわりと流れ出た。霧の粒子が光を拡散させ、薄ぼんやりと暖かい洞窟に入る感覚に近い。
床は滑らないように加工された石で、ほんのり温かい。座席も半円形に配置され、自然と膝を突き合わせて語り合う場になる造りだ。
「わぁ……なんだか神殿みたい」
アテナが感嘆して息を漏らす。さっきまでの怒号と泣き言を言っていた女神とは別人のように、神々しい。
俺が座ろうとしたその瞬間、スチームサウナの扉が閉まり、視界は完全に白に塗りつぶされた。本当に、何も見えない。音だけが、やけに近い。
「……これ、どこに座るんだ?」
壁伝いに一歩、前に出た瞬間だった。柔らかい感触が、前腕に当たった。反射的に手を引っ込める。見えなくても分かる、湯浴み着の感触。その下の、あたたかな体温。
「……?」すぐ近くで、小さく首をかしげる気配。「……シンジ?」
ヴィヴィアナの声だった。
「わ、悪い! 見えなくて――」
「……問題ないわ。この視界なら、接触する確率は高い」
声の調子から判断すると怒ってはいないようだ。ほっとしたのも束の間、今度は背後から、ふわりとした圧力が伝わってきた。
「ご主人様、こちらでございます」
ジャンヌだ。やたらと距離が近い。
「……いや、ちょっと近くないか?」
「蒸気で迷われると危険ですので、メイドとして適切な距離です」
そう言って、自然に腕を取られる。柔らかい。いや、違うだろシンジ。邪なことを考えるな。そこへ、アテナの呆れた声が割り込む。
「まったく。人間って、裸になると途端に騒がしくなるのね。まあ、いいわ、あんたたちも早く、寛ぎなさいよ」
ジャンヌの隣に俺も腰を下ろすと、霧が晴れ視界がだんだん開けてきた。温かな湿気が体の芯まで入り込んでくるのが分かった。戦闘の疲れが、じわじわと溶けて床へ落ちていくようだ。
ジャンヌはメイドらしく膝を揃えて座り、少し上品な姿勢のまま霧を楽しんでいる。
「奥様、お肌に良いそうですよ。この蒸気」
「ふふ、当然よ。女神の肌は常に最高に保湿されるべきだわ」
「……お前、さっきまで泥と藻まみれだったよな?」
「そのことは忘れなさい!」
それを聞いてヴィヴィアナがくすくす笑った。ガリベンは蒸気に縁取られ、まるで森の哲学者みたいにぼんやりと座っている。俺たちはしばらく思い思いでサウナを楽しんだ。
スチームサウナを出ると、湯気の薄い脱衣スペースにひんやりした空気が漂っていた。石床に落ちる水滴の音が、しんと響く。その中で、まず声を上げたのはアテナだった。
「見て! シンジ! 私の髪、完全復活よ!!」
振り返ったアテナは、ついさっきまで湖水と泥と藻にまみれていたのが嘘のように、サラサラの金髪を揺らしていた。湯に溶け込んだ光を受けて、髪の束が金の糸みたいに輝いている。
「……お前、本当に人間離れしてるよな」
俺は思わず口を漏らした。
「女神ですから!!」
胸を張るアテナは、今日一番輝きに満ちていた。色々あったが、風呂は人を蘇らせる。
ジャンヌはタオルで髪を押さえながらにこにことしている。ヴィヴィアナもまんざらでもない顔をしている。
またここに来よう。そう思った矢先だった。石壁がびりっと震えるほどの大声が柔らかな空気を破った。
「この異端者どもが! 男女が混浴など、神への冒涜! クラトス神はそのような堕落を許さない!」
「……またですか」
ガリベンがため息をついた。湯気の向こう、反対側の通路にクラトス教のケーガン神父、筋張った腕と長い法衣の、あの頑固者が現れた。
だが、誰も反応しない。エルフの親子は「ああまた来たよ」という顔で湯に沈み、女性客は耳をぴくりとも動かさず、会話に熱中している。若い人間の冒険者は、「いい湯なんだから黙れ」と言わんばかりに遠い目。神父の声だけが虚しく浴場に反響する。
「混浴は堕落!! 不浄!! 肌を晒すなど、獣と何が違う!! 浴場をただちに男女――」
そこで、言葉が止まった。理由は簡単だ。湯気の中から、アテナが一歩前に出たからだ。
「なに? 説教?」
白い湯浴み着姿。濡れた金髪。そして、まったく隠す気のない堂々とした態度と体型。神父は、完全に硬直した。
「……な、その格好は……!」
「湯浴み着よ。これ以上何を着ろって言うの?」
アテナは本気で不思議そうだ。その横で、ジャンヌが一歩前に出る。
「規律を重んじるお気持ちは理解いたします。ですが現在、入浴中でございます」
丁寧すぎて、逆に圧がある。
「……奉仕の一環ですので」
なぜか付け足された。ヴィヴィアナは霧の向こうで首をかしげる。
「……宗教的禁忌と、混浴の相関性が分からないわ。聖典には体を清めよとしか書いてなかったはず」
神父が、珍しく声を荒らげた。
「お前に説明する必要などない! 混浴は秩序に反する! 信仰を軽んじる行為だ!」
その瞬間、ガリベンの声が、静かに響いた。
「では質問ですが、秩序とは、誰のためのものでしょうか?」
神父は、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……神のためだ」
「神が複数いたら?」
短い沈黙。湯気の中で、アテナが肩をすくめた。
「ほら。私もいるし」
神父は、視線の置き場を完全に失っていた。湯浴み着。混浴を楽しむ異端者。どう考えても、分が悪い。
「今日の説教は終わりだ……」
それだけ言い残し、神父は踵を返した。
浴場を出ると、外はすっかり夕暮れだった。赤紫の空に、街の灯りがぽつぽつと灯り始めている。人々の話し声。屋台の匂い。遠くから聞こえる楽器の音色。
エルフェンウッドの夜がゆっくり始まっていた。だが、その静かな街並みの中で一つだけ違和感があった。
浴場の横にあるデーモス教会の塔。夕方の鐘は、本来の時間をとっくに過ぎても、沈黙したままだ。
「……やっぱり、鐘は鳴ってないんだな」
俺は呟いた。ガリベンは横に立ち、少しだけ寂しげに微笑む。
「はい。自粛しているのです。人間たちというより、クラトス教への配慮という名目で」
「でもさ、そこまで気を遣わなくてもいいだろ。鐘の音くらい誰も気にしないぜ」
「そう思う人もいれば、神父のようにそう思わない人もいます。配慮は、時に自分たちを苦しめるものですが……争いを避ける手段でもあります」
ガリベンは塔の方を見たまま、静かに言葉を続けた。
「この街は変わりました。でも……変わってしまったからこそ、新しい摩擦も生まれるのです」
アテナが髪を乾かしながら聞いてきた。
「摩擦? なによそれ。汚れなら私には無縁よ?」
「いや、お前は体の内側が十分ダーティーだと思うぞ……」
俺は突っ込んだ。ヴィヴィアナはあくびをしながら言った。
「それよりも、早くご飯にしない? お腹減っちゃったわ」
「賛成! 肉食べましょ、肉!!」
アテナが即答し、
「奥様、栄養バランスの良いメニューにしましょうね」
ジャンヌが笑って賛同し、
「では、僕のおすすめの店を案内します」
ガリベンが前に立つ。いつも通りの賑やかな声が、大浴場からの帰路に広がった。静かな塔の沈黙だけが、夜の街に小さな影を落としていた。
エルフェンウッドは、確かに変わった。でもその変化は、まだ途中だ。そんな予感を胸に抱きながら、俺たちはゆっくりと街の中心へと歩き出した。




