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49話「縄文時代」

 土の匂いがした。湿気を含んだ柔らかな土の匂い。木々のざわめき、鳥の鳴き声。頬に触れる冷たい草の感触。目を開けると、空は青く、そよ風が枝葉を揺らしている。

 

 「……生きてる、のか?」

 

 声に力が入らない。身体を起こすと、すぐ横でアテナが倒れていた。金髪は草の上に広がり、ドレスはところどころ破けて、戦闘直後の荒れた姿のままなのに静かな森の光に照らされてやたら美しく見えた。

 

 アテナはまぶたを震わせ、ゆっくり目を開いた。

 「……ここは、どこ?」

 

 俺は辺りを見回す。木々。鳥。日差し。土。戦場の焦げ跡も、魔法の残り香もない。

 

 「少なくともエルフェンウッドではなさそうだな。ここがどこか確かめる方法はないのか?」

 

 アテナは上体を起こすと、ポーチから透き通る水晶を取り出した。女神専用の帰還座標コンパスらしい。

 

 「この水晶は今いる場所座標を示すの。そして、目的地が異界ならその座標へ転移させる」

 

 アテナは水晶を手のひらに浮かせ、そっと魔力を流す。瞬間、水晶が光り、内部に地図のような描写が現れた。アテナの瞳がわずかに揺れる。

 

 「……間違いない。この場所は、シンジの家の近くを示しているわ」

 胸の奥が熱くなった。

 「じゃあ……本当に……帰ってきたのか。日本に……俺の世界に」

 

 言いながら、鼻の奥がツンとする。喉が勝手に締めつけられる。アテナはふんと鼻を鳴らし、立ち上がって服を払った。

 

 「当然でしょ。だって女神アテナが導いたルートなんだから。天界の迎え、覚悟して乗りこなしたのよ?」

 

 いや、迎えは天界じゃなくてトラックだったんだけど。今は突っ込む気力がない。

 ここが日本なら、今俺たちが立っているのは近所の山だろう。俺の家までそんなに距離はないはずだ。

 

 木漏れ日の中を歩き出す俺たち。森は穏やかで、戦いの影が一欠片もない。土の匂い、鳥の声、風の音。懐かしいような、初めてのような、不思議な感覚。帰ってきた。まだ確信はできないのに、心は勝手にそう思ってしまう。

 

 「シンジ」

 

 歩きながら、アテナが急に俺の袖をつまんで引き止めた。振り返ると、アテナはいつもの尊大な顔でもなく、勝ち誇った笑顔でもなく不器用なくらい真っ直ぐな表情をしていた。

 

 「……あんた、本当に頑張ったわ。」

 アテナの声は、森の静けさより静かだった。

 「オーク軍との戦い、戦闘での指揮。全部あんたがやったのよ。あんたが……支えたの」

 

 胸の奥が熱くなる。戦いの途中では絶対に言ってくれなかった言葉だ。アテナは息を整えて、言葉を続けた。

 

 「だから、女神としてご褒美をあげる」

 「……ご褒美?」

 「いいから、目を閉じなさい」

 

 突然の展開に戸惑ったが、逆らう理由はない。俺は目を閉じた。一瞬の無音。そして、唇にやわらかい感触。息が止まった。身体が反射でビクッと跳ねる。落ち着いた森の空気の中で、自分の心臓のドクンという音だけがやけに大きい。ゆっくり離れていく感触。まぶたを開けると、アテナは照れ隠しのように鼻を鳴らしていた。

 

 「誤解しないでよね。これは労いであって、恋愛とかじゃなくて、その……あくまでも女神としての裁量的措置よ。本当はあんたの魂の世話なんか二度としたくないから」

 

 耳まで真っ赤だった。俺は笑ってしまった。泣きそうになったけど、笑った。

 「……ありがとな、アテナ」

 

 言葉がひとりでに溢れ出した。

 「いろいろあったけど、異世界で成長できたのは、お前のおかげでもある。せっかく日本に戻ることが出来たんだ。俺、大学もちゃんと行く。授業もサボらない。人生を全部やり直す。未来を変える。おまえが……みんながくれたチャンス、絶対に無駄にしない」

 

 アテナは驚いたように目を丸くしたあと、ゆっくり微笑んだ。

 「ちゃんと生きなさい。自分のことも、大事にしなさい。大丈夫よ、あんたなら出来るわ」

 

 その笑顔は強がりじゃなく、威張った誇りでもなく、まさに女神様のような笑顔だった。

 「まあ、そんなに心配してないけどな。なんたって、女神様のお墨付きなんだろ?」

 

 アテナは胸を張り、自身満々に宣言する。

 「当たり前よ! あんたの人生は間違いなく正しい方向に向かってるわ! このアテナが保証してあげる!」

 

 心が温かくなった。胸の奥が未来に向かって開けた気がした。空気は軽かった。聴こえるのは風と、鳥の声と、俺たちの笑い声だけ。本当に人生をやり直せる気がした。

 

 キスの余韻がまだ頬に残る中、木漏れ日の森の一本道を俺の家に向かって歩いていた。風、鳥の声、陽の匂い、平和そのものだ。

 

 「この先に家があるのよね?」

 

 アテナが言った。

 「多分な。山の中だから、麓に抜ければ民家が」

 

 そこで言葉が止まった。広がっていたのは民家じゃなかった。地面に掘り下げられた円形の住居。木と土で作られた屋根。歴史の教科書で見たおぼえがある。いわゆる竪穴式住居だ。周囲には土器らしき器と、干した魚や木の実。俺は何度も瞬きした。

 

 「……え? ちょっと待て」

 アテナはキラキラした目で言う。

 「なにこれ! 日本ってめっちゃオシャレな古代建築ブームなの!?私こういう土っぽいデザイン、写真映えするから好きよ!」

 

 「いやその発想どうなってんだよ!!」

 

 ツッコミすら追いつかない。帰還直後のテンションで思考が高速回転する。竪穴式住居。縄文様式の土器。明らかに現代日本と比較して文明レベルが低すぎる。でも、水晶の座標は俺の家を示している。

 

 「どういうことだ……?」

 考えている途中で、アテナのお腹が鳴った。

 

 「……ちょっと食べていい? もう無理なんだけどお腹が」

 「ダメに決まってんだろ。勝手に他人のものを食うな」

 

 止める間もなく、アテナは住居のそばの食材に手を伸ばしてパクッとしやがった。

 「うん、普通に美味しい。」

 「食レポすんな。ちゃんと、後で弁償しろよ」

 

 アテナに注意していると、背後の藪から、一人の女性が現れた。鹿皮のような服。腰に石包丁。素足。メイクなどしていない、素朴な顔立ち。次の瞬間、女性は俺とアテナを見て青ざめた。そして獣に出会った時のような顔で悲鳴をあげた。

 

 「ち、違う! これは誤解なんです!」

 

 俺が手を伸ばす前に、女性は全速力で逃走。森に悲鳴が反響して消える。鳥が一斉に飛び立つ。静けさが戻る。最悪な種類の静けさ。俺の背中に冷たい汗が流れた。

 「……アテナ。本当にここ日本なんだよな?」

 

 アテナは水晶コンパスを押しつけるように俺の目の前で突き出した。

 

 「しつこいわね! 何度確認しても座標は同じ! あんたの家の場所よ! データの読み取りに誤差なんてありえないの!」

 

 胸の鼓動が速くなり息だけが浅くなった。未来への希望は消えかかっていた。代わりにあるのは嫌な確信が形になり始めている感覚。帰還できたと思ったのはただの勘違いだったのか?

 

 森がざわめき始めた。遠くから聞こえる複数の足音。重く、急ぎ足で迷いはない。

 「やばいぞ、アテナ。さっきの女性が仲間を呼んできたみたいだ」

 

 アテナが肩越しに振り返り、顔を強張らせた。木々の合間に複数の影。槍、石斧、原始的な剣を持った男たちが次々姿を現す。完全に囲まれた。アテナが絶句する。

 

 「ちょっと待って!?  なんでいきなり戦闘になってるのよ!? ここ日本よね!?  先進国の平和的な話し合いとか無いの!?」

 

 その言葉が逆に現状の狂気を増幅させる。俺はゆっくり息を吸った。心臓は速いのに、頭は妙にクリアだ。

 

 「……アテナ。落ち着いて話を聞け。今、俺たちが居るのは縄文時代風の住居じゃない。縄文時代そのものなんだ、ここは」

 「……は?」

 

 座標、竪穴式住居、縄文土器、服装、槍の造形……結論は一つしかない。

 

 「俺達は縄文時代の日本に転移してきたんだ! そう考えれば全ての辻褄があう!」

 

 アテナが硬直し、呟いた。

 「ちょっと待ってよ。ある日突然、日本人が縄文的生活様式に目覚めた可能性だってあるでしょ? ほら、あそこに立ってるの、あんたのパパとママかもしれないわ」

 「ねえよ、絶対ねえよ!!!」

 

 木漏れ日が揺れて、影が震える。槍の穂先が光る。戦士たちが完全に俺たちを取り囲んだ。一歩、また一歩、弧を描きながら近づいてくる。槍の穂先が木漏れ日に光り、殺意はむき出し。足元の草が擦れる音さえ、刃物みたいに鋭い。

 

 アテナが俺の肩にぴたりと背中を寄せた。

 

 「ちょ、ちょっと! これマジで殺す気じゃない!? なんで!? 日本っておもてなしの国じゃなかったの!?おもてなしは? スマイルは? どこ行ったのよ!?」

 「いや、縄文時代におもてなしとかねぇだろ……」

 

 呻きながらも頭はフル回転していた。冷静に考えてみれば、俺たちは集落の食料を勝手に食べた見知らぬ異邦人。 即排除対象になってもおかしくない。

 

 槍の穂先がわずかに上がる。間違いない。突撃の合図だ。アテナが絶望の声を上げた。

 

 「どうするのよ!? 何か策あるの!? 私、この世界ではスキルは使えないわよ! もう戦うしかないわね!?」

 「落ち着け、アテナ。できるだけ、相手を刺激しちゃだめだ」

 

 俺は考えた。交渉するにも、言葉は通じないだろう。戦っても勝てそうにない。どうすればいい? 何をすればこの逆境をひっくり返せる? ……その瞬間だった。脳裏にあのシーンが蘇った。死んだ直後の記憶だ。

 

 【アイアムジャパニーズ】……無事、現実世界へ戻ってきた時に日本国籍を付与。 

 

 ご丁寧に俺が当時言ったセリフもちゃんと思い出した。

 

 「なんだよこれ。絶対一生使わねーだろ!?大体、俺は日本人なんだから、自動的に日本国籍を付与しとけよ。こんなゴミみたいな能力で命を賭けてたまるかよ!」

 

 だが、今なら、使い道がある。最悪のタイミングで、最悪の方向にだ。鳥肌が立つほど嫌な天啓だった。

 

 アテナが肩を揺らして叫ぶ。

 「策は何かあるの!? ねぇシンジ!!」

 

 俺は満面の自信を顔に貼りつけた。

 「……任せろ。今こそ、おまえからもらった、あのゴミスキルの出番だ」

 

 アテナの顔が絶望に染まる。

 「やめて!! ろくでもない予感しかしない!! あんたのひらめいた時の顔は世界で一番信用できないのよ!!!」

 

 俺は一歩前に出た。戦士たちの視線が俺に集中する。アテナが背後で泣きそうな声を出す。槍が構えられる。空気が張り詰める。逃げ道なし。後戻りなし。だからこそ、顔を上げて堂々と名乗った。胸を張り、声を高らかに。

 

 「――アイアムジャパニーズ」

 

 俺の言葉は森に響き渡った。何秒かの無音。俺もアテナも戦士たちも全員が固まる。空気が破裂する直前の不気味すぎる沈黙。そして、戦士たちが、雄たけびと共に突進してきた。世界が真っ赤に染まり、俺とアテナはまた異世界に転移した。

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