45話「黒船襲来」
爆炎の匂いがまだ鼻腔の奥に刺さっている。焼けた土の煙が靴底にまとわりつき、風に乗って焦げた匂いが街の壁まで染みる。
地表は赤く歪み、溶けたような黒い筋が戦場一面に走っていた。さっきまでそこには敵軍がいた。オーク軍の陣地だった。だがいまは跡形もない。
《インフィニット・バースト》が、全てを飲み込んだのだ。遅れて、その事実に感情が追いつく。
「……勝ったぞ!!」「オークを……追い払ったんだ!」「街が守られたんだ!」
次々に声が重なり、悲鳴のような歓喜が戦場全体を飲み込んだ。泣きながら抱き合う者、武器を掲げて叫ぶ者、へたり込みながら笑う者。誰もが、生き残ったことをようやく理解した。
アテナは勝ち誇った笑みで、斧を持ち上げる。
「いい? これが神の力よ! 私に逆らえばこうなるって、よく覚えておきなさい!」
その高飛車さですら、いまは歓声と喝采を浴びた。市民も兵士も、涙と泥だらけの顔で「女神さまだ!」と叫んでいる。
ジャンヌは剣を胸に抱え、嗚咽しながら振り返った。
「ご主人様……奥様……お嬢様! 本当に勝てましたのね!」
ヴィヴィアナはまだ呼吸が荒く、頬が紅潮したまま微笑んでいる。
「ねえ、最高だったでしょう? あの狂った角度で戻ってきた瞬間……ゾクッとしなかった? だからやめられないのよ、偏差魔法は」
俺は背筋の寒さをごまかすように深く息を吐き、仲間の肩を軽く叩いて回った。
「ありがとう。全員……マジでよく戦った。生き残れたのは、誰一人欠けなかったからだ」
アテナは「当然よ」と鼻で笑い、しかしほんのわずかに目を潤ませた。ジャンヌはまた泣き、イザークは血の味を含んだ笑みを浮かべた。ヴィヴィアナは恍惚に目を細め、未だ余韻に酔っている。
そのとき、場違いなほど澄んだ拍手が、パチパチと戦場の静寂の隙間を縫うように響いた。
全員が振り向くと、焼けた地面をブーツで踏みしめながら、ひとりの女性が歩いてきた。洗練された軍服はローマ風にも見える。胸元には勲章。赤い外套が焦げ跡を滑るように靡き、顎を少し上げた高慢な姿勢。
長いローズピンクの髪を無造作に結いながら、観客席から舞台へ降りてくる女優のような歩調。表情はアテナと同じ。絶対的な自信と、誇りが乗った顔。
女性はエレガントに一礼して名乗った。
「私はヴァルキシア帝国軍、第七軍団長、ペリーと申します」
アテナの眉がぴくりと跳ねた。ジャンヌは即座に盾を寄せようと動き、ヴィヴィアナは無言で観察するように目を細める。
ペリーは戦場の空気を自分のペースで掌握していくような滑らかな声で続けた。
「本当に見事な戦いだったわ。この街の民は、勇敢で、気高く、誉れ高い。心からの敬意を捧げます」
称賛の言葉は完璧、発音も優雅、態度は品格に満ちている。だがその眼差しは商品を値踏みしているようにも見えた。代表として市長が進み出る。
「ヴァルキシア帝国の軍団長殿……エルフェンウッドに何のご用件で?」
ペリーはまるで予告されていたセリフを吐くようなスムーズさで微笑んだ。
「ご安心ください。戦争ではありません。私は、帝国とエルフェンウッドの相互通商条約を結びにまいりました」
疲れ切った市民兵たちが顔を見合わせ、混乱と安堵が同時に広がっていく。戦争ではない外交交渉だ。血はもう流れない。そう思いたい者たちばかりだ。
ペリーの声は、そこへ巧妙に入り込む。
「帝国はあなた方の勇気を讃え、友好の手を差し伸べたく思っておりますの」
拍手と歓声が、再び戦場のあちこちで起きた。しかし俺の背中には、はっきりと寒気が走っていた。この女、来るタイミングが良すぎないか。戦いが終わり、希望を掴んだ瞬間に現れて、「力ではなく外交で救う」と言う。あまりにも整いすぎている。
英雄譚の幕の裏側で、誰かが台本を書いているような不穏さだった。俺の中で、名も知らぬ警鐘が鳴り続ける。
ペリーの側近が差し出した契約書の束は、上質な羊皮紙でできていた。巻かれたリボンは深紅、封蝋の紋章はヴァルキシア帝国直属軍の証。
雑さは一切ない。準備が万全すぎるくらいだ。市長は手を震わせながら受け取り、しかしすぐガリベンへ渡した。
「文書の内容を即座に理解できるのは彼しかいない」
それは誰もが知っていた。ガリベンは深呼吸し、肩で乱れる呼吸を抑え、1枚目をめくる。
最初の数行は美しい文言だった。《帝国とエルフェンウッドの永遠の友誼と相互繁栄のため》《同盟・交易・安全保障協力の確立を目的とする》
それだけ見れば、誰だって安心する。
しかし、ページが進むにつれ、ガリベンの眉間が深く皺を刻み、顔色が青ざめ、手の震えが止まらなくなっていく。紙をめくる音が、戦場全体に聞こえるほど静かになった。
「……帝国軍の駐留? それに司法権……帝国への委任……? こっちは霊脈結晶の採掘権を……帝国側に……?」
美辞麗句の間に帝国の「要求」が巧妙に隠されていた。ガリベンは契約書を胸に抱えるようにし、震え声で叫ぶ。
「こ、これは……! 対等な条約なんかじゃない! エルフェンウッドの自治権を帝国に明け渡し、経済も司法も軍事もすべて掌握される! 支配者がオークから帝国に変わるだけだ!」
勝利の歓喜が、氷水を浴びせたように凍り付く。ヴィヴィアナが淡々と刺すように言う。
「税率も変わらないわね。変わるのは“首輪の持ち主”だけ。オーク支配の続きに、帝国という名前を貼り替えるだけ」
アテナもさすがに気付いた。
「じゃあ結局……従属じゃないの!? せっかく勝ったのに……!」
ペリーは微笑んだまま、声色はあくまで柔らかい。
「言い方が刺々しいわね。帝国はあなた達を保護するのよ。あなた達はひとりでは生き残れない。だから我々が導いてあげるの」
市民たちの顔が苦痛に歪む。保護という甘言の裏に、踏みにじられた過去を思い出したからだ。
そこに、ワルツが涙を滲ませながら怒声をあげた。傷だらけで、血に濡れ、剣を杖のように支えながら、それでも地面を蹴って前に出た。
「てめぇらァァァッ! 汚ねえぞ……! 俺たちがオークと戦ってるのを眺めて……ボロボロになるのを待ってたんだろ!!」
それは泣き声と怒りが混ざった叫びだった。戦いの最前線に立っていた者にしか出せない声。周囲の兵士と冒険者の顔にも悔しさの色が走る。
確かに誰もが心のどこかで分かっていたのだ。戦いが終わり、勝利の直後に現れて、手を差し伸べる存在。それが正義の救援者ではないことを。
だからワルツの怒りは、全員の気持ちの代弁だった。だがペリーは、怒声すら涼しい微笑で受け止めた。
「勘違いしないで。私は偶然このタイミングで来ただけよ。戦いが終わったのを待っていたわけじゃないの。まさかそんな非道を想像するなんて、心が荒んでるのではなくて?」
否定しながら、核心は避ける。責任を回避しながら、相手を黙らせた。
ペリーは続けて、北西の丘を指差した。
「もし、あなた達がこの条約を拒否するのなら、もちろん、自力で街を守ってくださって、結構よ。たとえば、あの丘の向こうから来る何かから」
一斉に視線が丘へ向く。薄い灰色の煙が、立ち上っている。最初は焚き火だと思った。
しかしよく見ると煙の量が桁違いだ。火点が複数。広範囲で規則的。あれは野営地だ、恐らく巨大な軍団の。
カリスが目を見開き、呼吸を忘れたように呟く。
「あの煙、あれは軍団野営地のものだ。旗の数……陣幕の規模……あの規模はオーク軍より圧倒的に大きいぞ!」
ガリベンが追い打ちをかける分析をし、声に絶望が混じる。
「帝国軍と全面戦争になれば、我々は三十分ともちません……」
市民兵はボロボロ、冒険者も満身創痍、弓兵団は矢を撃ち尽くし、治癒魔法も回復薬も底を尽いている。勝利した街の戦力は、もう風前の灯だ。
市長の手が契約書の署名欄の近くで震える。
「やむを得まい。街を守るためだ……これが唯一の選択肢ならば署名するしかない」
その瞬間、戦場全体から声が漏れた。
「嫌だ。勝ったのに……結局……」「何のために戦ったんだ……?」
泣き崩れる者、叫ぶ者、拳で地面を叩く者。戦場は地獄ではなくなった。代わりに絶望の牢獄になった。
ヴィヴィアナは静かに目を伏せる。 「勝ったのに……自由じゃない。よくある話よ」
ペリーは余裕たっぷりに腕を組み、こちらを見下ろした。勝ったつもりなのだろう。いや、実際の所、勝っていると思ってもおかしくない状況だった。
「ふふ……困った顔をしているわね、市長さん」
市長が唇を噛みしめる。怒りも屈辱も滲んでいるが、立場上、言い返せない。それを見て、ペリーは楽しそうに口角を上げた。
「そうねえ……」
わざとらしく顎に指を当て、考える素振り。
「あなたが犬の振りをして、ワンって鳴いたら、条約を少しだけ修正してあげてもいいわよ?」
広場の空気が、一瞬で凍った。……今、なんて言った?
俺の耳が正しければ、この女、街の代表に向かって犬の真似をしろって言ったよな?
市民の間から、怒りを押し殺したような息遣いが漏れる。エルフたちの視線が、一斉に鋭くなった。だが、ペリーは気づかない。いや、気づいていて、あえてやっているのだ。
イザークが歯を食いしばって睨みつけた。そして、すでに立つのも困難な身体で叫ぶ。
「待て……! まだだ、まだ終わっていない! 我らには伝説の勇者パーティがいる! 黄金の聖者と異界より来たりし勇者! 彼らなら打開できる! 俺は信じている!」
市民の視線、冒険者の視線、エルフの視線、すべてが俺たちに向く。ジャンヌは震えた声で呟いた。
「ご主人様、奥様。この街の希望がお二人に向けられております……」
アテナも息を呑み、視線で俺に責任を押し付けようとする。――あの目、完全に
「はいシンジ君、あとはよろしく☆」の目だ。俺も負けじと目で抗議した。
(お前がなんとかしろよ! 女神なんだろ!? 奇跡とか言ってたじゃん! ほら、女神パワーでなんとかしろ!)
(あんたがやりなさいよ! 勇者役はあんたでしょ!? こういう時こそ出番じゃないの!? 行けシンジ! あんたが主人公よ!)
外から見れば、英雄たちが沈黙の作戦会議をしているように見える。だが実際は、ただの醜い責任の押し付け合い。空気は張り詰め、観衆は息を飲む。
そこへ、ペリーが優雅に一歩だけ進み、勝者の声で言い放つ。
「この状況から逆転? そんなこと、できるはずがないわ」
腹の底を拳で殴られたみたいだった。アテナは悔しさで顔を歪めた。俺も悔しい。超悔しい。ダサいところを見透かされた。ペリーはさらに畳み掛ける。
「あなたには何もできないでしょ。おとなしく観客席で拍手でもしていなさい」
観客だと? 自分なりに戦ってきた。傷だらけなのに、必死だったのに「観客」って一言で、全部バッサリ切り捨てられた。だから柄でもないスイッチが珍しく入った。
「……観客じゃねえ」
アテナが驚いて目を見開く。もう止まらなかった。喉が焼けるほどの声で言い放つ。
「だったら、逆転してやるよ」
ペリーの笑みが、初めてほんの僅かに揺れた。




