43話「神の奇跡」
「ふざけんなよ……」
胸が締め付けられた。マリナは振り向きもせず前と進む。
「なんでアンタが犠牲にならなきゃいけねえんだよ……!」
俺は喉が焼けるように熱くなるのを感じた。この街を救うために戦ってきたつもりだ。エルフと人間の対立を越えようとしてきたつもりだ。
でも、ここで「誰か一人を差し出せば助かる」という話に乗っていいのか。
そんなの、ただの“割り切り”じゃないか。合理的で、冷静で、効率的で、だからこそ、一番やりたくなかった選択肢だ。だからこそ、俺は叫ぶしかなかった。
「おい、アテナ!」
全員の視線が、俺に集まる。アテナがびくりと肩を揺らした。
「お前、本当に女神なんだろ!?」
声は震えていた。怒りなのか、恐怖なのか、自分でも分からない。
「だったらよ……こんな時くらい、奇跡の一つでも起こしてみろよ!!」
沈黙が落ちる。俺の口は止まらなかった。
「ここで何もしないで、誰か一人犠牲にして、生き延びて……それで“解放の女神”とか、よく、胸張って言えるよな……!」
アテナの顔が険しく引きつる。
「お前がもし、ここで何もしないなら、お前はただの詐欺師だ。本物の女神なんかじゃない。偽物の女神だ」
自分で言いながら、取り返しのつかないことをしている自覚はあった。けれど、もう止められなかった。
アテナがぽつりと呟いた。その瞳の奥で、何かが弾ける。
「あんた……今なんて言ったの?」
声が低くなる。背筋に寒気が走るような声だった。だが俺は視線を逸らさない。
「聞こえただろ。ここで奇跡を起こせない女神なんて、ただのハリボテだ」
アテナが目を見開いて、俺を見据える。震えが止まり、顔から血の気が引き、次の瞬間、火が灯ったように表情が変わった。羞恥・憤り・誇り、全部が燃料だ。
「……いいわよ」
絞り出すような声で言う。
「やればいいんでしょう!? 奇跡が見たいと言うのなら、見せてあげるわ!! はっ、奇跡! アリに地動説教える方が簡単よ!」
叫ぶと同時に、アテナはマリナの手を取り、後ろへ戻した。そして、そのままオーク軍の方へ歩き出す。
「アテナ!」「奥様!?」
ジャンヌとヴィヴィアナが呼び止める声を振り切り、アテナは真っ直ぐ進む。
その背中は、今まで見たことがないくらい、小さくて、それでいて、妙に大きくも見えた。
クルーガーの前、戦場の中心でアテナは立ち止まり、大きく息を吸い込んだ。
「オークども!」
拡声魔導具も使わず、素の声で叫ぶ。だがその声は、信じられないほどよく通った。
「あんたたちは降伏しろって言ったわよね。でもね、本当は逆なのよ。追い詰められてるのは私じゃなくてあんた達の方なのよ。悪いことは言わないわ。今この瞬間をもって——あんたたちが、降伏しなさい!!」
戦場がぽかんと固まる。やべえあいつ、完全に勢いだけで行った!
「……は?」
将軍とは思えないほどの間の抜けた声をクルーガーが出した。
「聞こえなかったのかしら? 女神アテナが命じているのよ。あなたたちオークは武器を捨て、私にひざまずきなさい。神の裁きが下る前に!!」
オーク軍の兵士たちがざわつく。
「……気が狂ったのか?」
「追い詰められてるのは向こうだろ……?」
「何言ってんだ、あの女……」
人間側もエルフ側も、完全に言葉を失っている。ガリベンが小声で呟いた。
「精神的な防衛機制でしょうか……?」
いや、違うぞ。ガリベン。あの女はどういうわけか、本当に自分が奇跡を起こせると思っている。そういう目だ。
クルーガーが困惑した表情で俺を見て叫ぶ。
「おい、頼むぜ! 交渉したいならもっとまともな人間を連れて来いよ! この女、頭が完全にいかれてるぞ!」
アテナは俺が答えようとする前に、間髪入れずにまくしたてた。
「いかれてんのはあんたたちの方よ! いいわ、降伏しないというのなら、今から神の力を見せてあげる」
アテナが両手を組み、祈りを始めた。周囲のざわめきが再び広がる。その時だった。空が赤く染まり始める。大地を揺らすほどの熱が、風になって背中を押し返してきた。最初は、誰もそれが何なのか理解できなかった。
赤い光が遠い空の端から滲み出し、水平線の向こうから巨大な陽が昇るように戦場を照らしている。兵士の影が長く伸び、鎧の金属が赤熱化し、空気が焼けつく匂いに変わっていく。
尾を引きながら天空を滑る炎の球。見覚えのある、色と軌道だ。
「……嘘だろ」
誰かが震える声で呟いた。俺も視界の端にそれを捉えて理解する。地平線へ消えたはずの《インフィニット・バースト》が空を裂き、光の尾を引きながら戻ってきていた。




