38話「開戦」
夜明け前の空は、まだ深い青と灰色が溶け合う冷たい色をしていた。
街全体を包む朝霧は、まるでこのエルフェンウッドに降りる巨大なカーテンのようで、遠くの輪郭をすべて曖昧にぼかしている。風も弱く、世界が息をひそめているようだった。
俺たちは街を囲む外壁の上にいた。硬い石の感触が足裏から太ももまで冷たさを伝えてくる。外壁の下では、兵士たちが忙しなく配置につき、遠くから聞こえる足音の規則性が、逆に緊張を煽った。
不気味な静寂を破ったのは、平原の奥から駆けてきた偵察兵たちの叫び声だ。
「報告! オーク軍本隊が川を渡り、こちらへ接近中! 到着まで……あと数時間!」
偵察兵の肩は荒い呼吸で上下し、服には泥と返り血が乾いたような跡があった。その迫力ある様子だけで、どれほど緊急なのかが伝わってくる。
報告を受けたガリベンは青ざめた顔で地図の座標を確かめながら呟いた。
「予想よりも三倍は早い。信じられない速度です……! これは……全市民の避難を早めなければ」
その瞬間、街中に低く重い音が響き渡った。避難を知らせる鐘の音だ。まだ陽の昇りきらないエルフェンウッド全域に、緊張が一気に走る。
家々の扉が激しく開き、市民たちが寝巻や外套を掴んで飛び出してくる。子どもを抱えた母親、荷車を押す父親、老人を支える若者、誰もが恐怖に目を見開き、鐘の音を頼りに避難場所である冒険者ギルドへと向かっていく。
「こちらです! 皆様、整列して順番にお進みください!」
場違いなほど上品な声が響いた。その声の主ジャンヌは、避難誘導の最前線に立ち、フレンチメイド服のエプロンを優雅に揺らしながら市民を誘導していた。
「そこの方。走っては危険です!……落とし物ですよ、お嬢ちゃん。お人形は大事にしないと」
ジャンヌの的確な声掛けは、パニックに陥りかけた市民を落ち着かせ、不思議と秩序を生み出していく。声はきれいで、通りやすく、揺るがない。兵士よりも、役人よりも、一人のメイドのほうが街を動かしていた。
「ジャンヌ、こっちは任せよう。もうすぐ敵が来る」
「はい、ご主人様。避難完了後、すぐ最前線へ参ります」
ジャンヌは一切迷いなく笑い、最後に避難者の子どもの頭を優しく撫でてから踵を返した。それは戦場に向かう者の顔だった。
街の中央通りから正門へ向かう兵士らの足音が揃って響く。甲冑の擦れる金属音と、木材と弓の匂い、人間とエルフの連合部隊、市民軍が配置へ向かっている。
エルフの弓兵たちは足音を立てず、影のように移動していく。人間の槍兵たちは重く、少し不格好な動きだが、目には覚悟が宿っていた。以前なら互いを疑い、睨み合っていただろう人間とエルフが、今は肩を並べている。震えている者もいた。だが、それでも弓と槍を握る手は離れなかった。
外壁の外側、平原の向こうに土煙が広がりはじめた。空気に鉄と汗の臭いが混じり始める。俺たちの隊は、前線中隊に配置された。最も激戦区となる可能性の高い場所だ。
「今日こそ人生最大の賭けね」
背後でため息のような声が聞こえる。振り返るとヴィヴィアナが、朝靄の中で白銀の髪を揺らし、指先を微細に震わせていた。恐怖ではない。歓喜だ。胸元まで立ち上る魔力の熱が空気を揺らし、早くも周囲に金属と雷の匂いを漂わせている。
「やばいな……まだ始まってないのに魔力濃度が高すぎだろ……」
俺の呟きは震えていた。だがヴィヴィアナはただ楽しげに目を細める。
「この街の命運が、たった一つの選択で揺れるんだもの。最高の舞台じゃない?」
この女は戦争を“現実”ではなく“ゲーム”として見ている。たぶん本人に悪気はない。それが怖い。
「ふふっ……今日の戦場で誰よりも輝くのはこの私よ。完璧に写り映えするポーズ……どれが良いかしら?」
アテナは自分の立ち姿のシルエットが最も美しく見える角度を探していた。戦場で写真撮影でもあるのかというくらいの“見栄え”の確認に余念がない。横で槍兵たちの指が緊張で震えているのに、この女神はあまりにも落ち着きすぎている。別の意味でこの女が怖かった。
「写り映えの前に生存を考えてくれよ……」
俺が突っ込むもアテナはまるで聞いちゃいなかった。
こうして戦いの準備はなんとか整った。ただ突っ立っているだけなのに、胃が縮むほどの緊張が体にまとわりつく。ジャンヌが最後の確認に来た。
「奥様、ご主人様、お嬢様……装備は万全です」
鎧の留め具、武器の手入れ、マントの位置、呆れるほど細かい箇所まで完璧に整えてくれた。
「……ジャンヌ、お前、どっちが本職なんだ? 戦士かメイドか」
「メイドでございます」
一切の迷いもなく即答した。こういうタイプは、死なない。いや、死ぬまで倒れないのほうが正しいかもしれない。
その時だった。平原の向こうから、地鳴りのような振動が伝わってきた。急いで前に出ると、地平線の果てに黒い波が見えた。
大地を揺らすほどの足音を響かせながら、オーク本国軍が姿を現した。重装歩兵の隊列。槍を構えた騎兵。後列の呪術師たちが奇妙な黒い旗の下に並び、全軍の士気を押し上げている。
軍勢というより、もはや巨大な壁が歩いてくるようだった。だが、最初に飛んできたのは武器ではなかった。オーク側の前列から奇妙な光が立ち上った。筒状の金属の魔導具、拡声器だ。
この街に駐留していたオーク軍の将校、クルーガーが先頭に出てきて、大気を振動させるほどの大音量で最後通牒を宣告する。
「聞け、人間ども! 降伏すれば命は助けてやる!! エルフどもは嘘つきだ! 裏切り者だ! 100年前と同じで貴様らはまたエルフに利用されて滅びる!!」
城壁の上の兵士たちが揺れる。顔を見合わせ、呼吸が乱れた。構えた槍の先が小刻みに震えた。続く言葉はもっと直接的だった。
「解放の女神アテナは偽物だ!! メッキは剥がれた! あの詐欺師の言うことを信じるな!」
兵士たちの間にざわめきが走る。恐怖でも怒りでもない、揺らぎだ。市民軍はエルフと人間の混成軍だ。それは強みでもあり、弱みでもある。戦場で揺さぶりを仕掛けられれば、どんな堅牢な布陣でも、綻びが生まれる。喉の奥がひきつり、俺の胃がまた痛む。
「クソ……こういう心理戦までできるなんて、武力一辺倒だと思ってたが、侮れねえな」
兵士のひとりが剣を落としかけた。その手を、エルフの弓兵が無言で握り、支えた。
その瞬間、前に出た女がいる。カリスだ。剣を敵軍に向かって突き立て、怒号する。
「惑わされるな! 我々はもう奴隷じゃない! 人間もエルフも、この街で共に生きる! 今日ここで、屈辱の歴史を終わらせる! 武器を構えろ、前へ!」
カリスの叫びが、恐怖の海に杭を打ち込んだ。兵士たちの目に光が戻る。
次の瞬間、オーク軍の先鋒が、咆哮と共に走り出した。地響きと共に重装歩兵が突進し、戦争が始まった。




