34話「元通り」
独立宣言の翌朝、エルフェンウッドの空気は、金属を噛んだように重かった。
石畳に落ちる影がやけに濃く、雲が低いわけでもないのに、街全体が巨大な屋根の下に押し込められたような息苦しさがあった。
最初に異変を告げたのは、音だった。ガシャン、ガシャンと鎧と鎧が擦れ合う、鈍く乾いた金属音。それが規則正しく、まるで巨大な生き物の心拍のように、通りの奥から近づいてくる。
「……来たな」
俺は、市庁舎前の広場でそう呟いた。自分でも驚くほど、声が低く沈んでいた。
市民たちは道の両脇に押しやられ、誰一人として声を出さない。代わりに、無数の視線だけが集まり、鋭く、重く、通りを進む影に突き刺さっていた。
先頭に立つ男、オーク軍将軍、クルーガー。巨体のオークであることは間違いない。だが、彼は兜も鎧も身につけていなかった。代わりに羽織っているのは、簡素な外套。軍服ではない。今日の彼は外交官だった。
だが、その背後にずらりと並ぶオーク兵たちは違う。斧、槍、盾。どれも手入れが行き届き、刃に欠けはない。血の匂いすらしない。つまり、まだ一度も使われていない兵器だ。
クルーガーは、市民の視線を一切気に留めなかった睨み返しもしない。嘲笑もしない。ただ、まっすぐ前だけを見る。それは、敵意を無視する態度ではない。すでに所有物だと確認している目だった。
「……ムカつく目してんな」
隣で、ジャンヌが小さく息を吐いた。彼女の指先が、わずかに震えている。
「ご主人様。命令があれば、すぐにでも」
「ダメだ」
即座に言った。剣を抜く理由はいくらでもある。だが、抜いた瞬間に負けるのも、分かっていた。
クルーガーは、市庁舎の前で立ち止まると、何の躊躇もなく扉を押し開けた。まるで、招かれて当然だと言わんばかりに。
重い扉が閉じる。その音が、やけに大きく、街に響いた。エルフェンウッドは、まだ自由じゃない。俺はそう思いながら、唾を飲み込んだ。
会談室の空気は、張りつめた糸のように細く、触れただけで切れてしまいそうだった。長机を挟み、こちら側には市長と議会代表、それに俺たちパーティ。
向かい側には、オーク軍将軍クルーガーただ一人。いや、正確には「一人」じゃない。彼の背後、扉の外には武装兵が控えている。ここにいる全員が、その存在を意識していた。
クルーガーは椅子に腰を下ろすと、ゆっくりと指を組んだ。爪は短く整えられ、戦場の男とは思えないほど清潔だった。
「エルフェンウッドによる独立宣言」
低く、よく通る声。
「我らオークは、これを承認しない」
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥が冷たい手で握りつぶされるような感覚があった。
「独立宣言を撤回しなければ、この街は燃えることになる」
誰もが息を呑む音がした。俺は無意識に歯を食いしばっていた。事実上の最後通牒。だが、クルーガーの表情は変わらない。怒りも、威圧もない。まるで、明日の天気を告げるかのように淡々としている。
「それが、正式見解だ」
沈黙。会談室にあるのは、壁時計の針が進む音だけだった。市長が、震える手で机に触れながら口を開く。
「……我々は、これ以上の支配を受け入れない」
言葉を選び、慎重に、だがはっきりと。
「エルフェンウッドは、独立国家だ」
「そう言うと思っていた」
クルーガーは即座に頷いた。
「だからこそ、俺はここにいる」
彼はわずかに身を乗り出す。
「我々は、すぐさま戦争を望んでいるわけではない」
その一言で、室内の空気が変わった。緊張が解けたわけではない。むしろ、別の種類の不安が広がる。
「現在も有効な安全保障条約に基づき――」
クルーガーは、懐から一枚の書類を取り出した。黄ばんだ羊皮紙。年季の入った封蝋。
「オーク軍は、引き続きこの街の治安を担う」
彼は書類を机の中央に滑らせた。
「安全保障条約は、依然として破棄されていない。独立宣言は、我々が認めていない以上、法的には無効だ」
嫌な感覚が、背筋を這い上がる。俺は、無意識にその書類を睨んでいた。たった一枚の紙切れが、街を縛る鎖になる。クルーガーは静かに結論を述べた。
「よって、我々の駐留は合法だ」
会談は、それで終わった。いや、終わらせられた。
外に出ると、すでにオーク兵たちが兵舎へ向かっていた。整然とした足並み。何事もなかったかのような顔。まるで、独立宣言など最初から存在しなかったかのように。
「……くそ」
思わず、吐き捨てた。剣を抜けば、負け。黙っていれば、元通り。その現実が、はっきりと形を持って突きつけられていた。
オーク兵が兵舎へ戻る光景は、奇妙な既視感を伴っていた。つい数日前まで、あそこにあったのは市民たちの怒号と鞭の音だった。
独立宣言のあと、一度は下ろされたはずのオークの旗。それが、何事もなかったかのように再び掲げられている。赤黒い布が、風に揺れる。
その下を歩くオーク兵たちは、誰一人として急いでいない。勝利を誇示するわけでもなく、威嚇するわけでもない。ただ、戻るべき場所に戻ったという顔をしていた。それが、何より腹立たしかった。
「……本当に、居座る気だな」
俺がそう言うと、ガリベンが静かに頷いた。
「ええ。彼らにとっては、こちらが独立を宣言しようが、条約が残っている限り、問題はないのでしょう。そして支配という既成事実を作るつもりです」
兵舎の前では、すでにオーク兵が詰め所を整え始めていた。荷を降ろし、配置を確認し、哨戒の経路を決める。すべてが手慣れている。まるで、この街が一度も彼らの手を離れたことがないかのように。
市民たちは遠巻きにその様子を見ていた。怒り、恐怖、諦め。さまざまな感情が混じり合い、重たい空気を作っている。
「……いつまで、我慢すればいいんでしょうか」
不意に、ジャンヌが言った。静かだが、揺るぎのない声。
「彼らは外交官を名乗ってはいますが、実際には武装した軍です。このままでは、市民がまた怯える日々に戻ってしまう」
彼女の手は、メイスに置かれている。
「私が前に出ます。ご主人様は、後ろに」
「待て」
俺は首を振った。
「今、剣を抜いたら、俺たちが約束を破った側になる」
「ですが――」
「分かってる。ムカつくし、腹も立つ。でも……それを狙ってる」
言葉にすると、余計に現実味が増す。オークは、戦争をしたくない。だが、戦争をしてもいい理由は欲しい。ここで血が流れれば、それはすべて、こちらの責任になる。
アテナが腕を組み、鼻を鳴らす。
「正義が負けるなんて、納得できないわ。悪いことをしてる相手を叩いて、何が悪いの?」
「その理屈が通じるなら、楽なんだけどね」
今まで黙っていたヴィヴィアナが、口を開いた。
「問題は、誰が悪いかじゃないわ。誰が最初に殴ったかよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が重くなる。
クルーガーは、確かに侵略者だ。だが今の彼は、外交官という建前だ。もし、ここで剣を抜けばどうなる?
オークは言うだろう。「交渉中の外交官が殺害された」と。そうなれば、エルフェンウッドは独立国家ではなく、国際法を無視する反乱勢力とみなされる。それはオークによる「治安維持活動」の絶好の口実となる。
その言葉に、アテナは一瞬だけ口をつぐんだ。不満そうに唇を尖らせる。そのときだった。ガリベンが、一歩前に出た。
「――皆さん。彼らを倒す必要はありません」
穏やかな声。だが、その場の空気を切り裂くには十分だった。
「倒さずに、追い出します。正確に言えばここにいる理由を失わせる」
俺は彼の顔を見た。
「……どういうことだ?」
ガリベンは、小さく息を吸い込む。
「彼らが居座れるのは、安全保障条約という法的根拠があるからです」
そして、静かに言った。
「ならば、その根拠を消してしまえばいい」
兵舎に翻るオークの旗が、風に鳴る音がやけに大きく聞こえた。俺は予感した。この戦いは、剣ではなく、紙の上で行われる。




