30話「会談」
議会棟の応接室に通された瞬間、俺は初めて来たはずなのに違和感を覚えた。厚手の絨毯、壁に掛けられた牧歌的な風景画、磨き込まれた長机。だが、空気だけが妙に重い。妙に静かすぎる。ここでは、咳払い一つでも意味を持ちそうだった。
扉が閉まる。鍵の音はしなかったが、それがかえって不安を煽る。
「遠路はるばるご苦労だった」
長机の向こうに、市長と商業組合代表が並んで座っていた。市長は背筋を伸ばし、穏やかな微笑を浮かべていた。白髪交じりの髪は整えられ、指先に無駄な動きはない。長年、街を統治してきた男の顔だ。
隣にいる商業組合代表は対照的だった。でっぷりと太った腹が椅子からはみ出し、太い指が無意識に机を叩ている。爪の動きは一定のリズムを刻み、頭の中で利益のことを考えているのが手に取るように分かった
ガリベンが一歩前に出る。背筋は伸びているが、声は低く、穏やかだ。
「本日は、エルフ評議会を代表する外交使節として参りました。早速ですが、こちらから提案があります」
ガリベンは温和な笑みを崩さないまま、机の上に分厚い書類を丁寧に広げた。
「霊脈結晶についてです。あなた方人間側が二つの条件に同意してくだされば、我々エルフはこの資源を共同管理とする用意があります」
その単語が出た瞬間、空気が変わった。商業組合代表の眉が跳ね上がり、市長の目がわずかに細くなる。霊脈結晶――すでに噂は街に広がっている。だが、公式の場で名が出るのは初めてだ。ガリベンは続ける。
「第一に、人間とエルフが防衛同盟を結ぶこと。第二に、我々エルフにエルフェンウッドでの市民権を認めることです」
市長はすぐには答えなかった。代わりに、組合代表が息を吐く。
「共同管理と言っているが、エルフ側が利益を独占するつもりではないのか。霊脈結晶は森にある。我々に何の保証がある?」
「取り決めはすべて書類に明記しています。採掘量、使用用途、流通先。利益は折半、管理権は両種族の専門家による合同委員会へ。透明性は完全に担保します」
ガリベンは完璧に準備していた。商業組合代表の指が忙しなく動く。頭の中で算盤を弾いているように見える。
霊脈結晶。それは単なる資源ではない。輸送業者、加工職人、魔道具工房、冒険者ギルド。街の経済のあらゆる歯車を一気に回転させる燃料だ。しかも、オークの規制が入らない。
代表の喉が鳴る。脂肪の下で、必死に理性が計算を続けている。
「……この街は、長い間、オークに締め付けられてきた」
独り言のような声だった。
「税、検閲、輸送制限。名目は安全のためだが、実態は商売殺しだ。霊脈結晶があれば……いや」
言いかけて、口を噤む。彼は一度、市長の横顔を盗み見てから、改めてガリベンを見る。太い指が机の縁を掴み、離す。その動きが、迷いをそのまま形にしていた。ガリベンは追い打ちをかけた。
「この街の経済構造そのものが変わります。ですが、オークに独占されれば、その恩恵は一滴も落ちてこない」
代表の指がまた机を叩いた。一度。二度。同盟に乗れ。経済は、そう叫んでいる。
「待ちたまえ」
市長の声が、その流れを切った。静かだった。だが、逆らえない重さがあった。
「経済的な魅力は理解できる」
市長は代表を一瞥し、次にガリベンを見る。
「あなたの話は、理にかなっている」
商業組合代表が、ほっとしたように息を吐きかけた、その瞬間。
「だが、その話には、一つ致命的な前提が抜けている」
市長は、ゆっくりと背もたれに身を預けた。淡々とした口調。事実を読み上げるような声だった。
「防衛同盟は、エルフェンウッド独立への準備と見なされる。オークへの事実上の宣戦布告だ。それが意味するものを、君たちはわかっているのか」
代表の顔が、わずかに引きつる。
「エルフェンウッドは、長年の平和を享受してきた。オーク本国とは安全保障条約を結んでいる。彼らは街に軍を置く代わりに、自治を認めている」
机の上に置かれた書類に、視線を落とす。税率、支出、補助金。数字が整然と並んでいる。
「確かに高税率は重い。否定はせん。だが、その代償として街は戦火に巻き込まれなかった」
俺はその言葉に反論できなかった。少なくとも、過去においては正しかった。
市長は、しばらく黙っていた。その沈黙は、迷いではない。言葉を選んでいるのでもない。どこまで話すかを、決めている沈黙だった。やがて、市長は小さく息を吐いた。
「……この街が表向きは自治を許されている理由がわかるか?」
誰に向けた言葉でもない。自分に言い聞かせるような、独白に近い口調だった。
「立ち上がろうとする英雄がいなかったからだ。反乱もなかった。だから、オークは街を焼かなかった」
市長は、机の端に指を置く。その指は、わずかに震えている。年齢のせいか、それとも別の理由かは分からない。
「勘違いしないでいただきたい」市長は顔を上げる。「私は市民を愛している」
商業組合代表が、鼻で短く息を吐いた。愛、という言葉に現実味を感じられなかったのだろう。市長は続ける。
「だが、全員は守れない」
その一言で空気が変わった。はっきりと線が引かれた。
「街とは、器だ。人が多すぎれば溢れる。重すぎれば割れる。だから私は、器を守った」
俺はその言葉を頭の中で反芻した。市民ではない。街だ。人ではなく、支配の構造を守るという選択。
「不満を抱く者はいただろう。税が高い、自由がない、夢が見えない。それでも、彼らは生きている。少なくとも死んではいない」
商業組合代表が、ついに堪えきれずに口を開いた。
「……その守りの請求書は、年々重くなっていますがな」
声には苛立ちが滲んでいた。
「オーク駐留軍への警備代は上がり続けている。規制は厳しくなり、我々商人は首を絞められている」
市長は、代表を見る。視線は冷静だ。怒りも、驚きもない。
「承知しています」
あまりにあっさりした返答に、代表が言葉を失う。
「承知した上で、続けてきた。それが、この街が生き延びるための代価だった」
その瞬間、俺は理解した。この男は、逃げていない。犠牲を自覚したまま、踏み続けてきた。だからこそ、説得が効かない。
重苦しい沈黙の中で、後ろに立っていたジャンヌが一歩前に出た。動きは小さく、だがはっきりしている。
「恐れながら申し上げます」
声は低く、礼儀正しい。場を荒らすつもりはない。ただ、聞きたいことがあるだけだ。
「守られていたのは……市民でしょうか。それとも、この支配の仕組みでしょうか」
問いは短い。だが、逃げ道がない。市長は答えることは出来なかった。答えれば、自分が何を切り捨ててきたかを明言することになるからだ。
商業組合代表が、息を呑むのが分かった。この問いは、彼自身にも向けられている。応接室の空気が、張りつめたまま止まっていた。
市長の「全員は守れない」という言葉が、まだ机の上に残っている。代表は視線を落とし、指先で何かを数えるように動かしていた。
その沈黙を、場違いなほど軽い声が割った。
「あの、一個、いいですか?」
ヴィヴィアナだった。銀髪を指で弄びながら、退屈そうに椅子に座っている。だが、その視線は珍しく、真っ直ぐ市長を見ていた。
「霊脈結晶の採掘の話、なんですけど」
市長が目を向ける。商業組合代表も、はっとして顔を上げた。
「私、一応、帝国魔法アカデミー卒なので。結晶の性質はだいたい知ってます。現場で実際に見たから分かるんですけど、アレ、かなり質が悪い部類ですよ」
「……質が悪い?」
代表が問い返す。ヴィヴィアナは肩をすくめた。
「掘る側にとって、です。魔力濃度が高すぎます。制御しながら採掘しないと、身体が壊れます」
市長の眉が、ぴくりと動く。
「作業員が?」
ヴィヴィアナは、あっさり頷いた。「ええ。最初は、指先の痺れ。次に、魔力酔い。長くやれば……まあ、戻りませんね」
軽い口調だった。だからこそ、生々しい。
「それで、もう一つ」
彼女は、今度は机の表面を指で軽く叩いた。
「オークが主導した場合、効率を最優先した大規模採掘と考えられます。安全? 環境? 知りません、ってやつです」
市長が、わずかに目を細める。
「環境破壊か」
「森が死にます」
ヴィヴィアナは即答した。
「地脈を乱せば、水が濁る。水が濁れば、下流の街が影響を受ける。つまり、エルフェンウッドもです」
俺は思わず身を乗り出した。
「……待て。掘るのは、オーク兵じゃないのか?」
ヴィヴィアナは、首を横に振った。
「違うわよ。そんな危険な作業、オークはやらないわ。最初に使われるのは、人間の労働者。安くて、数が揃ってて、替えが利くから」
その言葉が、応接室に落ちた。誰も、すぐには反論できなかった。ヴィヴィアナは淡々と続ける。
「今の体制だとですね、オークだけが利益を独占します。人とエルフは、身体と土地を削られるだけ」
そして、珍しく少しだけ真剣な顔になる。
「私、ギャンブルは好きなんですけど。このゲームは、分が悪いと思います」
市長が、ゆっくりと口を開こうとした、その前に、アテナが静かに言った。
それまで彼女は、椅子に深く腰掛け、指先で髪を弄びながら成り行きを眺めていた。いつもの高慢な態度と変わらないはずなのに、今は妙に落ち着いて見える。
「あなたは、間違っていないわ。今まではね」
その一言に、市長の視線がゆっくりと向く。商業組合代表も、わずかに身じろぎした。
「血を流さず、秩序を保ち、街を焼かせなかった。為政者として、それは立派な仕事よ」
肯定だった。否定ではない。だからこそ、市長はすぐに反論できなかった。アテナは小さく肩をすくめる。
「でもね――それは今までの話。霊脈結晶が見つかった。それだけで、状況は全部変わったのよ」
市長の眉がわずかに動く。
「オークは必ず動くわ。彼らは資源を見逃さない。しかも今回は、人間の兵を使って、エルフの里に侵攻させるつもり」
アテナは淡々と告げる。脅しでも予言でもない。ただの事実の列挙だ。
「戦争が起きれば、人間もエルフも被害を受ける。あなたが守ってきた街も例外じゃない」
俺は奥歯を嚙み締めた。この女は、本当に残酷だ。だが、嘘は一つも言っていない。
「現状維持は、もう通用しない。何もしない選択が、いちばん危険なの」
その瞬間だった。
「……同盟は、確かに考慮すべき選択肢の一つだ」
商業組合代表の口から、思わぬ言葉が零れ落ちた。本人も驚いたのだろう。すぐに口を押さえ、視線を逸らす。続けて、苦しそうに言う。
「だが……、経済がそれを望んでも、政治が許さん。今ここで動けば、オークがどう出るか分からん」
部屋の空気が、一気に市長へ集まる。経済は前を向いた。未来も、そちらを指している。
残されたのは、政治だけだ。市長は、ゆっくりと立ち上がった。椅子がわずかに音を立てる。その小さな音が、やけに大きく響いた。
窓際まで歩き、外を見ようとする。厚い壁の向こうに、街は見えない。それでも彼は、そこに街全体があるかのように視線を向けた。
「……考える時間が必要だ。この街は、軽い決断で動かせない」
振り返り、全員を見渡す。
「一週間後だ。オーク軍が本国から帰って来る前に、答えを出す」
期限付きの保留。それは妥協であり、同時に宣告だった。誰が煽らなくとも、誰が命じなくとも、まもなくこの街は選ばされる。
応接室を出た瞬間、俺は無意識に息を吐いていた。胸の奥に、重たいものが残っている。
「……なあ」
思わず、ガリベンに声をかける。
「俺たち、正しいことをやってるんだよな」
彼は少し考え、穏やかな声で答えた。
「正しいかどうかは、もう問題じゃありません。選ばなければいけない。それだけです」
その言葉が、やけに重く胸に残った。これから、エルフェンウッドは自らの運命を決める。そして、その選択は誰にも取り消せないだろう。




