29話「街への帰還」
エルフェンウッドの正門をくぐった瞬間、俺は反射的に足を止めた。
静かすぎる。耳に飛び込んでくるはずの、あの不快な金属音がない。鎧が擦れ合う音、荒い息、威圧するような怒鳴り声。いつもなら門の両脇に陣取っているオーク衛兵の姿が、どこにも見当たらなかった。
「……いない、な」
俺の呟きに、ジャンヌが周囲を素早く見回す。彼女の足音は相変わらず静かで、石畳に影が溶けるようだった。
「はい、ご主人様。警戒態勢の痕跡もありません」
理由はすぐに分かった。通りを歩く冒険者の会話が、無遠慮に耳へ流れ込んでくる。
オーク駐留軍の主力は本国へ帰っている。先祖慰霊祭――オークにとっては、戦争よりも優先される儀式らしい。
俺は胸の奥で、嫌な鼓動を覚えた。今だ。この街に風穴を開けるなら、今しかない。そう確信する一方で、同時に別の違和感が背中を撫でていく。
街は浮き足立っていた。市場は活気づいている。だがそれは、いつもの生活の匂いとは違った。肉の焼ける香りに混じって、油と鉄の臭いが鼻を刺す。武器屋の前には人だかりができ、粗末な槍や盾が次々と売れていく。値段を気にしない顔つきの市民たち。
これはいつもの雑多な賑わいじゃない。人の集まり方が違う。目的を共有している者たちの、固い空気だ。
「……変ね」
ヴィヴィアナが、小さく呟いた。彼女の視線は、人の顔ではなく、配置そのものを見ている。
市場の脇に設けられた掲示板には、新しい紙が何枚も貼られていた。風で端が揺れ、まだ誰の手垢もついていない。
【高報酬】森周辺の治安維持/人員多数募集/即日出発可
文字を追った瞬間、喉の奥がひりついた。報酬額がありえない。「治安維持」という言葉に似合わない金額だ。掲示板の前では、冒険者たちが軽口を叩いている。
「森が光ったって話だろ?」
「精霊の暴走か、魔物の巣か」
「オークの命令らしいぞ。なら金は出る」
オークの命令。その言葉が、何の違和感もなく会話に混じっていることに、背筋が冷えた。
ジャンヌが一歩前に出た。彼女は掲示板を見ていない。人の流れの向こう正門の内側を見つめている。
視線の先には荷車があった。木箱が積まれ、兵士に指示されながら街の奥へ運ばれていく。箱の角張った形、積み方、扱いの丁寧さ。中身を見なくても分かる。武器か、補給物資だ。
「……始まっております」
ジャンヌの声は驚くほど低く、静かだった。まるで、確認するまでもない事実を述べるように。
「ご主人様。これは治安維持活動ではございません」
胸の奥が重く沈んだ。
「侵攻……か」
自分の声が、やけに遠く聞こえる。
「正確には、準備段階でございます」
ジャンヌは訂正する。その口調は、頼もしくなる位冷静だった。
「森へ入り、霊脈結晶の支配権を確保するための動き。すでに人員と兵站が動いています」
ヴィヴィアナが目を細めた。
「配置がきれいすぎるわ。即興じゃない。……前から決まってた動きね」
俺は唾を飲み込んだ。
「誰が……こんな命令をだしたんだ」
答えたのはガリベンだった。
「……オークでしょう。霊脈結晶の存在が明らかになった以上、オークにとっては、森を管理下に置く必要がある」
「だから、人間を使う……?」
「ええ」
ガリベンは視線を逸らさない。
「人間が森に入れば、エルフの抵抗は反乱になる。オークは、後ろに立ったままで済む」
胸が締め付けられる。人間が、自分で選んだつもりで、他人の戦争を始める。アテナが、小さく笑った。
「……上出来ね。現状維持派が一番喜ぶやつ」
「どういう意味だ」
「誰も戦争を宣言してない。街はまだ平和。責任は全部、森の異変に押し付けられるわ」
アテナは、荷車の動きを目で追った。
「気づいた時には、もう戻れないってやつよ」
ジャンヌが俺を見る。非難でも、催促でもない。ただ、事実を共有する視線。
「このまま進めば、エルフの里は、人間の手によって踏みにじられることになります」
頭の中に、祠の前で祈るエルフたちの姿が浮かぶ。盾を掲げる女神。平和を願う、静かな声。それを壊すのが、俺たちの街だという現実。
「……くっそたれが」
言葉が自然と漏れた。
「話し合いだの、同盟だの言ってる間に、もう始まってたってわけか」
ガリベンが小さく頷く。
「だからこそ……一刻も早く、街の要人と話し合わねばなりません」
門の内側で、また一台、荷車が動き出す。誰も止めない。誰も疑わない。
それが、この光景のいちばん恐ろしいところだった。政治は、もう議論の段階を越えている。俺たちは、知らないうちに始まっていた戦争の、真ん中に立たされていた。
「行こう。議会棟で市長と話す。もう時間がねえ」




