26話「エルフの現状」
歓迎の宴の準備には、少し時間がかかるらしかった。
「それまで……よろしければ、里を案内させてください」
ガリベンはそう言って、俺たちを街の中央へと導いた。イザークの命令で警戒は解かれたものの、視線が完全に消えたわけではない。好奇と期待、そして恐れが混じった視線が、あちこちから向けられている。
街の中を歩いて、すぐに気づいた。静かすぎる。建物は簡素な造りだが、整っている。道も清潔だ。だが、活気がない。人の気配が薄い。商いの声も、子どもの笑い声も、ほとんど聞こえない。
代わりに耳に入ってくるのは祈りの声だった。街角ごとに、小さな祠がある。木彫り、石彫り、蔦に覆われた簡素なものまで様々だが、どれも左手に盾を持つ女神の姿をしている。
朝の祈りを終えたばかりなのか、年配のエルフが静かに祠の前で額を地につけていた。
「……デーモス神よ、今日も平穏を……」
その声は、願いというより習慣に近かった。祈らなければ、不安でいられない。そんな響き。アテナは一瞬だけ、居心地悪そうに視線を逸らした。さすがに“本物の信仰”の前では、図太い彼女でも何か感じるものがあるらしい。
ガリベンは歩きながら、淡々と説明する。
「この里には……産業がありません」
「産業?」
俺が聞き返すと、彼は頷いた。
「交易も、工芸も、ほとんど行われていない。森を守ることが第一で、それ以外を学ぶ機会がなかったんです」
視線の先では、使われていない工房が並んでいた。道具はあるが、人はいない。埃をかぶったまま、時間が止まっている。
「若者は……仕事がありません。だから――」
彼は、少し歩調を緩めた。開けた場所で、若いエルフたちが集まっている。彼らがしているのは、訓練でも談笑でもない。剣を研いでいるのだ。何度も、何度も。刃を撫で、刃を磨き、刃を確かめる。
「戦士になることだけが、この里で誇りを持てる生き方なんです」
その言葉が、胸に重く落ちた。さらに進むと、子どもたちの声が聞こえてきた。広場の隅で、輪になって遊んでいる。だが、遊びの内容が想像と違った。
「――そして勇者は現れ、女神デーモスの盾のもと、オークを倒し、民を救いました!」
木の枝を剣に見立て、一人が女神役、他の子が戦士役を演じている。“女神役”の子は、必ず左手を前に突き出す。
「盾を掲げよ! 恐れるな!」
その光景を見て、俺は思わず唇を噛んだ。ガリベンの声が、低くなる。
「英雄ごっこですよ。長年、我らエルフは伝説を信じてきました。黄金の女神、鋼の侍従、白銀の賢者、そして異界から来たりし勇者。その四人が森に現れ、我らを解放へ導くと」
俺は無意識に息を呑んだ。俺たちのパーティーと完全に一致していた。
「黄金の聖者……伝承の姿そのままね……」
ヴィヴィアナはアテナの方を見て言った。アテナは否定も肯定もせず、ただ考え込むような表情をしていた。
広場を抜けると、里の景色は一気に変わった。表通りの華やかさの裏に、荒れた家屋や欠けた屋根が見える。食糧の乏しさを思わせる小さな畑、削れた矢じりを鍋で打ち直す若者。
「……思っていたより苦しそうだな」
俺はつい漏らした。ガリベンは苦笑ではなく、諦めの笑みを浮かべた。
「苦しいなんて言葉じゃ足りないよ。この森は今、死につつある」
胸がえぐられるような言葉だった。
「狩場も資源もオークに奪われ、産業は途絶えた。若者には仕事も未来もない。だから残された選択肢は、“戦って死ぬ”か、“森を捨てて逃げる”か」
若いエルフの一団が、背を丸めて里の外へ向かって歩いていくのが見えた。門番は止めない。慣れているのだろう。ガリベンは淡々と続ける。
「この里は、魂が摩耗してるんだ。生きる未来より、立派に死ぬことの方が価値あると信じてしまっている」
その歪さは、悲しみでも、怒りでもなく、諦めの果ての希望だ。ジャンヌがそっと目を伏せた。
「なんて……なんて悲しいのでしょう……誰かのために、自分のために、生きることすら、許されないなんて……」
ヴィヴィアナは溜息をつく。
「希望が死に場所にすり替わるなんて、いかにも戦時社会ね。絶望しか見えない時、人は死を目的にして生きる」
彼女はさらに腕を組み、冷静に現状を分析した。
「社会が詰んだ時、人は死ぬ覚悟を持つことで、逆説的に自尊心を確保する。安いけど強烈な麻薬よ。“生き残る未来”が想像できないから」
アテナだけは違う表情を浮かべていた。哀れみでも、怒りでもない。何かを決意する光。
彼女はしばらく祠の像を見つめていた。そして、像と同じように左手を胸に添えて立ってしまう。完全に無意識だろうが。
周囲のエルフの視線が一斉に集まった。俺はゾッとした。偶然の一致が信仰を増幅させていく。
「……ガリベン。エルフの民は、もう戦う覚悟ができているのね」
ガリベンは少し驚いた顔をしたが、数秒後には静かに肯定した。
「そうだ。覚悟はとっくにできている。命など惜しくない」
アテナの瞳が細く輝いた。その光は暖かさではなく、革命の熱だった。
「なら、あとは戦うために“生きる”理由を与えるだけね」
俺はアテナを見た。アテナは笑っていた。恐ろしく強い笑み。その笑みが告げていた。理由ならここにある。そう言いたいのだ。
気付いてしまった。ガリベンが望む未来も、里の民が願う救いも、伝説の勇者パーティの誤解と結びついてしまっている。
嘘をつくつもりはなかったのに、嘘より深い場所で期待が膨らんでいる。このまま進めば後戻りできない。でも、止まってしまうほうが残酷だ。
俺の靴裏から、夜の森の冷気がじわりと伝わってくる。それでも足は前へ進む。
革命の火はたぶんもう着いてしまっている。




