25話「勘違い女神」
森の空気が変わったのは、境界線を越えた瞬間だった。湿度も温度も同じはずなのに、ひどく静かで重い。俺たちを案内するガリベンの足取りまで慎重になる。
「ここから先はエルフの領域だ。絶対に走ったり急に話しかけたりしないでくれ。警戒されているから」
警戒、という言葉の意味はすぐに分かった。木々の隙間から灯りが見えたかと思うと、エルフの里が現れた。
枝と根で編まれた空中通路、樹皮をくり抜いた家々、焚き火の光が揺れている。幻想的なその光景は森の中の都市と呼ぶにふさわしい。
巨大な木の根で作られた門の前で、十数名の弓兵が待ち構えていた。一斉に矢をこちらへ向ける。息を飲む音すら許されない緊迫。ガリベンが一歩前へ出た。
「待ってくれ! 彼らは敵じゃない! 僕を助けてくれた人間なんだ!」
だが門番の隊長らしき人物が、弓を下げる気配はなかった。
「ここは“デーモスの盾”が守護する聖域だ。外の者は入れない。理由はどうあれだ」
“デーモス”という単語が耳に引っかかった。
視線を巡らせると、エルフたちの背後に小さな祠が見えた。苔むした石造りの女神像。
左手に盾を掲げ、右手を下ろした、穏やかな表情の女神。その下には、擦り切れた祈りの札が何枚も貼られていた。
木片や布、小さな金属片、どれも生活の匂いのする祈りで、人々が手で触った跡がある。
「……あれはなんだ?」
思わず口から出た。ガリベンが小さく息を吐いて答える。
「デーモス神だ。僕たちが信仰する平和の女神。この里では、“左手の盾で守る者”の象徴なんだ」
そう言いながら、ガリベンは無意識に左手を胸に添えた。昔から染み付いた所作なんだと分かる。だが門番は冷酷に続けた。
「外の者は争いを連れてくる。だから我々は、この盾の内側に誰も入れない」
外の者とは恐らく俺たち人間のことを指しているんだろう。守りの神が排他の理屈の盾に変わっている。エルフの歴史を考えれば理解できるが、どれだけ苦しんできたんだろうか。
アテナが一歩前に出ようとし、俺はとっさに肩を掴んで止めた。今は言葉一つで飛び道具が飛んでくる。
「帰れ、人間。デーモス神の庇護は、森の民にしか与えられない」
その瞬間、地面を踏み鳴らす重い音が後方から響いた。鉄と革が擦れる、戦士の歩き方。
「どうした。騒がしいな」
近づいてきたのは長身のエルフの男。鋭い眼光、鍛え上げられた体躯に、傷だらけの皮鎧。周囲の隊員が一斉に背筋を伸ばした。
「イザーク様……!」
周囲のエルフたちがざわめく。事前にガリベンから聞いていたが、彼こそがこの里の戦士長イザークだった。
イザークは俺たちを一瞥し、そしてゆっくりと、アテナへと視線を移した。次の瞬間、彼の動きが、止まった。呼吸が、一拍遅れる。
「……まさか……」
イザークの視線は、まるで祠の女神像と、アテナを交互に見比べるかのようだった。左手の盾。穏やかな金髪。そして、どこか人を見下ろすようでいて、慈悲深い――と勘違いできなくもない雰囲気。
彼の表情が凍り、そのまま崩れ落ちるように片膝をついた。
「デーモス様……いえ……解放の女神よ」
アテナが一瞬だけ目を丸くし、次の瞬間には全てを理解したかのように、いつもの“調子に乗った女神スマイル”を浮かべていた。エルフたちの視線が一斉にアテナへ集中する。祠の前で祈っていた若者が、震える声で呟いた。
「……まさか、デーモス神が……顕現なされた……?」
信仰と勘違いが、静かに交差した瞬間だった。場の空気が、完全に止まっている。
アテナの前でひざまずき、祈りを捧げているイザーク。弓を構えたまま動けずにいる戦士たち。そして、女神像と見比べられているアテナ。
彼女は一瞬だけ視線を泳がせたが、すぐに顎を上げた。腰まで届く金髪を揺らし、まるで最初からそこに在ったかのような威厳を纏う。
「……ずいぶんと騒がしいわね」
俺は瞬時に悟った。あっ、こいつ女神デーモスの振りをしてエルフたちを騙すつもりだ。胃がきゅっと縮んだ。
イザークはゆっくりと顔を上げ、震える声で問いかける。
「女神よ、あなたは本当に……平和の神デーモス様……なのですか?」
その問いに、アテナは一拍置いた。そして祠の方へ視線を向ける。苔むした石像――左手に盾を掲げ、争いを鎮める女神。それから、自分の手元を見る。
斧だ、盾じゃない。一瞬の沈黙の後、アテナは微笑んだ。
「……姿形に、意味を求めるなんて。相変わらず、あなたたちは律儀ね」
妙にそれっぽいが、冷静に考えればなんの中身もない発言だ。イザークの眉が、ぴくりと動いた。
「ですが……その御手の武器は?」
来た。最大の矛盾点。伝承では盾を持っているはずなのに、アテナは斧を持っている。このピンチをどう切り抜けるのか。
周囲のエルフたちも、固唾を呑んで見守っている。若い戦士の一人が、思わず呟いた。
「この女は盾ではなく斧を持っている。やはり偽物では……」
その瞬間、アテナが低く唸るように言った。
「……愚問ね」
一同が息を呑む。
「盾とは、つまるところ守る意志の象徴にすぎないわ。時代が変われば、女神の在り方も変わる……違うかしら?」
アテナは、まるで自分自身に言い聞かせるように続けた。
「争いを止めるために、時には――武器を取らなければいけないこともあるわ」
エルフたちの間に、再びざわめきが走る。イザークは深く息を吸い、再びひざまずく。
「我らは……長きにわたり、デーモス神に祈ってきました。争いなき日々を……しかし、平和は訪れなかった」
彼は祠の方を振り返る。まだ朝露が残る女神像に、静かに頭を下げる。
「それでも……祈り続けました。女神は、我らを見捨てぬと……信じていました」
その声には、信仰と諦めが混じっていた。アテナは少しだけ表情を曇らせる。
……あれ? こいつ、ガチで追い詰められてないか? ようするにイザークはこう聞いているのだ。「俺たちが苦しんでいたのに、今まで、何やってたんだ?」と。
だが次の瞬間、彼女はふっと鼻で笑った。
「見捨てる? そんなわけないでしょう。」
アテナは一歩前へ出る。
「あなたたちは、祈るだけで終わる民じゃない。耐え続けるだけの存在でもない」
エルフたちの目が、次々と見開かれていく。
「私はずっと見ていたわ。森が削られ、若者が希望を失い、それでも祈りを捨てなかったことを」
本当に見ていたかのように語っているが、道中のガリベンの話をそのままコピーペーストしているだけだ。こいつのエルフ知識なんて、チラシの裏一枚にも満たないだろう。だが、エルフたちにとっては完全に“当たり”の返答だったようだ。
祠の前にいた若者が、思わず涙をこぼす。
「おお……女神様……」
もう勘違いが止まらない。俺の胃はとっくに死んでいた。アテナは内心でガッツポーズを決めているに違いない。だが表情は、あくまで慈悲深い女神然としたものだった。
ジャンヌは両手を胸の前で組み、恭しく頭を下げた。
「奥様は、いえアテナ様は、常に我々をお導きくださる存在でございます」
(こいつまで完全に信者になってる!?)
イザークは立ち上がり、深く一礼した。
「女神よ……あなたが現れた今、もはや迷いはありません」
彼は振り返り、里の戦士たちに告げる。
「この方々は女神の使徒である。失礼のないよう、もてなせ」
弓が下ろされ、敵意が歓喜へと変わる。エルフたちは、祠の前で次々と膝をついた。デーモス神の名を静かに唱えながら、そしてその生き写しであるかのようなアテナを仰ぎ見る。
アテナは、満足げに微笑んだ。
とんでもないことになった。俺は頭を抱えた。だが同時に、胸の奥がひどく重くなる。
この里は、女神を信じたいほど追い詰められていうことだ。その事実だけは、冗談じゃ済まされない重さで、俺の胸にのしかかっていた。




