22話「崩壊」
「……うわぁ……」
中は泥だらけだった。濁った水が引いたあとに残した薄茶色の泥が床一面に広がり、寝袋は流されて壁にへばりつき、木箱は砕けて、中身が散乱している。俺が数日前に買ったばかりの鍋は泥水の中で横倒しになり、ジャンヌが苦労して洗ってくれた皿は粒子まみれだ。
奥のほうにはアテナの宝物庫、美容ルームがあったはずだ。沈黙が走る。アテナがそろそろと歩み寄り、泥の山に手を突っ込む。
金の装飾が施された箱は、もはや原型をとどめていなかった。木材は割れ、内部の瓶はいくつか砕け、香油の甘い匂いが泥臭さと混ざり、むせ返るような異臭を放っていた。
「…………」
アテナは何も言わなかった。ただ、濡れた睫毛が震え、肩が小さく上下する。
ヴィヴィアナがため息をつく。
「冷静に考えれば予測できた事態よね。初めから、この洞窟自体が水はけが悪かったのよ」
ぐうの音も出ない正論だった。俺は思わず頭を抱えた。
(昨日俺はなんて言った? 少なくとも、帰るべき家があるって笑わせるなよ)
目の前の現実は、まさにその言葉をあざ笑うようだった。
「ご主人様……どうなさいますか?」
ジャンヌが不安げに問いかける。彼女のメイド服も泥で汚れ、裾が重そうに垂れていた。
「どうするもこうするも……これじゃ住めないだろ」
俺は泥を踏みしめて洞窟の奥まで確認した。入り口から約三十メートルほどの地点で、地面が大きく抉れ、水が流れ込んだ形跡があった。岩壁には水の跡が帯状に残り、何度も波が押し寄せたことを示していた。
寝具はほぼ全滅。調理器具も、道具類も、多くが流されたか壊れたかしていた。はっきりとわかった。ここに住むのは、もう無理だ。それにこのがれきの山を片づける気力はむもうなかった。
「……終わったな」
現状を変えるどころか、さらに悪化した。これからの宿代を考えるだけで胃が痛くなってくる。俺の呟きに、三人は返事をしなかった。
重たい沈黙だけが洞窟に漂う。外から吹き込む朝の風が、湿った土と腐敗した木の匂いを押し込んでくる。
そ
れでも、人は腹が減るらしい。しばらくしてジャンヌが、使えなくなった鍋の代わりに金属板を拾い上げ、小さな焚火を作りはじめた。火打石を鳴らし、湿った薪に火をつけようとするが、なかなかつかない。煙だけが白く立ちのぼり、俺の鼻を刺激した。
「……皆様、なんとか朝食は用意できそうです」
「すまん……」
やがて小さな炎がようやく薪を舐め、じりじりと燃え広がっていく。
湿ったパンを炙ると、わずかに香ばしい匂いが立ち上った。しかしそれでも、食欲が湧くほどの力はない。
「帰る家がなくなっちゃったわね」
ヴィヴィアナがぼそりと呟く。俺は返す言葉を見つけられなかった。
焚き火の炎が弱く揺れ、洞窟の影が長く伸びた。その影は、まるで俺たちの未来が漂っている暗闇そのもののように思えた。
湿ったパンを噛むと、口の中でぐしゃりと潰れ、冷たい酸味だけが広がった。焚き火は弱々しく明滅し、濡れた薪がときおりじゅっと湿った音を立てる。
借金まみれ。家(洞窟)は崩壊。寝具もほぼ全滅。かろうじて、装備だけは持ち出せた。
みんなを巻き込んでここまで来たのは……俺とアテナだ。借金返済の義務があるのも俺とアテナだ。そもそも、ジャンヌとヴィヴィアナは上級職。性格がちょっとアレだが、いくらでも就職先はあるだろう。
(これ以上、こいつらを巻き込むわけにはいかないな)
俺はゆっくりと息を吸い、肺に冷たい朝の空気を押し込んだ。
「……みんな」
声は自分でも驚くほど掠れていた。三人が同時にこちらを見る。アテナは毛布を肩に掛け、濡れた金髪を指で梳きながら眉を上げた。ジャンヌは膝の上で両手を組み、まっすぐに俺を見る。ヴィヴィアナは焚き火越しに目を細め、静かに首を傾げた。
俺は、はっきりと言った。
「……ここで、パーティーを一回解散しようと思う」
焚き火の音が止まったように感じた。
「…………は?」
一拍遅れて、アテナの声が洞窟跡の空気を震わせる。眉が跳ね上がり、毛布がずり落ちる。
「ちょっと待ちなさい。いまの、冗談じゃないわよね?」
「冗談じゃない。家も失って、金もなくて……これ以上迷惑かけられないだろ」
ジャンヌが真剣な顔で口を開く。
「ご主人様。迷惑だなんて、一度も思ったことはありません」
「でも――」
言いかけた俺の言葉を、ヴィヴィアナの静かな声が切った。
「私ね。四人で破産した方が面白いと思ってるのよ」
「いや、面白さ基準で決めんな!!」
だがそのツッコミに、力はなかった。むしろ胸が熱くなる。
「それに、あなたがいなくなったら……私が魔法を暴発した時にツッコむ人いなくなるじゃない」
「理由そこ!?」
「あなたの叫び声って、すごく緊張感があって……戦闘の偏差が高まるのよ。あれが無いと、つまらないわ」
「俺をおもちゃにするんじゃねえ!!」
ジャンヌが続けた。
「ご主人様。私はメイドです。ご主人様が行く場所が、私の居場所です。どれほど貧しかろうと、泥だらけであろうと、私はお側を離れません」
その瞳は曇りひとつなかった。さらにアテナが、大きなため息をついた。
「……はぁ、ダメよ。あんたがいなくなったら、私が女神として仲間を導く絵面が完成しないじゃない!」
「え、絵面……?」
「――じゃなくて! 私たちは魔王討伐パーティーでしょ。一人でも戦力欠けたらまずいのよ……だから、ほら、……ね?」」
口調は相変わらず高飛車なのに、どこか照れているように感じた。俺はゆっくりと笑った。
「……わかったよ。じゃあ今日からまたゼロからやり直すか」
三人が同時に頷く。
「もちろんよ!」「はい、ご主人様!」「破産記念パーティね」「ちげぇよ!!」
そんなやり取りすら、なんだか懐かしくなる。
朝日が森の向こうから差し込み、濡れた地面を金色に染めた。
毛布の温もりも、弱い焚き火の炎も、四人の明るい声も、全部が、どこかへ落ちていた心をひき上げていく。
俺たちは顔を上げて歩き出した。新しい生活場所を探すために。
そのとき背後で、轟音が響いた。振り返ると崩れかけていた洞窟がついに力尽き、入口から奥まで、盛大に崩れ落ちていった。
俺たちは無言で見つめるしかなかった。そして、ヴィヴィアナが言った。
「……帰る場所、本当になくなっちゃったわね」
三人の笑い声が、澄んだ朝空に吸い込まれていった。
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