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19話「街の支配者」

 その一言で、ギルド全体の空気が凍りついた。酒の匂いより、恐怖の匂いが強く感じられる。誰かがコップを置いた音がやけに大きい。アテナ以外は誰も顔を上げない。

 

 扉の方から、重く鈍い足音が近づく。踏みしめるたび、床が低く唸る。全員が視線を伏せた瞬間、ギルドの扉が乱暴に押し開けられた。

 

 外気の冷たさが吹き込み、さっきまでの熱気が一瞬で退いた気がした。踏みしめる重い足音。 床板が鈍く軋む。視界に入ったのは、巨大な影。革鎧をはち切れさせるような筋肉の塊、分厚い腕、戦斧のような尾の動き。獣と戦士の境界線に立つ存在、俺たちに門前で汚物をぶっかけたオーク駐留軍の隊長、クルーガーだった。

 

 ギルド内の誰も顔を上げない。テーブルに肘をついていた者は腕を下ろし、椅子に座っていた者は姿勢を正し、呼吸すら静かにする。

 

 沈黙は命を守るための習慣になっているようだった。クルーガーはゆっくりとカウンターに近づく。歩くたびに、ギルド全体が震えるように感じた。

 

 「聞こえたぞ。税金の話をしていたようだな」

 

 低い声が空気を押し潰すように響く。受付嬢の肩がビクリと跳ねた。冒険者たちの視線は床へ沈み、それ以上動かない。アテナだけが顔を上げたままだった。

 

 「ええ。話していたわ。英雄にふさわしい報酬が支払われるべきだと。制度を変えるべきだと」

 

 静かに、はっきりと言う。クルガーが視線を向ける。アテナの金の装飾が照明を反射しているのに、その輝きすら押しつぶす圧があった。

 

 「何か、勘違いをしているようだから言っておこう。税率を決めたのは市議会だ。俺たちオークは”助言”しただけだ。それに税金は街を守るために使われてる。このエルフェンウッドの安全を守ってやってるのは――」

 

 そこまで言い、クルガーは自分の胸を拳で軽く叩いた。

 「――俺だ」

 

 誰も否定しない。否定できない理由は、全員が知っていた。ギルドの奥で料理を運んでいたウェイトレスでさえ音を立てないように足を止めている。だが、アテナは一歩も引かず言葉を返した。

 

 「はあ? 街を守っているのは冒険者でしょ。魔物と戦っているのは私たち。あんたたちは昼間から高い酒を飲んだくれてるだけ。それに、市議会だってオーク軍の傀儡政権みたいなものでしょ。私達市民の声が反映されてないわ。そんなの絶対おかしいわ!」

 

 正論だった。ギルドにいた全員の胸の奥に刺さったはずだった。しかし誰一人表情を変えない。変えられない。

 

 クルーガーの視線がアテナの全身をゆっくりと見下ろす。

 

 「ククク……誰もついてこねぇみてぇだぞ、お嬢ちゃん」

 

 アテナの肩が震える。怒りではなく、悔しさだった。

 

 「いいか、これは街の民意だ。文句があるなら、借金を返して、おまえたちがここから出ていけばいいだけの話だろ?」

 

 言い捨てると、クルーガーは高らかに笑いながらギルドを後にした。周囲の護衛たちが静かに続く。扉が閉まった瞬間、息を止めていた冒険者たちが一斉に小さく息を吐いた。その音がやけに大きく聞こえた。


 ギルドを出てからしばらくの間、誰も喋らなかった。夕暮れの光はすでに消え、街灯が淡い影を道に落としている。街のざわめきは確かに聞こえるのに、俺たちの周囲だけ妙に静かだった。

 

 アテナは前を歩いている。金色の装飾が夜道に反射して、ゆらゆらと炎みたいに揺れていた。歩幅は大きいのに、足音は静かで、背中は怒りを飲み込んだまま固まっているようだった。

 ジャンヌはその後ろを歩きながら、何度も言葉を飲み込みそうになる仕草をしている。ヴィヴィアナは腕を組んで視線を上空に向け、星も見えない夜空の色を眺めていた。

 

 俺は声を失っていた。ギルドでの空気がまだ肌に張りついたまま離れない。怒りでもなく、悔しさでもなく、どう扱っていいか分からない黒い重さ。そんな沈黙を破ったのは、甲冑の金属音だった。

 

 「お前たち、ギルドでずいぶん騒ぎがあったそうだな」

 

 前方の建物の陰から、カリスが姿を現した。深紅の胸当てに月が反射して、輪郭が淡く浮かび上がる。初心者クエストの時、ルーキーの俺を指導してくれた女性教官、忘れるはずもない。

 

 「お久しぶりです、カリスさん」

 

 カリスは俺たち全員の顔を見渡し、状況を察したように目を細めた。

 

 「……クルーガーとやり合ったようだな。よく生きて出られた」

 

 言葉は淡白だが、ただの冷淡ではなく本気で安堵している響きがあった。俺たちが口を開くより早く、カリスが周囲に視線を走らせる。

 

 「ここでは耳が多すぎる。……馴染みの店がある。そこで話そう」

 

 その一言だけなのに、空気が切り替わる。事情を知っている者の声だった。カリスが先に歩き出す。俺たちは無言のまま、ついていった。

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