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名もなき灯火  作者: 富賀見 みあ
境界なき声

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28. 誰かの声

断層領域の風は、音を持たなかった。


足音も、息遣いも、やわらかく空間に溶けていく。鼓膜に届くはずの気配が、遠くの水面に吸い込まれるようだった。


けれど、あなたには確かに聞こえていた。


小さな声が、どこかで、誰かの名前を呼んでいた。

かすかに、頼るように、でも切実に。


(ここに、いる──)


その声は、あなたの胸の奥をそっと揺らした。


身体がふわりと浮かぶような感覚。

視界の輪郭がやわらぎ、時間の流れもまろやかに歪んでいく。

まるで、世界があなたの歩みに合わせて、やさしく波打っているかのようだった。


それでも、あなたは立ち止まらなかった。

その声をたよりに、まっすぐに進んでいく。


崩れかけた石の窪地に、ひとりの子どもが、うずくまっていた。

その姿は、霧のなかで消えかけた影のように、はかなく揺れていた。


存在が、ゆらゆらと揺れていた。

輪郭がほどけ、色が淡くなり、言葉や形が空気に溶けかけていた。

そこにいるのに、ここではないどこかへ、ゆっくりと遠ざかっているようだった。


「……だれか……わたしを……」


その声に、あなたはそっと手を伸ばした。

指先が触れそうで、まだ届かない。

けれど、怖くはなかった。


「……わたしは、ここにいるよ。

だから──君も、ここに“いて、いい”んだよ」


あなたの手が、その子の肩にふれたとき。

そこには、かすかに震える、あたたかい感触があった。


その瞬間、世界がやさしく震えた。


風がそっと渦を巻き、淡い光がふたりをやわらかく包み込む。


観測でもなく、記録でもなく、階位でもない。


ただ、“誰かの言葉”が、“存在の輪郭”をやさしく呼び戻した。

それは、とても静かな奇跡のようだった。


子どもの身体が、ほんの少しずつ、ぬくもりを取り戻していく。

肩に感じる重さが少し増し、頬にあたたかな色が戻り、

その目が、ゆっくりとあなたを見つめた。


「……わたし……まだ、いるの?」


「うん。ちゃんと、ここにいるよ」


あなたがそう答えると、子どもの瞳に涙がにじんだ。

ひとしずくの涙が、ゆっくりとこぼれ、石の上に落ちていく。

音もなく消えていったそのしずくは、誰にも観測されないかもしれない。

けれど──それは、たしかに“残っていた”。


***


ふたりが街に戻ったとき、広場には静けさが広がっていた。


焚き火のやさしいゆらめきだけが、夜の空気にまたたいていた。

人々は言葉を失い、ただその光景を見守っていた。


誰も言葉を発さなかった。

けれど、そのまなざしが、ひとつの想いを伝えていた。

“この光景を、きっと忘れない”と。


誰も近づくことのできなかった断層領域から、

あなたは、ひとりの子どもと一緒に帰ってきた。


その意味を、今はまだ誰も言葉にできなかった。

でも、確かに──それは、今も、ここに“在る”。


***


その夜、焚き火のそばで、子どもがそっとつぶやいた。


「さっき……声がしたんだ。

君じゃなくて、もっと、遠くの声。

すごくあたたかくて、胸がぎゅってなった」


「……どんな声だったの?」


「うまく言えないけど……

“おかえり”って、言ってた気がする。

……君の声に、ちょっと似てた」


あなたの胸が、ふわりと波立った。

その言葉に、なにか大切な記憶がそっと息を吹き返すような、やさしい気配があった。


(──おかえり)


その言葉は、どこにも記録されない。

端末にも、帳簿にも、誰の式にも残らない。


けれど──それは、確かに“今も在る”。


それは、誰かが“あなたを覚えてくれている”という証。

そして、あなたが“ここにいていい”という、静かであたたかな輪郭だった。

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