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名もなき灯火  作者: 富賀見 みあ
境界なき声

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26. 夢のなかに灯る名もなき明日

あなたは谷を越え、崖のかげをたどってきたはずだった。


けれど、風の音も、足どりの重さも、いまは記憶のなかにゆるやかに溶けている。

髪はぱりぱりと乾き、肌に触れる空気は、紙のように薄く冷たい。

鼻先をかすめた匂いが、記憶の奥をゆるやかに揺らす──見知らぬはずの街なのに、なぜか懐かしい。


長く張りつめていた息が、どこかへと細かく散っていくようだった。


そこに現れたのは、輪郭のあいまいな街だった。

それが本当に“ある”ものなのか、あなたの目が見せる幻なのか──確かめることさえ、もう意味を持たないように思えた。


空は高く、風は透明で、陽の光は夢のなかのようにやわらかい。

木と土でできた家々が、丘のふちで肩を寄せ合っている。

屋根に根づく草が揺れ、干された薬草がささやくように匂っていた。


祝式の塔も、観測台も、記録を刻む装置も見あたらない。

ここは、記されることを拒まれた場所。けれど、確かに息づいている。

世界のどこにもないはずの、ひそやかなやすらぎが、あなたを包んだ。


すれ違う老人が、あなたに目を向ける。

名を問うこともなく、ただ、帽子を取って、小さくうなずく。


「ようこそ」


──それだけ。

けれど、それだけで、心がすこしほどけていく。


カインが、小屋の前に立っている。

あなたは、その背に導かれるように歩いた。

並んでくぐった扉の先、「宿」と呼ばれるその場所もまた、夢の続きのようだった。


干し草の寝台、繕いの跡がある毛布、手入れされた水差し。

ひとつひとつが、時間の底に沈んだような、遠い静けさをまとっている。


言葉少なな女性が、静かに微笑み、何も言わずに去っていく。

その気配さえも、どこかあたたかかった。


──あなたは、外に出る。

夜がくる前の、あわい時間。

水場を探して向かうけれど、「埋まっている」という印が、あなたを立ち止まらせる。


振り返れば、小屋のなかでカインが毛布を整えている。

その目がこちらを見るが、言葉はない。

あなたもまた、問いを胸の奥にしまったまま、静かに歩き出す。


気づけば、畑の端に子どもがひとり。

土を返す手つきが、不思議と、記憶のなかの誰かに重なって見えた。


「ねえ、名前は?」


問いかけは、風に浮かんだようにやさしかった。

子どもは驚いたように、でもすぐに笑う。


「ないよ。ここでは、呼ばないんだって」


「じゃあ、どうしてるの?」


「呼ぶんじゃなくて、覚えるんだよ。

この声、この歩き方、このにおい──それが、わたし。

そうやって、“誰かのなかにだけ在る”んだって」


その言葉が、あなたの胸の奥に静かに落ちていく。

それは知らないはずの答えなのに、どこかでずっと知っていたような響きだった。


記録には残らないけれど、記憶には宿る。

それは、輪郭のない安心感だった。


──陽が傾き、琥珀の光が地面を染めていく。

焚き火の明かりが灯り、人々が一人、また一人と集まってくる。


誰も名前を呼ばず、命の順も問わず、ただ火のそばに腰を下ろす。

声が、うたのようにこぼれてくる。

旋律のない、意味さえとぎれとぎれの古い言葉。


けれど、それはたしかに「誰かが誰かを覚えている」響きだった。


あなたは目を閉じる。

焚き火の光が、まぶたの裏でゆらゆらと揺れる。

風が髪を撫で、火の音が、胸の奥をそっと照らしていく。


そのとき──


(あなたが来るのを、願っていた)


その声が、どこからともなく重なる。

誰のものかもわからない。

でも、なぜか涙が出そうになった。


「……願い、だったの……?」


そのささやきは、風のなかへとほどけていった。


──そして気づけば、あなたは宿に戻っていた。

目覚めたような気もするし、眠っていたままのような気もした。


カインの寝息が、穏やかに聞こえてくる。

目を合わせることも、言葉を交わすこともないけれど、

あなたがそこにいると、彼はごろんと寝返りを打った。


「……おかえり」


その声が夢のなかのように遠く、やさしい。


「……ただいま」


そう応えた自分の声もまた、幻のようだった。


毛布にくるまり、あなたはそっと目を閉じる。

夜のぬくもりに包まれて、旅の疲れが静かに溶けていく。


***


──その夜、ふたりの夢には、

まだ名前のない“明日”が芽吹いていた。


草の海を、あなたは歩いていた。

名もない花が風に揺れ、どこまでも、どこまでも広がっていく。


子どもの笑い声。

焚き火のうた。

祈りの記憶が、草の香りとともに流れてくる。


空を見上げれば、雲のあいだから光が降りてくる。

その光は、まっすぐに、あなたの胸の奥へと届いた。


(わたしは、ここにいる)

それは、あなたの胸の奥に静かに届いた──

誰かの声かもしれないし、あなた自身の思いだったのかもしれない。


名を呼ばれず、記録もされず、 けれど──たしかに、ここにいる。


誰かの記憶に、そっと宿るように。

それは「消えない」ことの証であり、

「忘れられても、生きていける」という、やさしい祈りだった。


そして──

あなたは、静かに願った。


「ここに、いたい」と。

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