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名もなき灯火  作者: 富賀見 みあ
記録の深き淵

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30/46

【幕間】風と谷の旅路

次の街(名前の無い街)までの様子と街での町長との面会。別視点。

***


それは、灰の天蓋を抜けた朝のことだった。


ぬくもりを帯びはじめた陽光の下、イリスとカインは西の尾根を目指して歩き始めた。


道は、存在しなかった。

旧地図にも載らず、獣道よりも細い痕跡が、かろうじて方角を示していた。


足元には砕けた石英や、かつて崩れた観測装置の残骸が転がっていた。

それでも、ふたりは黙ったまま歩き続けた。


言葉よりも、呼吸と足音、そして風の音が、互いの存在を確かめ合っていた。


やがて視界が開け、荒れた平原に出る。

風が強く、イリスの髪が何度も空に舞い上がった。


その先には、広く口を開けた谷があった。

深く刻まれたその地形は、かつてこの地に流れていた熱の痕跡。

複雑に絡んだ断層が、地面にいつ崩れてもおかしくない不安定さを孕んでいた。


ふたりは足を止めた。

カインの封刻剣レルティアが淡く発光し、谷を走る影の中へと光を放つ。獣の気配を探るためだった。


「……動いてる。獣が近い」


その夜、風の匂いに混じって、獣の気配が忍び寄ってきた。

牙をむく気配。灰にまみれた毛皮。

咆哮が響く瞬間、イリスは息を呑んだ。


獣は三肢で這うようにして現れた。

焼け焦げた外皮に、白い角が何本も突き出し、三つの目が異様な光を宿していた。


カインの祝式炉から、灰と金の揺らめきが立ち上がり、彼の身体を静かに包む。

彼は何も言わず、踏み込んだ。


咆哮よりも一瞬早く、カインの右手が閃いた。

レルティアが光とともに空を裂く。


鋭さよりも、正確さ。

肩口から腹部までを、斜めに切り裂いた。

だが獣は倒れなかった。


咆哮とともに飛びかかる。

カインは岩を蹴って横へ跳び、爪が空を裂いて地に深い溝を刻む。


「動きが……早いな」


息を整える間もなく、再び刃が走る。

今度は脚を狙った。


乾いた音。獣の片脚が崩れ、バランスを失う。

巨体がぐらつく。

その隙を突き、最後の一撃が突き立てられた。


静かに、獣は地に沈んだ。


カインはしばらく動かず、亡骸を見下ろしていた。

イリスはその背を見つめ、夜の冷たさのなかで、彼の肩がふっと沈むのを見逃さなかった。


──そして夜明け前、カインは獣の肉を焚火に乗せていた。


「お前が食べられそうなとこだけ、焼いてる」


そう言って差し出された一切れは、少し焦げていたが、香ばしかった。


***


翌朝、イリスの足取りはわずかに重くなっていた。


「……昨日より、ちょっと寒いね」


彼女がぽつりと呟くと、カインは何も言わずに振り返り、自分の外套をそっと肩にかけた。


谷の風が頬を切るように冷たかった。

断崖に近づくにつれ、空気は鋭くなり、呼吸が浅くなる。


彼女はカインの背を見つめながら、霞む空を仰いだ。


風が、吹いていた。

冷たいはずなのに、不思議とやさしい。

どこか遠くの街の匂いが、微かに混じっていた。


***


道なき谷を抜け、崖の影を伝い歩いた先で。

ふたりは、誰の記録にも残らない“ひとつの街”にたどり着いた。


陽はすでに高く、空気は乾いていた。

祝式の塔も、観測台も、灯す記録端末すらない。


すれ違った老人が、ぼんやりとしたイリスに目を向ける。

名も問わず、階位も尋ねず、ただ帽子を取って、小さくうなずいた。


「ようこそ」


──それだけの言葉が、ひどく遠く、あたたかく感じられた。


カインは、先に小屋の前に立っていた。


ふたりで入った「宿」と呼ばれる小さな小屋は、石と木でできた、簡素で、やさしい場所だった。


壁際には干し草を詰めただけの寝台。

棚に置かれた毛布には、繕いの跡。

隅にある手桶や水差しには、丁寧な手入れの痕跡があった。


言葉少なな女性が、静かに微笑み、立ち去っていく。


イリスを寝台に寝かせ、カインは町長のもとへと向かった。


***


扉が二度、控えめに叩かれた。


応じる声はない。数秒の静寂の後、カインは静かにドアノブを回し、扉を押し開けた。

乾いた砂の匂いと、崖風に乗った埃が室内に流れ込む。空気はひどく乾燥しているが、家具の配置は整い、机には昨夜のままの茶器が並んでいた。


「……観測宦の紋章、ですね。しかし、照合ログには反応がありませんが?」


部屋の奥、窓辺に立つ老人がそう言った。年齢不詳の声。顔に刻まれた皺は深く、しかしその眼差しは穏やかで鋭かった。


「必要があって来ました」


カインの返答は簡潔だった。


老人はふっと微笑を浮かべる。


「フィュルネイン・アーフィンより、世界に沈むと聞きました」


「……“遠きお方”の名に免じて、と申せば、納得すべきでしょうな」


フィュルネイン・アーフィン。老いた者たちの間では、そう呼ばれる名がひとつの象徴だった。


「お入りください。異邦の方。記録にないあなた方が、この街に立ち寄るのは、偶然ではありますまい」


カインは軽く頷き、足を踏み入れた。床板がわずかに軋む。室内は薄暗く、風に揺れるカーテンが天井の埃を舞い上げる。


「そういえば――ラッセル・エイドリアンをご存知ですかな」


町長の声がやや低くなった。


「制度の枢機に座していた方。この街にも、いろいろと力を貸してくださった。西にある“風の穴”についても、幾度か話を交わした記憶があります。……あなた方の旅路にも、関わっておられたのでしょう? 今は、どこに」


「途中で会いました。ただ、途中で休むと……」


言葉の続きを、カインは口にしなかった。その沈黙が、多くを語っていた。


「彼女のことも?」


「“あの子”のことなら、ほんの少しだけ……あの方と共に歩む者なら、否が応でも記録に残らぬ場所に名が届くものです」


老人の視線は、窓の外、遠くの崖の向こうを見つめていた。


「この街には、名がありません。記録の枠からも、観測の目からも外れた地。名を持たぬ者たちが流れ着き、名を持たぬままに暮らしているのです」


しばしの沈黙の後、町長はふと語った。


「……町の北端には、“断層領域”と呼ばれる裂け目が存在します。時折、地の底から揺れるような気配が立ち上ることがありますが……その正体は、誰にも分かりません」


「すぐ近く、ですね」


「ええ。目を覚ますかどうかは分かりません。明日か、百年先か。けれど、確かにここには“終わり”が眠っている」


窓の隙間から吹き込む風が、茶器のひとつをかすかに揺らした。


「この街は、“観測されない”ということに、ひとつの安らぎを見出しているのです。外から来た者が、それをどう見るかは……さて」


カインはすぐには応えず、黙ったまま、ラッセルが遺したかもしれない遠くの空白を見た。


やがて、町長が静かに尋ねた。


「……ラッセルについて、あの方は何かを残されましたか?」


カインは視線を落とし、ほんの短い間を置いて言った。


「明言はなかった。ただ……気にかけていた。彼女を」


老人はゆっくりと頷いた。


「そうでしょうな。あの方の問いには、いつも“誰か”の影が揺れていた」


町長との面会を終え、宿屋へ戻ると、イリスは目を覚ましていた。

表情には疲れが残っていたが、体調に問題はなさそうだった。

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