【幕間】風と谷の旅路
次の街(名前の無い街)までの様子と街での町長との面会。別視点。
***
それは、灰の天蓋を抜けた朝のことだった。
ぬくもりを帯びはじめた陽光の下、イリスとカインは西の尾根を目指して歩き始めた。
道は、存在しなかった。
旧地図にも載らず、獣道よりも細い痕跡が、かろうじて方角を示していた。
足元には砕けた石英や、かつて崩れた観測装置の残骸が転がっていた。
それでも、ふたりは黙ったまま歩き続けた。
言葉よりも、呼吸と足音、そして風の音が、互いの存在を確かめ合っていた。
やがて視界が開け、荒れた平原に出る。
風が強く、イリスの髪が何度も空に舞い上がった。
その先には、広く口を開けた谷があった。
深く刻まれたその地形は、かつてこの地に流れていた熱の痕跡。
複雑に絡んだ断層が、地面にいつ崩れてもおかしくない不安定さを孕んでいた。
ふたりは足を止めた。
カインの封刻剣が淡く発光し、谷を走る影の中へと光を放つ。獣の気配を探るためだった。
「……動いてる。獣が近い」
その夜、風の匂いに混じって、獣の気配が忍び寄ってきた。
牙をむく気配。灰にまみれた毛皮。
咆哮が響く瞬間、イリスは息を呑んだ。
獣は三肢で這うようにして現れた。
焼け焦げた外皮に、白い角が何本も突き出し、三つの目が異様な光を宿していた。
カインの祝式炉から、灰と金の揺らめきが立ち上がり、彼の身体を静かに包む。
彼は何も言わず、踏み込んだ。
咆哮よりも一瞬早く、カインの右手が閃いた。
レルティアが光とともに空を裂く。
鋭さよりも、正確さ。
肩口から腹部までを、斜めに切り裂いた。
だが獣は倒れなかった。
咆哮とともに飛びかかる。
カインは岩を蹴って横へ跳び、爪が空を裂いて地に深い溝を刻む。
「動きが……早いな」
息を整える間もなく、再び刃が走る。
今度は脚を狙った。
乾いた音。獣の片脚が崩れ、バランスを失う。
巨体がぐらつく。
その隙を突き、最後の一撃が突き立てられた。
静かに、獣は地に沈んだ。
カインはしばらく動かず、亡骸を見下ろしていた。
イリスはその背を見つめ、夜の冷たさのなかで、彼の肩がふっと沈むのを見逃さなかった。
──そして夜明け前、カインは獣の肉を焚火に乗せていた。
「お前が食べられそうなとこだけ、焼いてる」
そう言って差し出された一切れは、少し焦げていたが、香ばしかった。
***
翌朝、イリスの足取りはわずかに重くなっていた。
「……昨日より、ちょっと寒いね」
彼女がぽつりと呟くと、カインは何も言わずに振り返り、自分の外套をそっと肩にかけた。
谷の風が頬を切るように冷たかった。
断崖に近づくにつれ、空気は鋭くなり、呼吸が浅くなる。
彼女はカインの背を見つめながら、霞む空を仰いだ。
風が、吹いていた。
冷たいはずなのに、不思議とやさしい。
どこか遠くの街の匂いが、微かに混じっていた。
***
道なき谷を抜け、崖の影を伝い歩いた先で。
ふたりは、誰の記録にも残らない“ひとつの街”にたどり着いた。
陽はすでに高く、空気は乾いていた。
祝式の塔も、観測台も、灯す記録端末すらない。
すれ違った老人が、ぼんやりとしたイリスに目を向ける。
名も問わず、階位も尋ねず、ただ帽子を取って、小さくうなずいた。
「ようこそ」
──それだけの言葉が、ひどく遠く、あたたかく感じられた。
カインは、先に小屋の前に立っていた。
ふたりで入った「宿」と呼ばれる小さな小屋は、石と木でできた、簡素で、やさしい場所だった。
壁際には干し草を詰めただけの寝台。
棚に置かれた毛布には、繕いの跡。
隅にある手桶や水差しには、丁寧な手入れの痕跡があった。
言葉少なな女性が、静かに微笑み、立ち去っていく。
イリスを寝台に寝かせ、カインは町長のもとへと向かった。
***
扉が二度、控えめに叩かれた。
応じる声はない。数秒の静寂の後、カインは静かにドアノブを回し、扉を押し開けた。
乾いた砂の匂いと、崖風に乗った埃が室内に流れ込む。空気はひどく乾燥しているが、家具の配置は整い、机には昨夜のままの茶器が並んでいた。
「……観測宦の紋章、ですね。しかし、照合ログには反応がありませんが?」
部屋の奥、窓辺に立つ老人がそう言った。年齢不詳の声。顔に刻まれた皺は深く、しかしその眼差しは穏やかで鋭かった。
「必要があって来ました」
カインの返答は簡潔だった。
老人はふっと微笑を浮かべる。
「フィュルネイン・アーフィンより、世界に沈むと聞きました」
「……“遠きお方”の名に免じて、と申せば、納得すべきでしょうな」
フィュルネイン・アーフィン。老いた者たちの間では、そう呼ばれる名がひとつの象徴だった。
「お入りください。異邦の方。記録にないあなた方が、この街に立ち寄るのは、偶然ではありますまい」
カインは軽く頷き、足を踏み入れた。床板がわずかに軋む。室内は薄暗く、風に揺れるカーテンが天井の埃を舞い上げる。
「そういえば――ラッセル・エイドリアンをご存知ですかな」
町長の声がやや低くなった。
「制度の枢機に座していた方。この街にも、いろいろと力を貸してくださった。西にある“風の穴”についても、幾度か話を交わした記憶があります。……あなた方の旅路にも、関わっておられたのでしょう? 今は、どこに」
「途中で会いました。ただ、途中で休むと……」
言葉の続きを、カインは口にしなかった。その沈黙が、多くを語っていた。
「彼女のことも?」
「“あの子”のことなら、ほんの少しだけ……あの方と共に歩む者なら、否が応でも記録に残らぬ場所に名が届くものです」
老人の視線は、窓の外、遠くの崖の向こうを見つめていた。
「この街には、名がありません。記録の枠からも、観測の目からも外れた地。名を持たぬ者たちが流れ着き、名を持たぬままに暮らしているのです」
しばしの沈黙の後、町長はふと語った。
「……町の北端には、“断層領域”と呼ばれる裂け目が存在します。時折、地の底から揺れるような気配が立ち上ることがありますが……その正体は、誰にも分かりません」
「すぐ近く、ですね」
「ええ。目を覚ますかどうかは分かりません。明日か、百年先か。けれど、確かにここには“終わり”が眠っている」
窓の隙間から吹き込む風が、茶器のひとつをかすかに揺らした。
「この街は、“観測されない”ということに、ひとつの安らぎを見出しているのです。外から来た者が、それをどう見るかは……さて」
カインはすぐには応えず、黙ったまま、ラッセルが遺したかもしれない遠くの空白を見た。
やがて、町長が静かに尋ねた。
「……ラッセルについて、あの方は何かを残されましたか?」
カインは視線を落とし、ほんの短い間を置いて言った。
「明言はなかった。ただ……気にかけていた。彼女を」
老人はゆっくりと頷いた。
「そうでしょうな。あの方の問いには、いつも“誰か”の影が揺れていた」
町長との面会を終え、宿屋へ戻ると、イリスは目を覚ましていた。
表情には疲れが残っていたが、体調に問題はなさそうだった。




