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名もなき灯火  作者: 富賀見 みあ
記録の深き淵

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22. 灰の天蓋の中で

坑道の空気は、ひと息ごとに冷たさを深め、静かに肺の奥へと沈んでいった。


湿った石のにおい、煤のざらつき、錆びついた鉄の気配。

それらが折り重なり、年月の澱となって、この空洞に静かに降り積もっているようだった。


壁面に目を向けると、鉱石の縞とは異なる、不自然な刻みが浮かんでいた。

人の手で刻まれたものだが、装飾とも鉱山の印ともつかない。


「……ここが、本当に……」


あなたがそうつぶやくと、カインはわずかにうなずいた。

そのまなざしは、天井へ伸びる放射管の影にとどまっていた。


「正式には、“式構造体埋設施設”と呼ばれていたらしい。

鉱石を掘るためじゃなくて、観測装置や実験式を地中に埋めて、演算させるための……“空洞”だったんだ」


その言葉が、あなたの胸の奥にゆっくりと沈んでいく。

だが、そのとき──坑道の奥から、低く響く声が聞こえてきた。


「──誰だ」


重く、乾いた声だった。

その一声が、坑道の空気をさらに重たくする。


松明の明かりが揺れる先、崩れた演算炉のかたわらに、一人の男が立っていた。

灰のような白髪、焼け焦げた式紋の装束。

左目には金属の義眼が嵌め込まれ、どこか無機質な光を湛えている。


「指先か? それとも……まだ“記録され足りない”誰かか」


その声が響いた瞬間、胸の奥がかすかに揺れた。

けれど、それは声そのものではなかった。

空間に漂う気配、その沈黙のなかにひそむ雰囲気──

それが、夢の底に沈めたはずの誰かを、確かに呼び起こしていた。


「……フィン?」


あなたが名を呼ぶと、男のまなざしがわずかに揺れた。


カインが静かに言葉を継ぐ。「……“導き手の座”にいた、フィュルネイン・アーフィン──それが、あなたなのか?」


男は唇の端をわずかに持ち上げ、肩を小さくすくめた。


「そんな名前は、もうここには残っていない。

だが……お前は、“記録を棄ててまで”ここへ来たのか?」


あなたは言葉を失い、答えを見つけられずにいた。

かつて村の誰もが遠巻きにしていた頃、

ひとりだけ、夜明け前の霧のなかで名を呼び、手を差し伸べてくれた男の子。

その目線のぬくもりも、小さな約束も、とうに夢の底に沈んだはずだったのに──

この坑道の奥、煤のなかに立つその姿が、すべてを呼び戻していた。


カインが一歩踏み出し、まっすぐに言葉を返す。


「……記録に守られて、生きてきた。

けれど、それだけじゃ足りないって──やっと気づけたんだ」


その声には、確かな決意が宿っていた。

坑道に反響するその響きは、鈍い鼓動のように空気を震わせていた。


フィンはしばし黙してカインを見つめ、やがて目を細める。


「足りない、か……そうだな。

記録というのは、もともと“誰かを守るため”に始まった。

けれど、いつのまにか“記録するために誰かを傷つける”ものに変わってしまった」


その声に怒りはなかった。

ただ、深く冷えた諦念と、静かな墓標のような響きが滲んでいた。

まるでそれ自体が、どこかへ遺すための言葉のように。


「イリス──」


彼はあなたを見つめる。

義眼の奥に揺れる光が、黄昏のなかの星のように、冷たくもやさしく煌めいていた。


「お前は……誰の記録にもならずに、ここにいるのか?」


その問いに、胸の奥がきゅっと鳴った。

それが痛みなのか、迷いなのか──言葉にならない感覚が、内側から静かに響いていく。


(……フィン。やっぱり、あなたなの?)


かつて、名を呼んでくれたその人。

あの夜、誰にも知られず交わした沈黙の契約。

それらが、灰のにおいとともに胸の奥で息を吹き返していく。


問いが、思考よりも先に心を巻き込んでいく。

誰にも問われたことのなかった問い。

そしてきっと、誰にも答えを与えてもらえない問い。


あなたは答えを見つけられず、静かに俯いた。

それを見たフィンは、崩れた演算炉のかけらに腰を下ろし、やさしく手招きした。


「座れ。話をしよう。

ここは、過程も結果も残らない“灰の天蓋”。

言葉は誰にも届かない。だからこそ……ほんとうの声が出せる」


少し迷いながらも、あなたはそっと隣に腰を下ろす。


灰を含んだ空気が、胸の奥にゆっくりと満ちていく。

フィンが灯した小さな火が、坑道の奥に赤い揺らぎを生んでいた。


「記録されない者は、狂う。

……だが、記録されすぎた者もまた、狂ってしまうのだ」


その一言に、思わず息をのんだ。

それはきっと、導き手という超越の座にあった彼自身の言葉。

記録を傍観し、制度の深層に触れてきた彼の、静かな告白だった。


そして今──記録の座を離れ、人の形をとる者。


「……私はここで、“還りの構え”を探している。

かつて在ったもの、かつて在った“かたち”。

たとえ断片でも、兆しでも──欠片ひとつでも触れられたなら、それでいい。

だが、今のこの形状では、歩を進めることすらままならない」


背中は瓦礫に沈むようにしていたが、その声だけは静かで真っすぐだった。

祈りにも似た、それでいて誓いのような確かさがあった。


フィンの視線が、坑道のさらに奥──崩れた岩の向こうへと一瞬向けられた。

そのまなざしには、かすかな畏れと、何かを包むような静けさがあった。


「……あそこに、一人の少女がいる。

名も記録もない──いや、あった。彼女自身が、“そうあるように”刻んだ名と記録だ。

何もしなければ、彼女は“いない者”として、誰の目にも触れずに消えていった。

……それでも彼女は、自分をここに留めた。誰かに見つけてもらうために」


あなたはふと、心の奥に薄く刻まれた言葉を思い出す。

“記録されないものは、この世界では存在しない”。

けれど、そこに漂う空気の濃度、その場を満たす静かな気配が──確かに、何かの存在を示していた。


坑道に揺れるその灯のように、あなたの胸の奥にも、小さな想いが、ゆっくりと光を灯しはじめていた。


──それは、祈りにも似た、名もなき意志だった。

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