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名もなき灯火  作者: 富賀見 みあ
記録の深き淵

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23. 嘘の刻印

フィンとの対話のあと、


あなたは胸元の小袋から、ひとつの欠片を取り出していた。

淡く透きとおった石。かすかな光を宿すそれは、まるで遠い記憶の残滓のように、ひんやりとした存在感を放っていた。


意味も由来もわからないまま、なんとなく拾って持ち歩いていたもの。

けれど──フィンの視線がそれに触れたとき、空気がわずかに震えた。


「……それを、君が持っていたのか」


その問いは、凍りついた水面に走る、かすかな亀裂のようだった。

あなたは、小さくうなずく。


「途中の遺構で……拾ったの」


自分の言葉に確信はなかった。

けれど、石の中に眠っていた何かが、今、ようやく目を覚ましたような気がした。


「でも……きっと、渡すために持ってたんだと思う」


フィンは静かに手を差し出した。

あなたがその欠片を預けると、彼の指先に淡い光が広がった。

光は静かに脈打ち、義眼の奥へと吸い込まれてゆく。

坑道の空気が、一度だけやわらかく波打った。


「ありがとう……これで、彼女のそばにいられる。

ほんの少しでも、あの子の時間に触れられる」


その声は、かつての導き手ではなかった。

小さな願いを胸に抱えた、ただひとりのひとの祈り。

あなたが知っていた、あの頃のフィンの姿だった。


「ロシェ……」


名を呼ぶ声に、坑道の奥でひそやかな風が走る。

あなたはそれ以上、何も言わず、ただ静かにうなずいた。

その想いが、胸の奥へ穏やかに沈んでいくのを感じながら。


欠片の光は、フィンの手の中で静かに脈を打ち続けていた。


その光をしばらく見つめてから、フィンはぽつりと口を開く。


「……西に、ひとつ街がある。世界に沈みゆく場所だ。

けれど、君が行けば──もしかしたら、あの街を救えるかもしれない」


その言葉は確信ではなく、予感のように静かに響いた。

闇の中で差し出された、小さな道標のようだった。


それは、まだ終わらない物語の、小さな灯火だった。


やがて、あなたたちは廃坑のさらに奥へと案内される。


壁がゆるやかに狭まりながら続く通路の先、

そこに、それはひっそりと息を潜めるように存在していた。


数枚の板と石材だけで組まれた、簡素な小部屋。

古びた毛布が一枚、壁に垂れている。

装飾も装置もない、忘れ去られた空洞。


灯りはほとんど届かず、白い息がかすかに揺れるほどの冷たい空気が流れていた。

石と煤、それに遠い錆のにおいが染みついた空気は、長く閉ざされた時間そのもののようだった。


「この先にいるのは、“自分で記録を偽った愚かな子”だ。

……けれど、誰よりも強く、“在りたかった者”でもある」


フィンはそう言い残し、あなたたちの背を追うことなく、闇の中へと溶けていった。


その姿が消えたのを見届けてから、あなたは小さな扉にそっと手をかける。


その部屋にいたのは、ひとりの少女だった。


壁にもたれて膝を抱え、痩せた身体を毛布でくるんでいる。

足元の火鉢に灯る小さな火が、赤く揺らめき、部屋の輪郭と少女の表情を、ほのかに照らしていた。


気配に気づき、少女は顔を上げた。

目を細め、声を落とす。


「……観測官じゃ、ないよな?」


その声には、怯えというよりも、深い疲れと慎重さがにじんでいた。


「違う。俺はもう、記録の外にいる」


カインの静かな声に、少女はわずかに肩の力を抜いた。

けれど、心の扉はまだ重く閉ざされているようだった。


「ロシェ。……名乗る意味なんて、あんまりないけど。

いちおう、そう呼ばれてる」


その声はかすれていたが、微かな光を帯びていた。

それはまるで──まだ誰かに呼ばれることを、どこかで願っているような声音だった。


あなたは、そのかすかな光を壊さぬように、そっと言葉を選ぶ。


「……その、刻印。見せてもらっても、いい?」


一瞬だけ、ロシェの瞳にためらいが差す。

けれど彼女は黙ってうなずき、毛布をそっとずらした。


腹部から鼠径部、そして足へ。

そこには、不揃いな線と震えるような曲線で構成された式紋が、痛ましいほどの手彫りで刻まれていた。

背中に届かなかったのか、途中で止まった線もあった。


それは、美しいものではなかった。

けれど──それが、切実な願いの末に刻まれたものだということだけは、すぐにわかった。


「観測されるために、自分で“あるように”刻んだんだ。

……そうでもしなきゃ、“いない者”だったから」


ロシェは、口元だけでうっすらと笑った。

その笑みは乾いていたが、ほんのわずかに、泣きたかった日の影を帯びていた。


「式が動けば、きっと崩れる。壊れると思う。

でも、誰も気づかない。……ちゃんと、“在るように見せかけてる”から。

制度の中じゃ、“在る”ってことになってる」


その言葉に、あなたは何も返せなかった。

胸の奥に、冷たくて硬いものが、そっと沈んでいく。


あなたは、「観測されない」ことで名を失うことを恐れていた。

けれどこの少女は、「観測されすぎる」ことで命そのものを削っていた。


心のなかで、重たい波が静かに揺れた。


「……怖く、なかったの?」


問いがこぼれた。

それは、あなた自身への問いでもあった。


ロシェは目を伏せ、少し間を置いてから、かすかな声で答えた。


「……怖かったよ。ずっと、ずっと。

でも……いないよりは、怖いほうがマシだって。

そう思うしかなかったんだ」


それは、生きようとした果ての選択だった。


静けさが、坑道にそっと降りた。

火鉢の炎が、ふっと揺れる。

冷えた空気のなかで、ふたりの吐息が、白く重なった。


それは、誰のせいでもない。

けれど、確かにそこには、痛みがあった。


あなたは、思った。


この痛みを、誰かが覚えていてくれるのなら。

それが、ロシェという存在の、たしかな証になるのではないかと。


そしてもし、自分がそれを忘れずにいられるのなら──

それは、きっと意味のある“在り方”になるのではないかと。


あなたは、小さく息を吐いて、静かに囁いた。


「……きっと、ロシェのことを、忘れない」


ロシェは何も言わなかった。

ただ、わずかに視線を落とし、息をひとつ吐いた。

その吐息の白さが、部屋の闇に静かに溶けていくのを、あなたは見ていた。


その思いは、まだ完全には形にならなかったけれど。

それでも、静かに、胸のなかに降り積もっていった。

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