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名もなき灯火  作者: 富賀見 みあ
在るだけの名

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17. 名のない朝にて

村の朝は、深い霧のなかに静かに溶けていた。


鶏の声が遠くでくぐもり、薪を割る音さえ、布越しに聞こえるように柔らかい。

けれど、それらでさえ、この地に沈んだ静けさを揺らすことはなかった。


誰も急がず、誰かを待つこともなく。

時間そのものが、霧のように地へ染み入り、村全体をゆるやかに包んでいた。


石と苔に覆われた低い家々の屋根には、朝露がしっとりとたまり、

井戸のそばには小さな水瓶が並び、光を受けてかすかに輝いていた。


乾かされた草束や陶の壺が規則正しく置かれている様子は、装飾というよりも、長く染みついた営みそのものだった。


朝の炊事場では、低く組まれたかまどの上で、大きな石鍋が湯気を立てていた。

あなたはそっと身をかがめ、炭床の奥に並べられたノリスの実の香りを確かめる。


その傍らで、子どもたちが霧豆の粥をかき混ぜている。

草束の棚に吊るされた燻魚が、ゆるやかな朝の光に溶けていた。


──そのときだった。


立ち上がろうとしたあなたは、懐の奥にある小さな重みを意識する。

“対称の環”の破片──旅の途上で手にした、水晶のような小片。


この朝の光に、それがどう映るのか、ふと確かめたくなった。


ゆっくりと懐に手を伸ばし、あなたはひとつの欠片を取り出した。


それは、霧の光を吸い込むように脈打ち、ほのかに光を放った。

その瞬間、老女の手が止まり、彼女の視線が欠片に重なる。


「そのかけらには……まだ音が足りておらんね」


言葉は、どこか遠い時間から漏れてきたようだった。


「削ることはできるよ。ただ、そのままじゃ中まで届かない。仕上げには“記憶の火”が要るのさ」


あなたが問い返す前に、老女は村の外れへ目を向けた。


「坑道の奥には、まだ灯が残っている。あの火に触れれば、かけらも目覚めるだろうよ」


欠片がふるりと震えた。呼応するように、あなたの手の中が微かに温かくなる。


老女は視線をあなたに戻し、穏やかに言った。

「おまえの道は、あたしじゃない。……子らが知ってるよ、風の通り道を」


あなたが何かを尋ねる前に、子どもたちの手があなたの手に触れていた。

気づけば、足元が霧に沈み、あなたはゆるやかに、小川のほとりへと導かれていた。


舟たちは、まるで眠っているようだった。葉、木の皮、流木──それぞれに異なる形をもち、

誰に教えられたでもなく、それは自然に“舟”になっていた。


その姿は、ひとつひとつが名もなき記憶の化身のようで、

水面に浮かぶたび、物語の断片がそっと滲んでいくようだった。


「名前は?」


あなたの問いに、子どもたちは首をかしげる。


「ないよ。ここじゃ、誰も名前なんて使わないんだ。舟も、人も、風も──みんな、そのままで在るだけ」


「でも……呼ぶときは?」


「目を見て呼ぶ。それでじゅうぶん」


その答えに、胸の奥があたたかく満たされていく。

言葉にされなかった理解が、霧のなかでそっと芽吹くようだった。


名を持たないあなたが、ここではただ“在る”ことを許されている──

そんな感覚が、静かに心に染みていった。


子どもたちの瞳には、“ここで尽きてもかまわない”という、穏やかで深い終わりの色が揺れていた。

それは諦めでも希望でもなく、ただ誰かとともにあることを続けてきた、日々の在り方そのものだった。


***


村の広場。

カインは据えられた火床のそばで、火の番をしていた。


その背には、あなたにもわかる迷いの気配があった。

火はただの熱ではなく、ことばの代わりに記憶を渡す場所──

あなたもまた、昨日からそれを肌で感じていた。


老いた男が、火起こしの道具をゆっくりと操っていた。

カインはその手元をじっと見つめながら、静かに尋ねた。


「名乗らなくて、不便じゃないのか?」


その問いには、不器用な戸惑いがにじんでいた。


男は少し笑い、火を見ながら答えた。

「不便かもしれんな。でもな……便利のために誰かを縛るのは、もっと不便だ」


カインは言葉を失い、視線を火に戻した。


あなたにはわかっていた。その沈黙の中に揺れる、彼自身の記憶が──

祝式の証、階位、役割。それらによって“在る”ことを許されてきた世界。


でもこの村では、それらは意味を持たない。

誰も彼を問わず、ただ彼が“いる”ことを受け入れていた。


火を囲んでいたもう一人の男が呟いた。その声は、物語の外から届いた古い寓話のようだった。


「ここは、ただ“忘れられた”だけじゃない……“忘れたくて、ここに来た”奴らもいるのさ」


その言葉に、あなたはカインの横顔を見つめた。

彼の目は伏せられ、胸の奥で何かが揺れていた。


***


あなたはこの村に、“居る”ことを許されていた。

火を囲む子どもたちに笑いかけられ、

老女に手を引かれ、木の実を刻み、畑を整え、小さな歌を口ずさんでいた。


この土地では、山の腐葉や落ち葉が季節の雨に流され、

くぼ地に積もって土となる。

それを、村人たちは特別扱いせず、「森の巡り」と呼び、静かに受け入れていた。


名がなくても、そこに“在る”。

記録されなくても、時間を分かち合えば“誰か”になっていく。


その光景が、カインの胸を静かに締めつけているのを、あなたは感じていた。


彼には“いられる理由”が必要だった。

呼ばれ、認められ、記録されること。


けれど、あなたにはそれが必要なかった。

あなたの在り方そのものが、名を超えた証しだった。


あなたはただ、風のように、光のように、そこに馴染んでいた。


それは彼にとって喜びであると同時に、

まだ言葉にならない、淡い憧れのかたちだった。


***


夜。

焚き火のそばで、あなたとカインは並んで座っていた。

火の揺らぎが、あなたの影をやわらかく撫でている。


ふと、あなたは問いかけるように声を落とした。


「名前って……なんのためにあると思う?」


彼はしばらく黙り、やがて静かに応えた。


「……誰かに届くため、かもな。

でも、届いてしまえば……名前なんて、もう必要ないのかもしれない」


その言葉には、彼自身の揺れが映っていた。

名前を持ち、記録され、役割を与えられること。

それがすべてだと信じていた頃の自分。


その自分から、ほんの少しだけ──距離が生まれていた。


あなたは静かに笑った。


その夜、“イリス”という名が、誰にも呼ばれぬまま、

そっと“あなたの中”に馴染んでいくのを感じていた。


そしてその名の奥に、誰か一人の祈りでは届かない、

けれど確かに積み重ねられてきた、“誰かたち”の願い。


──名前のつかない集合意識のようなものが、

あなたのなかで、ひっそりと目覚めようとしていた。

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