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名もなき灯火  作者: 富賀見 みあ
在るだけの名

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18/46

16, 灯のない村

森がざわめきを失ったのは、あなたが遺構を離れてまもない頃のことだった。


風は遠のき、枝のこすれる音すら、遠い記憶の底に沈んでいくようだった。


夜明け前の空気はすでに濃く、枝葉の間をすり抜ける風も、まるで何かをはばかるように、ためらいがちに肌へ触れた。


あなたは言葉を交わさなかった。カインも同じだった。

けれど、その沈黙には重さはなく、霧に吸い込まれるように、自然とそこにあった。


谷を下る細い道には、踏みならされた跡すらない。

葉の下の苔がしっとりと息づき、霧のしずくが枝先から静かに落ちて、苔の上に淡い輪を描いていた。


ときおり、風が霧を揺らす。

その風は音を持たず、ただ存在の気配だけをそっと知らせてくる。


あなたの髪がわずかに舞い、肩に落ちかけたそれを、カインが無言のまま指先ではらった。


それでも言葉はなかった。

話すには、この霧があまりに深く、時の層を包み込んでいるように思えた。


やがて、崖沿いの小道へと足を踏み入れる。

岩と木のあいだを縫うように進むたび、靴の底がぬかるみに沈み、歩みは静かに引き留められた。


谷を下るほどに、霧は白さを濃くしていく。

足元の石も、草も、ただ輪郭だけのものとなっていく。


草の陰から、小さな水音が聞こえた。

それが流れなのか、雫なのか、あなたには分からなかった。

音は形を持たず、空気の奥へと、まるで夢の底へ沈んでいくようだった。


道は──もう、なかったように思えた。

それでも、あなたは歩き続けた。

まるで何かに導かれているかのように。


やがて、木の根が絡み合う小さな窪地が現れる。

そこだけ、地面は乾き、風の通りもやわらかく感じられた。


「……少し、休もう」


カインの言葉に、あなたは静かにうなずく。

苔むした岩に腰を下ろすと、霧の向こうから射し込んだ光が、淡く緑の記憶を照らしていた。

それは朝の光というよりも、時間の隙間からこぼれた、名もない陽の残響のようだった。


荷袋から取り出した水筒。その冷たさが、静かにあなたの体の奥へと沁みていく。


カインは端末を開き、何度か指を滑らせた。

だが画面は白く沈黙し、ただひとこと──“範囲外”──が浮かんでいた。


「……このあたり、地図には載っていない」


ぽつりとこぼれたその声も、すぐに霧に溶けていった。


あなたはうなずき、立ち上がって霧の上空を仰ぐ。

けれど空は、どこかへ隠れているようだった。


「……迷った、のかな」


霧に触れたその声は、薄い膜にぶつかったように、空気をわずかに澱ませた。


やがて、カインは目を細め、霧の動きをじっと見つめる。

そのまなざしは、風の流れに意味を読む者のものだった。


「いや……導かれてる気がする」


その声は低く、けれど不思議な確信を宿していた。


「風の流れが、不自然だ。まるで、何かが“招いている”ように……」


その言葉に、あなたの胸の奥で、ふっと何かが触れた。

それは、遠くから呼ばれているような、輪郭を持たないざわめきだった。


やがて、霧の向こうに、揺れる光が見えた。


ぼんやりと、低く、ゆらゆらと──

焚き火でも街灯でもない、不規則な明かり。


あなたはカインとともに足を速め、霧の帳を抜けた。


その先には、突然ひらけた空。

そして、ひっそりと身を寄せるように立つ集落があった。


丘のくぼみに寄り添うように、いくつかの家々が並んでいた。

そこは観測の網目からすり抜けたように、制度の重みが感じられなかった。


それは“最初から記録されることを拒んだ”ような佇まいだった。

沈黙の質が、風景というよりも、“存在しないこと”に近かった。


家々は石と木で組まれ、苔に覆われた屋根には朝露がしっとりと滲んでいた。

窓は閉ざされ、人の気配もなかった。

けれど、煙突から上る白煙と、どこか懐かしい生活の匂いが、空気に溶けていた。


「……誰もいない?」


あなたがそう呟いたとき、一つの扉が音もなく開いた。


「おまえら、どこから来た?」


低く、枯れたような声。

そこに立っていたのは、小柄な老婆だった。


白髪は編まれ、背は曲がっていたが、その瞳は曇りなく、まっすぐにあなたたちを見ていた。

腰には編み籠が下がり、中には乾いたミズバショウ草の束と、干されたノリスの実が揺れていた。


「外からです」

カインが応えたが、老婆の視線はあなたへと向けられた。


「……灯を、持たぬ子か」


そのひとことが、あなたの胸の奥に何かを落とした。

名も紋も問われず、ただ息をしているだけの過去の記憶が、霧のなかから浮かび上がってくる。


あなたは自分の手を見た。

そこには何もなかった。


けれど“灯”とは、きっとものではなかった。

祝式炉の光でも、記録に灯る名でもない。


もっと深く、在り方の根に灯るもの──そう、あなたは感じていた。


「よし。なら、通してやる。

ここは“灯のない村”。名も、紋も、式もいらぬ。

そういうものの来る場所じゃ」


老婆は扉を開け放ち、あなたたちを振り返ることなく奥へと進んだ。


通されたのは、小さな部屋だった。

石の床、束ねられた草、手彫りの椅子、手作りの器。

火鉢の上では、くすんだ銀にも墨にも見える不思議な肌の湯器が、ことことと湯の音を立てていた。


まるでこの部屋だけの時間を、静かに沸かしているようだった。


あなたは思わず立ち止まり、その場の空気に身を浸した。

そこには“式”の匂いがなかった。

祝式の煌めきも、式紋のほの灯りも、この場所には届いていなかった。


それでも、あなたの心は不思議なほど、ほどけていくようだった。


カインもまた、扉の内側で立ち止まり、静かに部屋を見渡していた。

その目は観測者のものだったが、一瞬だけ、そこに迷いが宿っていた。


“観測されない存在”に向けられるまなざし。

それは、制度の網を越えたなにかを、手探りするような光だった。


火鉢の炎がゆらぎ、壁に吊るされた草の影が、時のように長く伸びていた。


老婆は湯を注ぎながら、ぽつりと語った。


「この村にはな、昔から、霧の縁に引かれて迷い込む子らがおった。

名も持たず、式にも記されず、どこから来たとも分からぬ者たちじゃ。


だがの──そういう子らこそ、世界のどこかが流した涙でな。

地図にも残らぬ場所に、そっと染みこんで、ひっそりと咲く花のようなものさ。


名がなくとも、灯がなくとも、夜には夜の灯りがある。

それが、この村であり、おまえのような者のためにずっと開いている扉なのじゃよ」


その言葉に、あなたの胸の奥で結ばれていた名もない糸が、霧に触れてそっと解けていくようだった。


“ここでは、生きていてもいい”──その思いは、声にすることもなく、けれど確かな熱をともなって、心の深い場所に灯っていった。


誰にも名を問われず、何も証明せずに、ただ霧の中で息をしているだけで、自分というものが確かにそこに“在る”と感じられる場所。


そう思えたのは──ずっと、久しぶりのことだった。


霧の外では、観測の塔が空を裂き、導き手が世界を縫いとめていた。

けれどこの村では、ただ在るということが、受け入れられていた。


“観測の外”で、確かに息づく人々の在り方が、霧の向こうに静かに広がっていた。

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