表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名もなき灯火  作者: 富賀見 みあ
在るだけの名

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/46

18. 午後の光と記憶の手

午後の陽が傾きはじめたころだった。


村の端で、子どもの声が小さく響いた。


「……おじいちゃん、たおれてる……」


あなたは振り返るよりも早く、空気を裂くように駆け出していた。


畑の裏手──今朝、いっしょに種をまいた老人が、崩れるように倒れていた。

呼吸は浅く、顔には土の色が重なり、目の奥にはまだ光が宿っていた。


駆け寄る村人たちの足音が、湿った地をたたく。


誰かが、ぽつりとつぶやいた。

「……急に、崩れただけで……」

もうひとりが、静かに言う。

「息が浅いな……あの歳なら、仕方ないさ」


そして別の声が、ため息のように漏れる。

「……昔は、式医師も来てたけどな」


それらは、叫びではなかった。風に流れ、土に溶けていくような声だった。


その声は諦めとも怒りともつかず、風に散るように重なっていった。

“かつて在ったもの”が、すでに届かぬ彼方へと消えていったことを、誰もが知っていた。


あなたは、膝をついた。


(……これ、知ってる)


記憶の底から、光のかけらが浮かび上がる──


誰かの胸に手を添え、水を吐かせ、息の道を開いたその所作。


彼女の手に、式も紋もなかった。ただ命をつなぐ、呼吸の記憶があった。


「頭を少し……上げて。布を……貸して」


あなたの声はかすれていたが、手はためらわなかった。


耳に入る声も、土の匂いも、遠くなる。

あなたはただ、胸の奥の“微かな熱”に触れるように、命の気配へ意識を注いでいた。


喉をひらき、背を支え、

滞った息を、そっと逃がす。

指先に伝わる脈動。


祝式ではなかった。

式紋も灯らず、記録にも残らない。

けれど、それは“思い出された手”だった。


やがて──老人の胸が、かすかに上下する。

閉じられていたまぶたが、静かに開かれる。


「……助かった……」


誰かの呟きが、霧のように場に溶けた。


拍手はなかった。

けれどいくつかの視線が、確かに“あなたがそこにいた”ことを見つめていた。


──翌朝。


畑の隅で、老人が静かに土を撫でながら、空を仰いでいた。

その背には、語られぬ感謝と、戻ってきた息の温度が滲んでいた。


その夜、焚き火のそばで老女が果物を手渡してきた。


「おまえ……“祝式使い”か?」


「……違う。たぶん、ただ……覚えてた」


「それでいい。あんなものに頼らずとも、人は、手と目と心で覚えるもんさ」


焚き火がぱちりと弾ける。

その音を、老女はしばし聞いていた。


「……昔な、医者を呼んだことがあった。式を使う男だったよ。

あれが来てから……この村は“記録される場所”になった。

それが、始まりだったんだ」


その声は怒りではなく、長く続く静寂のようだった。


あなたの胸に、小さな灯がともる。

名も式も持たずとも、“ここにいていい”。

記録されずとも、“誰かの中に在る”ことはできる。


それは、夢に描いていたものとは異なっていたけれど、

確かに「いま、ここにいる」ことだけは、嘘ではなかった。


* * *


霧雨が降る翌日。

静かな水音の下で、あなたとカインは畑に立っていた。


芽吹きかけた芋の根──老女に頼まれ、黙々と掘り起こしていた。


けれどふたりのあいだには、湿り気のような沈黙があった。


「……なんでそんなに、すぐ馴染めるんだ」


カインの声は、土に染みるように低かった。


あなたは首をかしげ、ぬれた手を膝にあてて顔をあげる。


「馴染めた、って思ってるのは……そっちの方」


カインの目が、しずくを吸った土を見つめたまま、動かない。


「……お前は、何も証明しようとしていない。ただ、在るだけで受け入れられてる。それが、少し悔しい」


あなたは答えず、芽にかかった泥をそっと指で払った。


「わたしは、“何もない”ことに、ずっと怯えてたよ」


その声はかすれていたが、どこかあたたかかった。


「祝式もない。名前も記録もない。

誰かに気づかれなければ、何も残らないんじゃないかって、怖かった。

でも……」


「……それでも、笑えるんだな」


彼の声には、微かに棘があった。


あなたはふと微笑み、答える。


「笑ってるだけ。強くなったわけじゃないよ」


泥のついた手で、芋の葉を包みながら。


「でも……一緒にいてくれるなら、それだけで、怖くなくなるかもしれない」


風がひと筋、畑をかすめる。

カインは目を閉じ、静かに息を吐いた。


* * *


その夜、霧が深く村を包んでいた。

火が灯るひとつの輪の中で、誰もが黙って座っていた。


あなたも、老女にかけられた薄い毛布にくるまり、

焼いた実の香ばしさを掌に感じていた。


カインは隣にいた。

火の粉が夜空に舞い上がるたび、霧の輪郭が柔らかく浮かび上がる。


言葉はなかった。

けれどその沈黙には、明らかに“何か”が満ちていた。


火に小枝をくべた子どもの影が、地に長く伸びてゆく。


──あなたの中で、記憶が揺れた。


夢のような、既視感のような──

灯りと温もりだけがあった、名前のない風景。


「……俺、昔、こんなふうに人の輪に入ったこと、なかったかもしれない」


カインの声が、火の向こうから届く。


あなたは振り返らない。ただ、指先にのこる温もりを確かめていた。


「祝式があったから、式紋があったから、“在る”とされた。

でも……それがなかったら、俺は、どうしてたんだろうな」


火の色が、赤から橙へと、ゆるやかに移ろう。

誰かが差し出した湯の器。

その湯気が、そっとあなたの手に満ちていく。


「……なあ」


声は、名づけ得ぬものへ向けられた問いだった。


あなたは火を見つめたまま、小さくうなずく。

うなずきは言葉ではなく、“応える在り方”としてあった。


夜が更け、霧が深まっていく。

それでも、火は消えなかった。


誰かがそっと手をかざし、誰かが目を閉じる。

名のない夜が、静かに満ちていた。


──そしてその奥で、あなたの懐の欠片が、ふるりと震えた。

風のせいか、それとも記憶の呼び声か──

まだ、誰にもわからなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ