第九話「橋の上」
その夜、堂島は眠れなかった。
理由はわからなかった。ただ目が覚めて、そのまま横になっていられなくて、起き上がった。こういう夜は歩くことにしていた。新宿の夜は明るい。どこを歩いても人の気配がある。それが堂島には、ときどき必要だった。
流魂寺を出て、路地を抜けて、川沿いに出た。
◆
橋の上に人影があった。
女だった。三十代くらいだろうか。コートを着て、欄干に両手をついて、下を見ていた。水面を見ているのではなかった。もっと遠いところを見ていた。
堂島は立ち止まった。
急がなかった。走らなかった。ゆっくり橋を渡り始めた。
◆
女の隣に立った。
声をかけなかった。ただ同じように欄干に手をついて、川を見た。
夜の川は黒かった。街の灯りが水面に滲んでいた。風が冷たかった。
しばらく、二人で黙って川を見た。
女が先に口を開いた。
「何ですか、あなた」
「通りかかった坊主です」
女が堂島を見た。袈裟をまとった男が深夜に橋の上に立っていた。女は何か言おうとして、やめた。
また川を見た。
◆
どのくらい経っただろうか。
風が強くなった。女のコートの裾が揺れた。
「消えたい」
ぽつりと言った。川に向かって言ったような声だった。
堂島は川から目を離さなかった。
「消えた人間を、俺はたくさん見てきた」
女が動かなかった。
「残された奴がどんな顔をするかも、たくさん見てきた」
静かな声だった。責めていなかった。ただ事実を置くような言い方だった。
女が欄干を握る手に力が入った。
「残される人間なんて、いません」
「そうか」
「誰もいないんです。家族も、友達も、誰も」
声が震え始めた。
「会社も辞めて、お金もなくて、部屋に帰っても誰もいなくて、毎日同じことの繰り返しで、もう」
言葉が途切れた。
堂島は何も言わなかった。
◆
女が泣き始めた。
声を殺して泣いていた。橋の欄干に額をつけて、肩を震わせた。堂島は何もしなかった。隣にいた。ただそこにいた。
泣き声が大きくなった。夜の川に溶けていった。
堂島は空を見上げた。星はなかった。厚い雲が覆っていた。
どのくらい泣いただろうか。女の泣き声が少しずつ収まった。嗚咽になり、やがて静かになった。
女が顔を上げた。目が腫れていた。
「みっともない」
「そんなことはない」
◆
堂島が言った。
「歩けるか」
女が頷いた。
「飯を食ったか」
「昨日から食べていません」
「ならちょうどいい。飯を作る」
女が堂島を見た。
「どこへ行くんですか」
「寺だ。近い」
女がしばらく堂島を見た。深夜に橋の上で出会った袈裟の男を、信じるかどうか考えているようだった。
やがて欄干から手を離した。
◆
二人で流魂寺まで歩いた。
堂島は何も聞かなかった。女も何も言わなかった。夜の新宿を、並んで歩いた。
流魂寺に着くと、健吾が廊下で眠っていた。堂島が出かけたまま戻らないので、待っていたらしい。毛布を一枚かけて、そのままにした。
庫裏で飯を作った。残りの米で粥を炊いた。梅干しと、昆布の佃煮だけ添えた。
女は黙って食べた。箸を持つ手が最初震えていたが、食べるうちに落ち着いてきた。
茶碗を空にして、女が言った。
「美味しかったです」
「そうか」
◆
食べ終わった後、女が聞いた。
「なんで助けるんですか」
堂島は茶を出しながら答えた。
「助けたつもりはない。飯を食わせただけだ」
女が少し考えた。
「でも、橋で声をかけてくれた」
「通りかかっただけだ」
「嘘ですよ」
堂島は答えなかった。
女が茶碗を両手で持った。
「死ぬのが怖かったんです。本当は」
「そうか」
「でも生きているのも怖くて。どっちも怖くて、それで」
「怖くていい」
堂島が言った。
「怖いまま生きている人間を、俺はたくさん知っている。怖くなくなる日が来るかどうかは、わからん。ただ」
線香の煙が細く上がっていた。
「今夜、あんたはここにいる。それでいい」
◆
夜明け近くに、女は帰ると言った。
堂島は引き止めなかった。
「また来ていいですか」
「ああ」
女が玄関で靴を履いた。振り返った。
「名前も聞かなかったですね」
「聞く必要がなかった」
女が小さく笑った。泣いた後の、疲れた笑いだった。しかし笑顔だった。
門を出て、路地を歩いていった。角を曲がる前に一度だけ振り返った。
堂島は門のところで立っていた。
女は小さく頭を下げた。それから角を曲がって、消えた。
◆
堂島は流魂寺に戻った。
廊下で健吾がまだ眠っていた。毛布から足が出ていた。堂島は毛布を直してやった。
本堂に入り、線香を一本立てた。
誰のためでもなかった。ただ手を合わせた。
夜が明け始めていた。空の端が、少しだけ白くなっていた。
第九話 了




