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無縁仏に花を  作者: 八雲 海
第一集 無縁仏に花を

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第九話「橋の上」

 その夜、堂島は眠れなかった。


 理由はわからなかった。ただ目が覚めて、そのまま横になっていられなくて、起き上がった。こういう夜は歩くことにしていた。新宿の夜は明るい。どこを歩いても人の気配がある。それが堂島には、ときどき必要だった。


 流魂寺を出て、路地を抜けて、川沿いに出た。



 橋の上に人影があった。


 女だった。三十代くらいだろうか。コートを着て、欄干に両手をついて、下を見ていた。水面を見ているのではなかった。もっと遠いところを見ていた。


 堂島は立ち止まった。


 急がなかった。走らなかった。ゆっくり橋を渡り始めた。



 女の隣に立った。


 声をかけなかった。ただ同じように欄干に手をついて、川を見た。


 夜の川は黒かった。街の灯りが水面に滲んでいた。風が冷たかった。


 しばらく、二人で黙って川を見た。


 女が先に口を開いた。


「何ですか、あなた」


「通りかかった坊主です」


 女が堂島を見た。袈裟をまとった男が深夜に橋の上に立っていた。女は何か言おうとして、やめた。


 また川を見た。



 どのくらい経っただろうか。


 風が強くなった。女のコートの裾が揺れた。


「消えたい」


 ぽつりと言った。川に向かって言ったような声だった。


 堂島は川から目を離さなかった。


「消えた人間を、俺はたくさん見てきた」


 女が動かなかった。


「残された奴がどんな顔をするかも、たくさん見てきた」


 静かな声だった。責めていなかった。ただ事実を置くような言い方だった。


 女が欄干を握る手に力が入った。


「残される人間なんて、いません」


「そうか」


「誰もいないんです。家族も、友達も、誰も」


 声が震え始めた。


「会社も辞めて、お金もなくて、部屋に帰っても誰もいなくて、毎日同じことの繰り返しで、もう」


 言葉が途切れた。


 堂島は何も言わなかった。



 女が泣き始めた。


 声を殺して泣いていた。橋の欄干に額をつけて、肩を震わせた。堂島は何もしなかった。隣にいた。ただそこにいた。


 泣き声が大きくなった。夜の川に溶けていった。


 堂島は空を見上げた。星はなかった。厚い雲が覆っていた。


 どのくらい泣いただろうか。女の泣き声が少しずつ収まった。嗚咽になり、やがて静かになった。


 女が顔を上げた。目が腫れていた。


「みっともない」


「そんなことはない」



 堂島が言った。


「歩けるか」


 女が頷いた。


「飯を食ったか」


「昨日から食べていません」


「ならちょうどいい。飯を作る」


 女が堂島を見た。


「どこへ行くんですか」


「寺だ。近い」


 女がしばらく堂島を見た。深夜に橋の上で出会った袈裟の男を、信じるかどうか考えているようだった。


 やがて欄干から手を離した。



 二人で流魂寺まで歩いた。


 堂島は何も聞かなかった。女も何も言わなかった。夜の新宿を、並んで歩いた。


 流魂寺に着くと、健吾が廊下で眠っていた。堂島が出かけたまま戻らないので、待っていたらしい。毛布を一枚かけて、そのままにした。


 庫裏で飯を作った。残りの米で粥を炊いた。梅干しと、昆布の佃煮だけ添えた。


 女は黙って食べた。箸を持つ手が最初震えていたが、食べるうちに落ち着いてきた。


 茶碗を空にして、女が言った。


「美味しかったです」


「そうか」



 食べ終わった後、女が聞いた。


「なんで助けるんですか」


 堂島は茶を出しながら答えた。


「助けたつもりはない。飯を食わせただけだ」


 女が少し考えた。


「でも、橋で声をかけてくれた」


「通りかかっただけだ」


「嘘ですよ」


 堂島は答えなかった。


 女が茶碗を両手で持った。


「死ぬのが怖かったんです。本当は」


「そうか」


「でも生きているのも怖くて。どっちも怖くて、それで」


「怖くていい」


 堂島が言った。


「怖いまま生きている人間を、俺はたくさん知っている。怖くなくなる日が来るかどうかは、わからん。ただ」


 線香の煙が細く上がっていた。


「今夜、あんたはここにいる。それでいい」



 夜明け近くに、女は帰ると言った。


 堂島は引き止めなかった。


「また来ていいですか」


「ああ」


 女が玄関で靴を履いた。振り返った。


「名前も聞かなかったですね」


「聞く必要がなかった」


 女が小さく笑った。泣いた後の、疲れた笑いだった。しかし笑顔だった。


 門を出て、路地を歩いていった。角を曲がる前に一度だけ振り返った。


 堂島は門のところで立っていた。


 女は小さく頭を下げた。それから角を曲がって、消えた。



 堂島は流魂寺に戻った。


 廊下で健吾がまだ眠っていた。毛布から足が出ていた。堂島は毛布を直してやった。


 本堂に入り、線香を一本立てた。


 誰のためでもなかった。ただ手を合わせた。


 夜が明け始めていた。空の端が、少しだけ白くなっていた。


第九話 了

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