第十話「残された靴」
電話が来たのは、木曜日の昼過ぎだった。
区の福祉課の担当者からだった。若い男性の声で、少し困っている様子だった。
「住職さん、突然のお願いで申し訳ないんですが」
◆
話を聞いた。
近くのアパートでシングルマザーが孤独死した。三十四歳。死後二日が経っていた。残された子供は七歳の女の子。名前はさくら。父親はいない。祖父母も遠方で、すぐに引き取れる状況にない。児童相談所に連絡したが、一時保護の手続きに時間がかかる。
「一晩だけでも、預かっていただけないでしょうか」
堂島は少し間を置いた。
「連れてきなさい」
◆
夕方、担当者がさくらを連れてきた。
小さな女の子だった。髪を二つに結んで、黄色いワンピースを着ていた。汚れていた。二日間、母親の傍にいたのかもしれない。
手に、赤い靴を持っていた。子供用の小さな靴。片方だけだった。
「さくらちゃん、ここのおじさんがしばらく一緒にいてくれるよ」
担当者が言った。さくらは頷かなかった。堂島を見なかった。靴を胸に抱いたまま、下を向いていた。
担当者が帰った。
◆
堂島はさくらを庫裏に連れて行った。
飯を作った。卵かけご飯と、味噌汁と、ほうれん草のおひたし。さくらは座ったまま動かなかった。
「食べるか」
さくらは首を振らなかった。首を振る元気もないように見えた。
健吾が学校から帰ってきた。玄関でさくらを見て、一瞬だけ堂島を見た。堂島は目で促した。
健吾が靴を脱いで、さくらの隣に座った。
「俺、健吾。中二。君は」
さくらが顔を上げた。健吾を見た。
「さくら」
「何年生」
「一年」
「そっか」
健吾が茶碗を持った。
「飯、食おうぜ。腹減ってるだろ」
さくらは少し考えてから、箸を持った。
◆
夜、布団を敷いた。健吾の部屋の隣の小さな部屋に、さくらの布団を並べた。
さくらは靴を布団の横に置いた。脱がせようとしなかった。堂島はそのままにした。
「電気、消すぞ」
さくらが靴に手を伸ばした。胸の上に乗せた。
堂島が電気を消した。障子越しに廊下の灯りが差し込んでいた。
「おやすみ」
さくらは答えなかった。
◆
真夜中に声がした。
泣き声ではなかった。声にならない声だった。堂島が障子を開けると、さくらが布団の上に起き上がっていた。靴を胸に抱いたまま、目を開けていた。
堂島は部屋に入って、さくらの隣に胡坐をかいた。
「眠れないか」
さくらが頷いた。
「お母さんのところに帰りたい」
小さな声だった。
堂島は答えなかった。答えられなかった。
ただそこに座った。さくらが靴を抱いたまま、少しずつ横になった。堂島はそのまま動かなかった。
さくらの呼吸が少しずつ深くなった。やがて寝息になった。
靴を抱いたまま眠っていた。
◆
翌朝、堂島はさくらの母親の葬儀の手配をした。
名前は西田あかり。三十四歳。死因は病死だった。糖尿病の悪化による多臓器不全。かかりつけ医はいたが、最後は一人だった。
葬儀は簡素なものになった。棺と花と、線香だけ。参列者は堂島と健吾とさくら、それから福祉課の担当者だけだった。
読経の間、さくらはずっと堂島の隣に座っていた。泣かなかった。靴を膝の上に置いて、じっと棺を見ていた。
読経が終わった後、さくらが立ち上がった。棺に近づいて、靴を棺の横に置いた。
堂島が近づいた。
「入れてやるか」
さくらが頷いた。
靴を棺の中に入れた。あかりの足元に、そっと置いた。
さくらが棺を見た。
「お母さん、寒くないかな」
堂島は答えなかった。
健吾がさくらの隣に来て、小さな手を握った。さくらは握り返した。
◆
葬儀が終わった後、さくらは流魂寺に残った。
祖父母が来るまで、もう少し時間がかかるという連絡が入った。
さくらは少しずつ流魂寺に慣れていった。健吾の後をついて歩いた。境内の掃除を手伝った。小さな箒で、不器用に落ち葉を集めた。
ある夕方、さくらが堂島に聞いた。
「おじさん、お母さんはどこに行ったの」
堂島は境内の空を見上げた。
「空の上だ」
「会えない?」
「会えない」
さくらが空を見た。
「でも、見てる?」
堂島は少し間を置いた。
「見てる」
さくらが頷いた。それ以上は聞かなかった。
◆
十日後、さくらの祖父母が迎えに来た。
さくらは荷物をまとめた。少ない荷物だった。
堂島と健吾が門まで送った。
祖母がさくらの手を引いた。さくらが振り返った。
「またくる」
堂島が頷いた。
「待ってる」
健吾が手を振った。さくらが小さく手を振り返した。
祖父母とさくらが路地を歩いていった。角を曲がる前に、さくらが一度だけ振り返った。
それから消えた。
◆
健吾が堂島の隣に立った。しばらく黙っていた。
「さくら、元気でいられますかね」
「さあな」
「でも、またくると思います」
堂島は答えなかった。
境内に夕暮れが差し込んでいた。落ち葉が風に舞った。さくらが不器用に集めた落ち葉が、また散らばっていた。
堂島は箒を取った。
一人で、黙って掃き始めた。
第十話 了




