第八話「煙草の灰」
村上を連れてきたのは、近所の民生委員だった。
五十がらみの女性で、名前を田中といった。流魂寺には以前から顔を出していた。地域の孤独死や身寄りのない老人の葬儀を堂島に頼むことが何度かあった。
田中が電話をよこしたのは昼過ぎだった。
「住職さん、一つお願いがあるんですが」
◆
夕方、田中が男を連れてきた。
三十代半ば。痩せていた。頬が落ちて、目の下が黒かった。手が微かに震えていた。何度か更生施設に入ったが、長続きしなかったという。身寄りはない。仕事もない。今は田中が身元引受人になっている。
「しばらく、ここに置いてもらえませんか」
田中が頭を下げた。
「専門の施設に空きが出るまで、二週間ほど。住職さんなら、と思って」
堂島は村上を見た。村上は堂島を見なかった。視線が定まっていなかった。
「わかった」
◆
最初の三日は荒れた。
夜中に唸り声がした。壁を叩く音がした。堂島は縛らなかった。怒鳴らなかった。部屋の前に座って、声が収まるまで待った。
健吾が怖がるかと思ったが、健吾は黙って堂島の隣に座った。二人で廊下に座って、嵐が過ぎるのを待った。
夜明け近くに静かになった。
堂島が障子を開けると、村上が床に座って膝を抱えていた。子供のような座り方だった。
「水を持ってくる」
村上は答えなかった。
◆
四日目から、村上は少し落ち着いた。
飯を食えるようになった。短い時間だが、境内に出られるようになった。健吾が話しかけると、短く返すようになった。
七日目の朝、縁側に村上が座っていた。堂島が隣に座ると、村上が言った。
「俺、何回もやめようとしたんです」
堂島は黙って聞いた。
「最初にやったのは二十三のとき。友達に勧められて。最初は気持ちよかった。全部どうでもよくなる感じがして」
村上の手が膝の上で組まれた。
「全部どうでもよくなりたかったんです。仕事もうまくいかなくて、親とも仲が悪くて、彼女にも逃げられて。消えたかった」
「消えたかったか」
「はい」
堂島は空を見た。雲が流れていた。
「消えられたか」
村上が少し考えた。
「消えられなかったです。むしろ余計にしんどくなって。でもやめられなくて」
◆
十日目の夜、村上が荒れた。
突然だった。夕飯の途中で箸を置いて、立ち上がって、壁に拳を叩きつけた。
「俺みたいな人間、生きてても意味ない」
叫ぶような声だった。
健吾が固まった。堂島は動じなかった。
村上が続けた。
「何度やめようとしても無理で、施設に入っても戻って、また入って、また戻って。もう終わりにしたい」
声が震えていた。怒りではなかった。疲れ果てた人間の声だった。
堂島が言った。
「座れ」
村上が堂島を見た。
「座れと言っている」
村上はゆっくり床に座った。
堂島も座った。
しばらく黙っていた。
「意味があるかどうかは、死ぬ前日まで決まらん」
静かな声だった。
「今日意味がなくても、明日あるかもしれない。十年後にあるかもしれない。死んだらそれで終わりだ。終わりにしたいなら、それはお前が決めることだ。ただ」
堂島が村上を見た。
「まだ決めるな。もう少し待て」
村上が俯いた。
長い沈黙があった。
健吾がそっと村上の隣に座った。何も言わなかった。ただ隣に座った。
村上の肩が、小さく揺れた。
◆
二週間が経った。
田中から連絡が来た。施設に空きが出た。
出発の朝、村上は荷物をまとめて庫裏に来た。堂島と健吾が見送った。
「世話になりました」
村上が頭を下げた。前よりも顔に血色が戻っていた。目の震えが少し治まっていた。
堂島は線香を一本取り出して、村上に渡した。
「施設に仏壇があったら、上げろ。なかったら窓の外に向けて持っていろ」
「何のためにですか」
「手を合わせるためだ。誰かのためでなくていい。自分のために合わせろ」
村上が線香を受け取った。
「また来ていいですか」
「ああ」
田中の車が路地に止まっていた。村上が乗り込む前に、健吾が言った。
「待ってます」
村上が振り返った。目が少し赤くなっていた。
「ありがとう」
それだけ言って、乗り込んだ。車が走り出した。
◆
健吾が堂島の隣に立った。
「あの人、大丈夫ですかね」
「わからん」
「でも、また来ますよね」
堂島は答えなかった。
空は晴れていた。冬の終わりの、薄い青空だった。境内の梅が、一輪だけ咲いていた。
第八話 了




