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無縁仏に花を  作者: 八雲 海
第一集 無縁仏に花を

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第七話「血の匂い」

第七話「血の匂い」


夜の九時を過ぎた頃だった。


 健吾が寝る前に歯を磨いていると、門を叩く音がした。表門だった。力のない、しかし必死な叩き方だった。


 堂島が出ると、男が門柱に寄りかかっていた。



 三十代だろうか。ジャケットの背中が黒く濡れていた。街灯の光でもわかった。血だった。


 男が堂島を見た。目が据わっていた。痛みで朦朧としているのではなく、覚悟を決めた目だった。


「たのみます」


 それだけ言って、膝から崩れた。



 堂島は男を庫裏に運んだ。ジャケットを脱がせると、背中に刃物の傷が一本。深かったが、肺には届いていない。


 消毒して、縫って、晒で巻いた。男は歯を食いしばって声を上げなかった。


 処置が終わった頃、健吾が入口から顔を出した。


「住職、俺、何かできますか」


「湯を沸かせ」


 健吾が消えた。



 男が落ち着いてから、堂島は向かい合った。


「どこの組だ」


 男が少し躊躇った。


「神埼組です」


 三東会とは別の組だった。新宿の東側を縄張りにしている。三東会とは長年、小競り合いを続けている関係だった。


「三東会にやられたのか」


「違います。身内です」


 堂島は何も言わなかった。


「金の話で揉めて。上に楯突いたんで、制裁を受けました」


「逃げてここに来たのか」


「近くを歩いていたら、灯りが見えて」


 男が天井を見上げた。


「なんで助けるんですか。俺、敵の組の人間ですよ」


 堂島は湯飲みを男の前に置いた。


「寺に来た人間を追い返す住職はおらん」


 男が湯飲みを見た。それから堂島を見た。


「あんた、只者じゃないですよね」


「坊主だ」


「その前は」


 堂島は答えなかった。


 男は聞くのをやめた。



 男は三日、流魂寺にいた。


 名前は言わなかった。堂島も聞かなかった。健吾は男のことを「おじさん」と呼んだ。男は最初戸惑っていたが、やがて慣れた。


 二日目の夜、男が健吾に聞いた。


「ここ、居心地いいな。なんでだろ」


 健吾が少し考えてから答えた。


「誰も余計なこと聞かないからじゃないですか」


 男が笑った。声を出して笑ったのは、それが初めてだった。



 三日目の朝、男は去ると言った。


 堂島が門まで送った。男が深く頭を下げた。


「世話になりました」


「体に気をつけろ」


 男が歩き出した。十歩ほど行ったところで止まった。振り返らずに言った。


「足、洗えますかね。俺みたいな人間でも」


 堂島は少し間を置いた。


「さあな。ただ、洗おうと思った日が、始まりだ」


 男は振り返らなかった。そのまま歩いていった。



 十日後、男が菓子折りを持って現れた。


 堂島は受け取らなかった。


「足を洗え。それだけでいい」


 男が菓子折りを持ったまま立っていた。


「洗えるかどうか、まだわかりません」


「わからなくていい」


 堂島が続けた。


「わからないまま、考え続けろ。考えるのをやめたときが終わりだ」


 男は菓子折りを持ったまま、また深く頭を下げた。


 帰り際、健吾が縁側から手を振った。男は一瞬だけ目を細めて、小さく手を振り返した。


 それから路地の角を曲がって、消えた。



 健吾が堂島の隣に来た。


「あの人、また来ますかね」


「さあな」


「来るといいですね」


 堂島は答えなかった。


 空が高かった。冬の始まりの、乾いた青空だった。


第七話 了

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