第七話「血の匂い」
第七話「血の匂い」
夜の九時を過ぎた頃だった。
健吾が寝る前に歯を磨いていると、門を叩く音がした。表門だった。力のない、しかし必死な叩き方だった。
堂島が出ると、男が門柱に寄りかかっていた。
◆
三十代だろうか。ジャケットの背中が黒く濡れていた。街灯の光でもわかった。血だった。
男が堂島を見た。目が据わっていた。痛みで朦朧としているのではなく、覚悟を決めた目だった。
「たのみます」
それだけ言って、膝から崩れた。
◆
堂島は男を庫裏に運んだ。ジャケットを脱がせると、背中に刃物の傷が一本。深かったが、肺には届いていない。
消毒して、縫って、晒で巻いた。男は歯を食いしばって声を上げなかった。
処置が終わった頃、健吾が入口から顔を出した。
「住職、俺、何かできますか」
「湯を沸かせ」
健吾が消えた。
◆
男が落ち着いてから、堂島は向かい合った。
「どこの組だ」
男が少し躊躇った。
「神埼組です」
三東会とは別の組だった。新宿の東側を縄張りにしている。三東会とは長年、小競り合いを続けている関係だった。
「三東会にやられたのか」
「違います。身内です」
堂島は何も言わなかった。
「金の話で揉めて。上に楯突いたんで、制裁を受けました」
「逃げてここに来たのか」
「近くを歩いていたら、灯りが見えて」
男が天井を見上げた。
「なんで助けるんですか。俺、敵の組の人間ですよ」
堂島は湯飲みを男の前に置いた。
「寺に来た人間を追い返す住職はおらん」
男が湯飲みを見た。それから堂島を見た。
「あんた、只者じゃないですよね」
「坊主だ」
「その前は」
堂島は答えなかった。
男は聞くのをやめた。
◆
男は三日、流魂寺にいた。
名前は言わなかった。堂島も聞かなかった。健吾は男のことを「おじさん」と呼んだ。男は最初戸惑っていたが、やがて慣れた。
二日目の夜、男が健吾に聞いた。
「ここ、居心地いいな。なんでだろ」
健吾が少し考えてから答えた。
「誰も余計なこと聞かないからじゃないですか」
男が笑った。声を出して笑ったのは、それが初めてだった。
◆
三日目の朝、男は去ると言った。
堂島が門まで送った。男が深く頭を下げた。
「世話になりました」
「体に気をつけろ」
男が歩き出した。十歩ほど行ったところで止まった。振り返らずに言った。
「足、洗えますかね。俺みたいな人間でも」
堂島は少し間を置いた。
「さあな。ただ、洗おうと思った日が、始まりだ」
男は振り返らなかった。そのまま歩いていった。
◆
十日後、男が菓子折りを持って現れた。
堂島は受け取らなかった。
「足を洗え。それだけでいい」
男が菓子折りを持ったまま立っていた。
「洗えるかどうか、まだわかりません」
「わからなくていい」
堂島が続けた。
「わからないまま、考え続けろ。考えるのをやめたときが終わりだ」
男は菓子折りを持ったまま、また深く頭を下げた。
帰り際、健吾が縁側から手を振った。男は一瞬だけ目を細めて、小さく手を振り返した。
それから路地の角を曲がって、消えた。
◆
健吾が堂島の隣に来た。
「あの人、また来ますかね」
「さあな」
「来るといいですね」
堂島は答えなかった。
空が高かった。冬の始まりの、乾いた青空だった。
第七話 了




