第四話「迷い人」
朝の境内を掃いていた健吾が、堂島を呼びに来た。
「住職、なんか人がいます」
声に戸惑いがあった。
◆
石畳の真ん中に老人が立っていた。七十代半ばだろうか。きちんとアイロンのかかったシャツに、清潔なズボン。身なりは整っている。ただ目が虚ろだった。どこを見ているのかわからない目だった。
「妻はどこですか」
堂島に気づくと、老人はまっすぐそう言った。挨拶もなく、躊躇もなく。
「奥さんがいなくなりましたか」
「朝から見当たらなくて。このあたりかと思って」
堂島は老人の顔をもう一度見た。迷子を探す目ではなかった。どこか遠いところを見ている目だった。
「少し休んでいきますか」
老人は素直に頷いた。
◆
縁側に座らせ、茶を出した。老人は両手で茶碗を持ち、ゆっくり飲んだ。
「奥さんのお名前は」
「照子です。今朝から——」
老人が言葉を止めた。何かを思い出そうとするように、少し天井を見上げた。
「今朝から、どこへ行ったのかと思って」
堂島は黙って聞いた。
「照子は料理が上手くてね。毎朝、味噌汁を作ってくれるんです。今日はまだで」
老人の目が少し柔らかくなった。遠い場所を見る目ではなく、懐かしい場所を見る目になった。
「出会ったのは、もう五十年近く前ですよ。私が会社に入ったばかりの頃で、照子は近くの食堂で働いていて」
堂島は相槌を打たなかった。ただそこにいた。
「子供が二人いてね。上が娘で、下が息子。息子は今、横浜にいます。照子は孫の顔を見るのが好きで」
老人の声は穏やかだった。記憶の中の照子は、今もどこかで生きていた。
◆
健吾が堂島の袖をそっと引いた。小声で聞く。
「奥さん、本当にいなくなったんですか」
堂島は首を振った。
健吾が目を丸くする。堂島は小声で返した。
「三年前に亡くなってる。認知症だ」
健吾が老人を見た。老人はまだ照子の話をしていた。運動会のこと、旅行のこと、些細な口喧嘩のこと。
健吾は何も言わなかった。ただ老人の隣に座って、聞いていた。
◆
一時間ほどして、五十代の女性が血相を変えて流魂寺に駆け込んできた。老人の娘だった。
「父がご迷惑を——」
「迷惑じゃない」
堂島が静かに言った。
「いい話を聞かせてもらいました」
娘が老人に駆け寄る。老人は娘の顔を見て、少し首を傾げた。
「照子、どこへ行っていたんだ」
娘の目が一瞬揺れた。それでも笑顔を作った。
「ごめんなさい、ちょっと買い物に」
「そうか。寒かっただろう」
老人が娘の手を取った。娘は泣かなかった。泣くのを堪えた。
◆
二人が帰った後、健吾がぽつりと言った。
「奥さんのこと、ずっと覚えてるんですね」
「ああ」
「忘れないんですね、大事な人のことは」
堂島は答えなかった。
その夜、堂島は母・キヨに電話をかけた。呼び出し音が五回鳴って、キヨが出た。
「剛か。どうした、珍しい」
「なんでもない。声が聞きたかっただけだ」
少し間があって、キヨが笑った。電話越しでも笑顔がわかる声だった。
「あんた、坊主になってから変わったね」
「そうか」
「悪くないよ」
堂島は縁側に座ったまま、しばらくキヨと話した。他愛もない話だった。新宿の話、天気の話、キヨの好きなテレビドラマの話。
電話を切った後、堂島は夜空を見上げた。
星が少しだけ見えた。新宿にしては、珍しい夜だった。
第四話 了




