表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無縁仏に花を  作者: 八雲 海
第一集 無縁仏に花を

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/13

第四話「迷い人」

 朝の境内を掃いていた健吾が、堂島を呼びに来た。


「住職、なんか人がいます」


 声に戸惑いがあった。



 石畳の真ん中に老人が立っていた。七十代半ばだろうか。きちんとアイロンのかかったシャツに、清潔なズボン。身なりは整っている。ただ目が虚ろだった。どこを見ているのかわからない目だった。


「妻はどこですか」


 堂島に気づくと、老人はまっすぐそう言った。挨拶もなく、躊躇もなく。


「奥さんがいなくなりましたか」


「朝から見当たらなくて。このあたりかと思って」


 堂島は老人の顔をもう一度見た。迷子を探す目ではなかった。どこか遠いところを見ている目だった。


「少し休んでいきますか」


 老人は素直に頷いた。



 縁側に座らせ、茶を出した。老人は両手で茶碗を持ち、ゆっくり飲んだ。


「奥さんのお名前は」


「照子です。今朝から——」


 老人が言葉を止めた。何かを思い出そうとするように、少し天井を見上げた。


「今朝から、どこへ行ったのかと思って」


 堂島は黙って聞いた。


「照子は料理が上手くてね。毎朝、味噌汁を作ってくれるんです。今日はまだで」


 老人の目が少し柔らかくなった。遠い場所を見る目ではなく、懐かしい場所を見る目になった。


「出会ったのは、もう五十年近く前ですよ。私が会社に入ったばかりの頃で、照子は近くの食堂で働いていて」


 堂島は相槌を打たなかった。ただそこにいた。


「子供が二人いてね。上が娘で、下が息子。息子は今、横浜にいます。照子は孫の顔を見るのが好きで」


 老人の声は穏やかだった。記憶の中の照子は、今もどこかで生きていた。



 健吾が堂島の袖をそっと引いた。小声で聞く。


「奥さん、本当にいなくなったんですか」


 堂島は首を振った。


 健吾が目を丸くする。堂島は小声で返した。


「三年前に亡くなってる。認知症だ」


 健吾が老人を見た。老人はまだ照子の話をしていた。運動会のこと、旅行のこと、些細な口喧嘩のこと。


 健吾は何も言わなかった。ただ老人の隣に座って、聞いていた。



 一時間ほどして、五十代の女性が血相を変えて流魂寺に駆け込んできた。老人の娘だった。


「父がご迷惑を——」


「迷惑じゃない」


 堂島が静かに言った。


「いい話を聞かせてもらいました」


 娘が老人に駆け寄る。老人は娘の顔を見て、少し首を傾げた。


「照子、どこへ行っていたんだ」


 娘の目が一瞬揺れた。それでも笑顔を作った。


「ごめんなさい、ちょっと買い物に」


「そうか。寒かっただろう」


 老人が娘の手を取った。娘は泣かなかった。泣くのを堪えた。



 二人が帰った後、健吾がぽつりと言った。


「奥さんのこと、ずっと覚えてるんですね」


「ああ」


「忘れないんですね、大事な人のことは」


 堂島は答えなかった。


 その夜、堂島は母・キヨに電話をかけた。呼び出し音が五回鳴って、キヨが出た。


「剛か。どうした、珍しい」


「なんでもない。声が聞きたかっただけだ」


 少し間があって、キヨが笑った。電話越しでも笑顔がわかる声だった。


「あんた、坊主になってから変わったね」


「そうか」


「悪くないよ」


 堂島は縁側に座ったまま、しばらくキヨと話した。他愛もない話だった。新宿の話、天気の話、キヨの好きなテレビドラマの話。


 電話を切った後、堂島は夜空を見上げた。


 星が少しだけ見えた。新宿にしては、珍しい夜だった。


第四話 了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ