第十二話「キヨの春」
母から電話が来なくなったのは、二月の終わりからだった。
それまでは月に二、三度、他愛もない電話があった。テレビドラマの話、近所のスーパーの話、昔の話。キヨは話すことが好きだった。黙っていられない性分だった。
それが急に途絶えた。
堂島が電話をかけると、出た。声は穏やかだった。ただ話が続かなかった。少し話すと、黙ってしまった。
「どうした」
「なんでもないよ」
それだけ言って、切れた。
◆
三月の初めに会いに行った。
キヨは新宿区内の古いアパートに一人で住んでいた。堂島が組にいた頃も、坊主になってからも、ずっとそこにいた。引っ越しを勧めても首を振った。「ここが好きだから」と言っていた。
インターホンを押した。返事がなかった。もう一度押した。しばらくして、鍵が開く音がした。
キヨが立っていた。
小さくなっていた。以前から小柄だったが、さらに縮んだように見えた。髪が白くなっていた。目が堂島を見て、少し間があってから、笑った。
「剛か。どうした、突然」
「様子を見に来た」
「大げさだね」
◆
部屋に上がった。
片付いていた。キヨは昔から綺麗好きだった。ただ台所に、使いかけの薬が並んでいた。種類が多かった。
「どこか悪いのか」
「年寄りはみんなこんなもんだよ」
キヨが笑って、茶を入れた。手が少し震えていた。
二人で向かい合って座った。
「飯は食えてるか」
「食べてるよ。最近は少ししか入らないけど」
「医者には行ってるか」
「行ってる行ってる」
キヨが堂島を見た。
「心配性になったね、あんた」
「そうか」
「坊主になってから変わった。昔はそんな顔しなかった」
◆
帰り際、堂島は週に一度顔を出すと言った。
キヨが首を振った。
「忙しいだろう。来なくていい」
「来る」
キヨが堂島を見た。何か言おうとして、やめた。
「じゃあ、来るときは電話しなさい。片付けるから」
「片付けなくていい」
キヨが笑った。
「あんたに散らかった部屋は見せられないよ」
◆
それから堂島は週に一度、キヨのアパートに通った。
健吾とさくらのことを話した。梶本のことを話した。村上のことを話した。キヨは目を細めて聞いていた。
「賑やかになったんだね、お寺」
「そうだな」
「良かった」
キヨが窓の外を見た。春が近づいていた。
「剛、あんた幸せか」
突然の問いだった。
堂島は少し考えた。
「わからん」
「正直だね」
「ただ、毎日やることはある」
キヨが頷いた。
「それで十分だよ」
◆
三月の最後の週、キヨから電話があった。
「剛、明日来られるか」
「行く。どうした」
「なんでもない。顔が見たくなっただけ」
翌朝、堂島はアパートに行った。
キヨは布団に横になっていた。起き上がれなくなっていた。顔色が悪かった。
「病院に行くぞ」
「いい」
「いいじゃない」
「いいんだよ」
キヨが堂島を見た。目が静かだった。
「剛、そこに座りなさい」
堂島は布団の横に座った。
「あんたが坊主になったって聞いたとき、最初は驚いたよ。でも、そうか、と思った」
「そうかとは」
「あんたらしいと思った。やると決めたら、やる子だったから」
◆
キヨが目を閉じた。
「佐江さんのこと、渉のこと、ずっと気になってたよ。何も言えなかったけど」
堂島は黙っていた。
「あの子たちの分も、生きなさい」
「ああ」
「ちゃんと飯を食いなさい」
「食ってる」
「嘘おっしゃい。痩せてるじゃないか」
キヨが薄く笑った。
堂島の手を取った。小さな手だった。骨ばっていた。それでも温かかった。
「剛、ありがとうね」
「何がだ」
「産んで良かった」
◆
その夜、キヨは逝った。
春の夜だった。風がなかった。
堂島は朝まで隣に座っていた。
◆
葬儀は流魂寺でした。
参列者は堂島と健吾とさくらだけだった。さくらは祖父母の家から健吾が連絡して呼んだ。さくらは黄色いワンピースを着てきた。キヨが好きな色だと健吾が言ったからだった。
読経を始めた。
堂島の声が途中で乱れた。一度だけ。
間があった。
健吾が堂島の隣で手を合わせていた。さくらも手を合わせていた。
堂島は息を整えた。読経を続けた。
◆
位牌を本堂に安置した。
佐江の位牌の隣に、渉の位牌。その隣に、キヨの位牌。
三つ並んだ。
堂島は三本の線香を立てた。煙が三筋、静かに上がった。
◆
その夜、堂島は縁側に座った。
珍しく酒を出した。小さな盃に、安い日本酒を注いだ。
健吾が隣に来た。何も言わずに座った。
しばらく二人で月を見た。春の月だった。丸くはなかったが、明るかった。
「住職」
健吾が言った。
「お祖母さん、どんな人でしたか」
堂島は少し考えた。
「うるさい人だった」
「うるさい?」
「よく喋った。よく笑った。よく怒った」
盃を傾けた。
「強い人だった」
健吾が月を見た。
「俺の母親も、強かったらしいです。会ったことないけど」
堂島は答えなかった。
風が吹いた。境内の木が揺れた。
春の夜は静かだった。流魂寺は静かだった。
それでも、どこか温かかった。
第十二話 了




