最終話「無縁仏」
沖田が来たのは、五月の終わりだった。
朝の読経が終わって、堂島が境内を掃いていた頃だった。表門の前に車が止まった。黒い車だった。運転手が降りて、後部座席のドアを開けた。
老いた男が出てきた。
◆
七十を超えているだろう。白髪を短く刈っていた。背は低かったが、立ち方に重さがあった。高級な着物を着ていたが、華やかさはなかった。長い年月を生きてきた人間の、静かな重さだった。
男は堂島を見た。堂島は箒を持ったまま、動かなかった。
互いに何者かはわかった。言葉は要らなかった。
「堂島剛道か」
「そうだ」
「沖田だ。三東会の」
堂島は箒を置いた。
「上がれ」
◆
庫裏で向かい合った。
健吾は学校に行っていた。流魂寺には堂島と沖田だけだった。
茶を出した。沖田は受け取った。一口飲んで、置いた。
「お前に話しておかなければならないことがある」
「聞く」
沖田が堂島を見た。老いた目だったが、逃げていなかった。
「佐江さんと渉くんのことだ」
◆
堂島は動かなかった。
沖田が続けた。
「お前が組を抜けようとしたとき、上層部は制裁を決めた。命令を出したのは当時の若頭だった。もう死んでいる。三年前に病気で逝った」
「知っている」
「知っていたか」
「薄々は」
沖田が頷いた。
「俺はあの夜、知っていた。止めようとした。間に合わなかった」
堂島は沖田を見た。沖田は目を逸らさなかった。
「詫びに来たわけじゃない。詫びて済む話じゃないことはわかっている」
「ならなぜ来た」
「お前が知らないまま死ぬのは違うと思った。それだけだ」
◆
沈黙があった。
長い沈黙だった。
堂島は怒らなかった。怒鳴らなかった。拳を握らなかった。
ただ座っていた。
沖田が続けた。
「渉くんは、最後まで泣かなかったそうだ。佐江さんが庇っていたから、怖くなかったのかもしれない」
堂島の喉が動いた。それだけだった。
「佐江さんは、お前の名前を呼んだそうだ」
堂島は目を閉じた。
長い間、閉じていた。
◆
沖田が立ち上がった。
「俺にできることは何もない。ただ、伝えに来た」
堂島は目を開けた。
「一つだけ聞く」
「何だ」
「佐江と渉は、苦しまなかったか」
沖田が少し間を置いた。
「早かったそうだ」
堂島は頷いた。
「そうか」
◆
沖田を門まで送った。
車に乗り込む前に、沖田が振り返った。
「お前が坊主になったと聞いたとき、らしくないと思った」
「そうか」
「今は、らしいと思う」
沖田が車に乗った。黒い車が路地を走っていった。角を曲がって、消えた。
堂島はしばらく門のところに立っていた。
◆
本堂に入った。
佐江の位牌。渉の位牌。キヨの位牌。
三つ並んでいた。
堂島は位牌の前に座った。正座した。背筋を伸ばした。
線香を三本取った。火をつけた。
煙が三筋、静かに上がり始めた。
手を合わせた。
◆
どのくらいそうしていただろうか。
気配がした。
障子が静かに開いた。健吾だった。学校から帰ってきたのだろう。堂島の背中を見て、何も言わずに隣に座った。手を合わせた。
しばらくして、また気配がした。
さくらだった。今日は祖父母に連れられて来ていた。さくらだけが本堂に入ってきた。健吾の隣に座った。小さな手を合わせた。
三人が並んで座っていた。
◆
堂島が口を開いた。
静かな声だった。位牌に向かって言った。
「遅くなった」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
◆
線香の煙が三筋、真っ直ぐ上がっていた。
風のない日だった。
本堂の奥まで、五月の光が差し込んでいた。
健吾が目を赤くしていた。さくらは目を閉じたまま手を合わせていた。
堂島は動かなかった。
ただそこにいた。
◆
どこかで鳥が鳴いた。
境内の木が、風もないのに少し揺れた。
煙が揺れた。三筋の煙が、一瞬だけ絡まって、また真っ直ぐになった。
堂島がそれを見た。
目を細めた。
それだけだった。
流魂寺は今日も静かだった。
新宿の路地の奥、誰も気づかない場所で、今日も線香の煙が上がっていた。
弔う者のいない死者のために。
居場所のない生者のために。
そして、自分自身のために。
男はただ、手を合わせ続けた。
終話 了




