第9話 アヒルの神
部屋の中に、自分だけがいた。
喧騒の残る廊下の声が、扉を一枚隔てたことで遠い幻のように引いていく。
━━今すぐ俺の身体から出ていって欲しい
重苦しい沈黙が、一瞬だけ室内を支配した。
『━━……いいですよ』
脳裏に響いたツルの声は、驚くほどあっさりとしたものだった。そこには拒絶の意志も、残留を乞う交渉も、ましてや腹黒い裏の意図すらも一切感じられなかった。
直後、意識の奥に張り付いていた何かが、音もなく身体から抜け落ちた。
それを“重さ”と表現するのが正確かどうかは分からなかった。ただ、意識にこびりついていた異質な何かが、驚くほど滑らかに、すっと外側へと抜け出ていったのだ。
軽くなった。
だが同時に、ぽっかりとした空白が胸の内に取り残された。
一人になったはずだ。しかし未だ、取り除けない異物が引っかかっていた。それはまるで、強引に引き抜かれた歯の後に残る肉の不快な輪郭や、消えない傷痕を指先でなぞっているかのような生々しい感触だった。
頭頂のわずか上、確かに“それ”は存在していた。言葉にできない。“それ”は圧倒的な気配を放っていた。
勇雄は意識を鋭く研ぎ澄ました。どうやら“それ”は、自分の意志次第で身体のあらゆる場所へと自在に移動させることができるようだった。
試しに、右の掌へと凝集させるように強くイメージしてみる。
次の瞬間、手のひらの上に、物質化した“それ”が静かに現れた。
━━“それ“は水晶だった。
直径二十センチメートルほどの、一見すると美しい球体だった。その内部は透明である。だが、透明という概念では形容しきれない異質さがあった。
直視しているだけで、両目の網膜が焼き切れそうな錯覚に襲われる。しかし、強烈な磁力に囚われたかのように、どうしてもそこから視線を外すことができなかった。
球体の表面には、細い帯状の不可解な文字が幾重にも巻き付き、生き物のように流動的な速度で並び替えられ続けている。
胸の奥から、理由のない高揚感がせり上がってきた。
恐ろしさを感じ、勇雄はそれを即座に手放そうとした。
━━しかし、できなかった。
机の上に直接置こうとしても、石は掌から一切離れようとしなかった。
「……手放せない」
勇雄は顔を上げ、部屋の片隅に視線を向けた。その瞬間、彼の動きが完全に固まった。
ツルが、部屋の中にたたずんでいた。
肉体を持ってそこにいた。体躯は小さく、不格好なアヒルの姿。全身は白い羽毛に覆われ、頭部が異常に大きく、丸い瞳も不釣り合いに巨大だった。首は極端に短く、頭部が全体形の半分近くを占めており、その中央に無骨な嘴が突き出している。そこには、シグナルドのような神の威厳や、人智を超えた神としての面影は微塵も存在しなかった。
ツルは、勇雄の手に吸着したままの球体をじっと見つめた。
その瞬間、彼女の大きな目が驚愕に丸くなり、表情が一瞬だけ激しく崩れた。頭部の半分を占める大きな嘴が、微かに震えながら言葉を紡ぎ出す。
「……それ、普通であれば、意思一つで簡単に手放せるはずのものです……」
「普通なら、だと?」
「バグ、です……」ツルは困惑を隠せない様子で、羽を小さく震わせた。「まさか、こんな事態になるなんて……私だって全く予想していなかったのですよ」
「バグとはどういう意味だ。説明しろ」
「世界の設計の外側で起きた、予期せぬエラーのことです。私にも原因は完全にはわかりません。……今のあなたの状態では、それを手放せないみたいです」
「いつになったら外れる」
「あなたが命を落とした時、か……」ツルは一度、悲しげに視線を伏せて間を置いた。「あるいは、数年の経てば、自然に外れるかも知れません。どちらか、時間の早い方です」
勇雄は、忌々しげに手の上の球体を睨みつけた。
ツルがその短い羽をそっと伸ばし、球体へと触れようと試みる。
パシッ、と目に見えない衝撃が走った。
音もなく、ツルの羽が強引に押し返される。彼女の皮膚は、球体の表面に触れることすら叶わなかった。
「触れることすらできないのか」
「強力な封印が施されているのです。今の私のような不完全な権能では、とても扱いきれません……」
勇雄はツルを鋭く睨み据えたが、彼女の瞳にこれ以上の言及を拒む色を見て取り、追及を諦めた。
勇雄が意識の集中を解くと、球体は融解するようにゆっくりと掌から染み込み、再び肉体の内側へと戻っていった。頭頂のわずか上。どうやらそこが定位置のようだった。
しかし、球体が視界から消え去った後も、あの魂を震わせるような高揚感と、全身に力が満ち溢れる全能の感覚だけは、消えることはなかった。
「これは一体何なんだ。誤魔化さずに答えろ!」
冷静沈着だった勇雄の声音に、初めて余裕のない焦燥が混じる。
ツルはそっと両目を閉じ、何かを祈るように天井を見上げた。長い沈黙。やがて、脳内での思考を整理し終えたのか、あるいは勇雄の迫力に観念したのか、彼女はゆっくりと目を開き、その小さな嘴を開いた。
「……それは『神の石』。私たちが神界において『宝神石』と呼んでいる。本来、人間が触れていいものでも、扱えるものでもありません。あれは、私が管理を任されていた宝神石です。」ツルは大きな頭を下げた。「……申し訳ありませんが、これ以上については、お答えできません」
「これは、人間が保有し続けても、安全な物なのか」
「これまでの長い歴史の中で、人間が宝神石を長時間にわたって保持し続けた前例は、片手で数えるほどしかありません。ただ……宝神石そのものが、保有者に害をなしたという記録は存在しないはずです。」
ツルは声を落とし、ゆっくりと語った。
「……あなたから外れなくなってしまうなんて、本当に想定外の事故です。私はあの宝神石を、回収しようとしていました。これだけは、信じてください……」
ツルは大きな頭を深く下げた。その不格好なアヒルの姿には、他者を欺こうとする嘘の気配は感じられなかった。
♢
「まだ他にも、お前に聞かねばならないことがある」
「はい、何でも聞いてください」
「俺たちが最初に出会った、あの空間━━神たちの居住区は何だった。あそこは一体どこなんだ」
ツルは少しの間、大きな瞳を揺らした。
「あの場所は、この世界における……『因果の揺らぎ』を精密に観測するための場所です。」ツルは静かに語り始めた。「あそこにいた、あの黒髪の神……彼女に直接、聞く事があったのです。」
「それがなぜ、俺の体を使う必要があった」
「神を欺くために、あの場所で、最も『不安定だった器』に潜り込むのが、最も自然で悟られない方法だったからです」
「つまり、俺の魂が一番壊れかけていたということか」
「……はい。そういうことになります」
「なぜ、俺があんな場所にいたのか、その理由は分かるか」
ツルは視線を足元へと落とした。そのまま、言葉を続ける。
「分からないのです……。あなたの魂が、なぜあの神の居住区にまで漂着していたのか、私にもわからないです」
「本当にわからないのか」
「そ、そうです。」
勇雄はツルの発言に何かを感じた。ただ勇雄自身も何かがわからなかった。
♢
「そもそも、お前が本当に崇高な神だという証拠がない」
勇雄の指摘に、ツルは少しだけ大きな目を細めた。
「分かりました。私の言葉が真実であることを、今ここで証明してみせましょう」
ツルが静かに両目を閉じた。
その瞬間、空気が止まった。
世界から音が消えた。廊下を歩く生徒たちの遠い話し声も、窓を叩いていた微かな風の音も、世界のすべてが完全な無音へと変わった。
窓から斜めに差し込んでいた光の粒が、空中でピタリと制止した。気流に乗って舞い落ちるはずだった微細な埃さえも、重力を忘れたかのように空間に釘付けになっている。時間が停止したのではない。切り取られたのは、この部屋という空間そのものだった。
ツルの目が、ゆっくりと開かれた。
その両目は、鮮烈な「金色」へと変貌を遂げていた。
さっきまでの濁った黒に近い色彩は霧散し、神聖な金色の光彩が宿っている。背後から、一対の美しい翼が音もなく広がった。純白の羽毛はそれ自体が微かな光源であるかのように、神秘的な光を帯びて輝いている。ツルの小柄な体格はそのままに、その翼だけが大広間の空間を制圧するほどの圧倒的なスケールで展開されていた。
しかし、勇雄自身は動けた。
この絶対的な静止空間の中で、自分だけが自由に行動できる。
耳を澄ませば、遥か遠方の施設の外側からは、微かに鳥の鳴き声や風の音が聞こえてくるようだった。止まっているのはこの部屋の「内部」だけ。有効範囲が極めて限定的な権能。
数秒の後、何かが弾ける感覚と共に、空間の固定が解除された。
世界に、再び流動的な音が戻ってくる。
「これで、信じていただけますか?」
ツルが何事もなかったかのように呟いた。背後の光の翼はすでに掻き消え、目の色も元の色彩へと戻っている。
「……もしお前が本物の神であるなら」勇雄は冷ややかに告げた。「この絶対空間の中で、人間である俺だけが自由に行動できるのはおかしいだろう」
「……そう、ですね。確かに、その通りです……」
「……」
勇雄が動けた理由について、ツルからの明確な説明はなかった。しかし、今眼の前で世界の因果がねじ曲げられたのは紛れもない事実。彼女が単なる不格好な鳥ではなく、神に近い超越的な存在であるという確証としては十分だった。
♢
「俺から、最後に一つだけ確認しておきたいことがある」
「何でしょうか、答えられる範囲であれば」
「望月美香と、この世界にいるミカという少女について、お前は何か知っていることはないか」
ツルは再び視線を下に落とし、確認するように逆質問をしてきた。
「その、望月美香さんという方について、私はわかりません。彼女があなたにとってどういう存在なのか、説明していただけますか?」
勇雄はツルが望月美香について何も知らないのに違和感を覚えたが、話が進まないので説明した。
「日本の高校の入学式の日、出会った女子生徒だ。そして、この異世界で出会ったあのミカという少女は、彼女に酷似している。佇まい、歩き方、声の抑揚、会話の間。それらすべてが、俺の記憶にある望月美香と完全に一致する。俺は、彼女が望月美香その人であると確信している。何らかの事情があって正体を隠しているのか、あるいは、転移の衝撃で記憶を失っているかのどちらかだと思っている。」
ツルはゆっくりと顔を上げ、その大きな瞳で勇雄の眼差しを真っ正面から受け止めて答えた。
「疑い続ければ、相手はますます本当のことを話せなくなります。きっと、誰にも言えない深い理由があって、本当のことを話せないでいるだけかも知れません。もし心を開いてくれれば、いつかきっと、真実を教えてもらえるはずです。」
ツルは間を開けて続けた。
「……仮に、本当にあなたのことを完全に忘れてしまっていたとしても、また新しい関係を一つずつ築き直していけば良いのです。あなたなら、きっとそれができるはずですよ」
「神らしいことも言うんだな」
「……神として、その程度の助言はできます。」
ツルは少しの間、短い嘴を指先で叩くように考え込んでから続けた。
「そう言えば、この施設の奥には大規模な図書館が併設されていると、先ほどの職員が言っていましたね。そこには、魂の記憶や精神の欠損に関する書物も保管されているかも知れません。一度、ご自身で調べてみてはいかがですか?」
勇雄は少しの間その提案を考察し、静かに頷いた。
♢
その時、部屋の天井に設置されたスピーカーから、特有のノイズと共に音声が流れ込んできた。校内放送のシステムそのものだった。
『━━皆様、お食事の準備が、整いました!』
案内時と同様、たどたどしい日本語の発音。城から派遣された職員の声だった。
勇雄はベッドの端から静かに立ち上がった。
「観測のため、私もあなたに同行させていただきます」ツルが自らの身体を小さく揺らしながら言った。「この姿は、通常の人間には絶対に見えません。ですから、行動に支障はありませんよ」
「分かった。ただし、もう二度と憑依だけは勘弁してくれ」
「ええ、分かっています。もうあのような強引な真似はいたしません」
勇雄は部屋の鍵を解除し、重い扉を押し開けた。
廊下へと一歩踏み出した瞬間、すぐ目の前にミカがいることに気づいた。
彼女は自分の部屋の少し先、壁に背を預けるようにして、じっとたたずんでいた。勇雄の気配を察知し、弾かれたようにこちらへと視線を向ける。
「あ、武藤くん……」
その瞬間、ミカの視線が、勇雄の背後に控えるツルの姿へと完全に固定された。
ピタリ、と彼女の動きが止まる。
それから、無意識の衝動に駆られたかのように、彼女の華奢な右手が、ツルの白い身体に向かってそっと伸ばされかけた。その指先が、あと数十センチメートルでツルの羽毛に触れるという、その瞬間━━。
「おい、食堂ってどっちだよ?」
「こっちの階段の下じゃない?」
廊下の向こう側から、騒がしい転移者たちの話し声と、こちらへと歩いてくる複数の足音が響いてきた。
ミカの手が、ハッと我に返ったように素早く下ろされる。
次の瞬間には、彼女の顔から動揺が消え、まるで何事もなかったかのような、いつもの静かな表情へと戻っていた。
今の仕草は見間違いでない。ミカは確かにツルへ向かって手を伸ばそうとしていた。
「食堂、どこにあるか分かりますか?」ミカは何事もなかったかのように、小首を傾げて問いかけてきた。「どこかわからなくて……ここで、武藤くんが出てくるのを待っていたんです」
「廊下のあちこちに、詳細な案内マップが貼ってあるだろう」
ミカはほんの少しだけ間を置き、困ったように眉を下げた。
「……私、昔から地図を読むのが、どうしても苦手で」
勇雄は、ミカのその表情をじっと見つめた。すぐ近くの壁面には、日本語で施設の構造図が掲示されている。
地図が苦手。
本当に方向音痴なのか、それとも別の理由があるのか。その判断材料は、まだ足りなかった。
「こっちだ。案内する、行こう」
勇雄は思考を切り替え、食堂へと続く廊下を歩き始めた。
ミカがそのすぐ隣に、当然のような自然さでピタリと並ぶ。
そして、人には見えないはずの白い神━━ツルが、二人のすぐ後ろを静かにトコトコとついてきた。
ミカは前を向いて歩きながら、一度だけ誰にも気づかれないようにツルへ視線を送った。
第9話を読んでいただきありがとうございます。
ツルの正体がようやく明かされました。あのアヒルの姿、想像と違いましたか。
前作でも登場した宝神石をやっと出すことが出来ました。ほぼ呪いのアイテムです。
次話もよろしくお願いします。次は食堂の場面です。登場人物を一人増やします。お楽しみください。




