第56話 幻影狐
森の薄暗がりの中、無数の金色の巨大な眼球が、ゆらりと浮かび上がっていた。
獣のものとは思えないほど、歪で不気味な瞳。
それらは一切の瞬きをせず、濡れたような光を放ちながら、じっと五人を凝視している。
「……目を見るな!!」
理人の鋭く張り詰めた制止が飛んだ。
しかし、最前線に立つ勇雄の視線は、すでに正面の個体が放つ巨大な黄金の瞳とぶつかっていた。
一度、捉えられた視線を、無理に引き剥がすことは、できなかった。
━━来るか……!
勇雄は奥歯を噛み締め、全身の筋肉を緊張させながら、何かに備えた。
……だが。
何も起きない。
ただ、目の前の幻影狐が巨大な眼球を見開いたまま、不気味に静止しているだけだった。
「……!?」
理人の眉が跳ね上がった。
目の前の幻影狐もまた、ゆっくりと首を傾げる。
別の個体が、後方のミカへと視線を向けた。
しかし、ミカも青ざめた顔で生唾を飲み込み、身構えているだけだ。
精神に異常をきたした様子はない。
理人の表情から、いつもの不敵な笑みが完全に消え失せた。
目を見開き、口元をかすかに引きつらせている。
「……なんでだ? なんで何も起きねえ……?」
誰にも聞こえないほど小さな声で、理人が呟いた。
その時、幻影狐の顎が限界まで裂け、その奥から禍々(まがまが)しい熱量が溢れ出した。
「射撃体勢! 来るわよッ!!」
前川先輩の切迫した叫びが響く。
直後、数匹の口から一斉に火球が放たれた。
ドォンッ!!
空気が爆ぜ、激しい炎が周囲を焼きながら押し寄せる。
「散れッ!!」
勇雄の判断と同時に、五人は円陣を解くよう散開した。
爆風で舞い上がる黒煙の中、勇雄が長剣を低く構えて地を蹴った。
「ミカ、下がれ! 古賀、右だ!!」
「っ……あ、ああ、くそっ!」
勇雄の怒号で我に返った理人が、即座に滑らかな足捌きで側面へ回り込む。
勇雄は地を這う炎を最小限の跳躍でかわし、先頭の個体へ一瞬で肉薄した。
閃光のような一撃が、その首筋を薙ぎ払う。
「激しく穿て━━『アイスランス』!」
後方に退いたミカが長杖を掲げる。
三本の凍てつく氷槍が噴き出し、空気を切り裂きながら飛翔した。
次の火球を練り上げていた幻影狐の胸元を貫き、その身体ごと炎を粉砕する。
「そこ、二匹重なってる! 隙あり!」
グリナが指揮棒を素早く振り、敵の死角を示す。
前川先輩が即座にクロスボウの引き金を引いた。
ガツンッ!
重い発射音とともに放たれた鉄矢が、重なっていた二匹の頭部をまとめて貫通する。
「……やっぱり、おかしいだろ……っ!」
理人は、混乱と苛立ちが混ざった低い声で吐き捨てた。
「何がだ! 集中しろ!」
敵の血を浴びながら、勇雄が鋭く問いかける。
「っ……いや! なんでもねえ!」
理人は咄嗟に言葉を呑み込み、唇を強く噛み締めた。
再び目の前の幻影狐が、口から灼熱の炎を噴き出した。
理人は最小限の身のこなしで炎をかわし、そのまま狐の懐へ潜り込んだ。
剣が一閃する。
しかし、理人の頭の中では、戦闘とは別の疑念が渦巻いていた。
『━━精神干渉の『異能』だけが完全に潰れて、魔物としての魔法は普通に機能してんのかよ……!!━━』
声にならない毒づきを呑み込み、苛立ちをぶつけるように剣を叩きつけた。
♢
幻影狐自体は、もともと高い耐久力を持つ魔物ではなかった。
それでも、数が多いうえに、火の魔法を自在に操る。並の冒険者では太刀打ちできず、歴戦のチームでなければ、瞬く間に全滅していた可能性もある。
だが、圧倒的に洗練された五人の前では、火を吐く猛獣に過ぎない。
幻影狐は倒れるその瞬間まで、その挙動が異質だった。
傷つき、追い詰められても逃げ出そうとしない。
死の間際まで何度も、何度も巨大な金色の目を勇雄たちへ向けてくる。
まるで、
『なぜ自分の術が効かないのか』
それを理解できず、必死に確かめようとしているかのようだった。
ザシュッ━━!
勇雄の横薙ぎの一撃が通り、最後の小さな幻影狐が血煙を上げて崩れ落ちた。
静寂が森に戻る。
だが、五人が安堵の息を漏らす余裕は、与えられなかった。
森の奥深くから、空気を激しく振動させる重苦しい足音が響く。
━━ズシン。
━━ズシン。
大樹を薙ぎ倒し、圧倒的な威圧感とともに姿を現したのは、先ほどまでの個体の倍以上はある巨躯の狐だった。
顔面の半分を占める、狂気的なまでに巨大な黄金の眼球。
その瞳が、爛々(らんらん)と不気味な光を放っている。
「……あれは、マジで見るな……っ!」
理人の声から、完全に余裕が消え去っていた。
━━幻王狐。
五人が再び武器を構え、警戒を最大まで引き上げた。
幻王狐の巨大な瞳が、先頭に躍り出た勇雄を捉えた。
……。
やはり、何も起きない。
幻王狐が首を傾げた。
小型の個体と同じように、術が通じないことを理解できていないのか。
それとも、何度も試すことで、突破口を探ろうとしているのか。
いずれにせよ、こちらの様子を窺っている余裕などなかった。
次の瞬間、その顎がメリメリと音を立てて大きく割れ開いた。
先ほどとは桁違いの熱量が、口内へ凝縮されていく。
「全員、散って━━ッ!!」
前川先輩の絶叫と同時に、幻王狐が口から放ったのは巨大な火球ではなかった。
赤黒い、高圧の火線。
それが高速で一直線に走り抜けた。
掠めた巨木が両断され、猛烈な爆炎を上げながら吹き飛んでいく。
「なっ……熱線攻撃!? 離れろ!」
勇雄が咄嗟に横転し、熱線をかわす。
間一髪だった。
熱線が駆け抜けた地面は、赤く熱せられ、どろどろに融解している。
直撃すれば、鎧ごと身体を焼き切られかねない。
勇雄は地面に転がった勢いを殺しながら立ち上がり、仲間たちの位置を確認した。
全員、まだ動ける。
だが、安心するには早すぎた。
幻王狐は攻撃を緩めない。
息を吐く間もなく巨体を大きく振り払うと、口から無数の『狐火』を空中へ散布した。
ゆらゆらと滞留する青白い火の玉が、五人の逃げ道を塞ぐように周囲を埋め尽くしていく。
「これ……触れたら、おそらく爆発するやつだ! 皆、気をつけて!」
グリナが叫んだ直後。
滞留していた狐火が、連鎖的に爆ぜた。
ドカァンッ!!
四方八方から熱波と爆風が押し寄せる。
「くっ……『アクアウォール』!」
ミカが魔力を叩き込んで水の壁を展開する。
激突した炎によって水壁は一瞬で蒸発し、凄まじい白煙が視界を埋め尽くした。
「グリナ、安全な位置は!?」
「右後方! 爆発の隙間、ここだよっ!」
煙の中からグリナの指示が飛ぶ。
勇雄はすぐさま声の方向へ目を向けた。
爆発が途切れた一瞬を逃せば、次の攻撃に巻き込まれる。今は敵を倒すことより、五人が分断されないことを優先すべきだ。
「全員、グリナの指示に合わせろ! 固まるな、でも離れすぎるな!」
勇雄の声に、仲間たちが即座に動く。
前川先輩のクロスボウから連射された矢が煙を突き抜け、幻王狐の皮膚を穿つ。
しかし、巨獣は怯まなかった。
「ギヨョォッ━━!」
咆哮を上げながら跳躍し、その巨大な黄金の瞳を終始、勇雄たちへ向け続けている。
瞳が怪しく明滅する。
何度も何かを行使しようとしているのだ。
だが、やはり何も起きない。
「何か術を仕掛けてこようとしてるが……効かねえなら、ただのデカい狐だ! 押し切るぞ!!」
理人が焦燥を隠せないまま叫ぶ。
勇雄は長剣を低く構え直した。
相手の巨体と火力は脅威だ。正面から攻撃を受け続ければ、いずれこちらが先に消耗する。
幻王狐が熱線を放った直後に一瞬体勢を崩すようだ。
ならば、狙うのは攻撃の直後。
動きを止めるか、体勢を崩す。
「了解だ!!」
幻王狐が熱線を放ったあと、勇雄が正面から怒涛の勢いで踏み込む。
閃光のような踏み込みから、一撃を繰り出した。
幻王狐が前脚の鋭い爪で強引に受け流そうとする。
その瞬間。
死角から潜り込んだ理人の剣が、前脚の関節を正確に断ち切った。
「グアァッ!?」
幻王狐の巨体が大きく傾く。
「今だ!」
勇雄は体勢を崩した幻王狐の懐へ踏み込み、無防備になった首元へ長剣を一直線に突き込んだ。
ドドンッ……!
巨体が地響きを立てて倒れ込む。
全身を包んでいた激しい熱気が、霧のように周囲へ散っていった。
♢
「……はぁ……はぁ……終わった、の……?」
前川先輩が膝に手をつき、荒い息を吐きながらクロスボウを下ろした。
「……索敵範囲内に、ほかの敵の反応は……なし! 完全に消えました!」
グリナが周囲を確認しながら報告する。
勇雄も感知魔法を唱え、反応がないことを確かめ、深く息を吐いた。
焦げた葉と硫黄のような匂いが漂う中、前川先輩が倒れた幻王狐の死骸へ、おそるおそる歩み寄る。
「……これ、やっぱり『幻影狐』よね」
「知っているんですか、前川先輩?」
勇雄が振り返る。
前川先輩は記憶を辿るように腕を組んだ。
「名前だけ……だけどね。王都の施設にあった書物で、魔王に関する昔の文献をパラパラ見てた時に見かけたのよ」
「魔王と関係が……?」
「詳しい生態までは書いてなかったけど……昔、魔王が現れた時代に、一緒に記録されていた固有種のはずよ。こんな不気味なやつ、普通の生態系にいるわけないじゃない」
勇雄は倒れた巨体へ視線を戻した。
魔王が現れた時代に記録された魔物。それが、今になってこの森に現れた。
この森には、自分たちがまだ把握できていない何かがある。
「……この死体、どうする?」
勇雄は周囲を見回し、仲間たちに意見を求めた。
「解体して素材を持ち帰るなら、今すぐ作業に入らないと日が暮れるわね」
前川先輩が死骸を見下ろしながら言った。
「みんなはどう思う?」
「私は持ち帰りたくないな……」
グリナが嫌そうに肩をすくめる。
「毛皮も硬いし、売れるかどうかも怪しいよー」
「私も反対です」
ミカが真剣な表情で続けた。
「この魔物、死んでいるのに変な魔力を放ち続けています。普通の魔物と同じように扱うのは危険です。放置して、速やかにこの場を離れるべきだと思います」
勇雄は黙って頷いた。
ミカの指摘はもっともだった。
戦闘中、幻影狐たちは何度も巨大な眼をこちらへ向けていた。術が効かなかったからよかったものの、あの異常な力の正体は分かっていない。
死んだからといって、危険がなくなったとは限らない。
それに、ここで解体を始めれば、作業に時間を取られる。ほかの魔物も戻ってくるかもしれない。夕暮れが迫る中、正体の分からない死骸に時間を費やすのは得策ではなかった。
「俺も、このまま放置でいいと思う」
勇雄は死骸から目を離さずに言った。
「素材としての価値も、危険性も分からない。今はディーヌ洞窟へ向かうことを優先すべきだ。ここで時間を使って、夜の森を移動する羽目になる方が危険だろ」
その言葉に、前川先輩が小さく頷いた。
「そうね。意見はまとまったわね」
彼女は一度、全員の顔を確認してから告げた。
「死体はそのまま放置。野犬やほかの魔物が寄ってくる前に、私たちは先を急ぐわよ!」
全員が歩き出そうとした、その時だった。
理人がすっと別の方角へ歩き出し、一番小さな幻影狐の死体の前で屈み込んだ。
「古賀くん? 何してるの?」
前川先輩が振り返る。
理人は持参していた布を広げ、小さな死骸を手際よく包むと、紐で縛り上げた。
「これ、一匹持って行くぞ」
「何に使うんだ?」
勇雄が問いかける。
理人は一瞬だけ勇雄を見たが、すぐに視線を死骸へ戻した。
「気味が悪いからな。後で少し調べたい。……まあ、洞窟の中に持ち込んで妙なことが起きても困る。今夜の夜営地で検分するだけにしておくさ」
理人は全員に頭を下げた。
「……危険なのはわかっている。だけど、どうしても調べたい━━」
理人の声には、普段の軽さがなかった。
ただ気味が悪いから調べたい、というだけではない。
勇雄には、理人が何かを確かめようとしているように見えた。
戦闘中から続いている、あの不可解な動揺。幻影狐の術が効かなかったことに対して、理人は明らかに普通ではない反応を示していた。
問い詰めたい気持ちはあった。
しかし、今ここで聞いたところで、理人が正直に答えるとは限らない。
「……分かった。ただし、俺たちにも確認させてくれ。何か異常があったら、すぐに捨てる。それが条件だ」
勇雄はそう告げ、理人の目をまっすぐに見た。
理人は一瞬だけ目を細めたものの、やがて肩をすくめた。
「はいはい、分かってるよ」
軽い口調に戻ったが、その表情にはまだ、拭いきれない緊張が残っていた。
前川先輩も少し迷った末、ため息をついた。
「……分かったわ。でも、何か異常があったらすぐ捨てること! 勝手に触ったり、調べたりしないで、必ずみんなに相談するのよ」
「了解」
理人は短く答え、包んだ死骸を背負い袋へしまった。
勇雄はその様子を見届けてから、仲間たちへ声をかけた。
「よし、行こう。暗くなる前に、今夜の野営予定地まで進みたい」
誰も異論はなかった。
♢
再び歩き始めた五人だったが、数十メートルも進むと、森の空気ががらりと一変した。
チチチ……。
頭上で小鳥のさえずりが、心地よく響く。
木々の間を小さなリスが駆け抜け、遠くからは野生動物や、ほかの魔物の気配すら感じられた。
「……さっきまで、あんなに不気味に静まり返ってたのに!」
グリナが驚いたように周囲を見回す。
「あの狐がいなくなったから……だろうな」
理人が短く答えた。
勇雄も深く息を吸い込んだ。
先ほどまで胸の奥に重くのしかかっていた、
『ここから離れたい』
『早く引き返したい』
そんな強烈な心理的抵抗が、嘘のように消え去っていた。
森の景色そのものは、何も変わっていない。
今は足を止めて引き返そうという気持ちが起こらなかった。
幻影狐たちが守ろうとしていたものが、この先にあるのだとすれば━━。
勇雄は森の奥へ視線を向けた。
━━ディーヌ洞窟。
明日、そこへ到着する。
その先に何が待ち受けているのか、今の彼にはまだ分からなかった。
♢
やがて、空が美しい茜色に染まり始めた。
五人は隊列を崩さず、森の中を進んでいた。
誰も、先ほどの戦闘について口を開かなかった。
勇雄は時折、後ろを振り返っていた。
気になっているのは、追ってくる敵の存在ではない。
理人が持ち帰った幻影狐の死骸。そして、あの戦闘中に見せた、理人の不可解な反応だった。
一方、理人は背負い袋を何度も気にしている。
まるで、中に入れたものが今にも動き出すのではないかと警戒しているようだった。
「そろそろ夜営の準備ね」
前川先輩が地図と周囲の地形を見比べる。
「情報屋の話だと、あの岩場の陰がいいようだ」
勇雄が指差した先には、街道から少し外れた場所に、巨大な岩塊が乱立する一帯が見えていた。
「明日の工程はどうなる?」
ミカの問いに、勇雄が空を見上げて答える。
「予定通り進めば、明日の昼前にはディーヌ洞窟に着くはずだ」
「……いよいよね」
ミカが小さく呟く。
その表情には緊張が浮かんでいたが、足取りに迷いはなかった。
勇雄の言葉に、全員が引き締まった顔で頷いた。
「よし、じゃあ今日はここまでね!」
岩場へ辿り着くと、大きな岩が風を遮り、五人が夜営の準備をするのに、十分な空間があった。
夜営地としては申し分ない場所だった。
グリナが手際よく大型リュックを下ろす。
「ここなら風も防げるし、安全に夜を明かせそうだね!」
「よし、明るいうちに火起こしの準備をしましょう」
前川先輩の掛け声で、五人は手分けして夜営の準備に入った。
勇雄は乾いた枝を集めながら、周囲の地形を改めて確認する。
大きな岩が風を遮ってくれる一方、死角も少なくない。夜の間に何者かが近づいてきても、岩陰に隠れられれば発見が遅れる可能性がある。
「火を起こす場所は、なるべく中央にしよう。岩陰に物を置きすぎないようにしてくれ。見通しを確保したい」
「了解。荷物も一か所にまとめすぎない方がいいね」
グリナが応じ、リュックの置き場所を調整する。
理人は布で包んだ幻影狐の死骸を、みんなから少し離れた岩陰へそっと置いた。
「こいつは一晩、ここに置いておく。匂いが風下へ流れるし、監視しやすいからな」
「ああ、分かった。ただ、何か変化があったらすぐに知らせてくれ」
勇雄は短く答え、再び乾いた枝を集め始めた。
沈みゆく夕日の中、五人はそれぞれの役割を果たしながら、夜営の準備を進めていく。
理人は、岩陰に置かれた包みをたびたび見ていた。
第56話を読んで頂きありがとうございます。
強敵・幻王狐との激闘、いかがでしたでしょうか。連携で見事に勝利を収めた5人ですが、術が不発に終わった「謎」だけが森の静寂に取り残される形となりました。
次回は夜営からです。お楽しみ下さい。




