第55話 不穏な森
森の少し開けた木陰で、五人は腰を下ろした。
日差しを遮る巨木の根元に布を敷き、それぞれの荷物から昼食を取り出す。
カルーエタウンの宿で持たされたのは、固く焼き上げられた黒パンと、塩気の強い干し肉。そして、薄味の干し野菜の煮物だった。
前線が近いため、決して豪華な食事ではない。
それでも、歩き続けてきた身体には、貴重な塩分と栄養だった。
「固っ……」
前川先輩が黒パンを噛みちぎろうとして、眉を寄せる。
「このパン、スープに浸さないと顎が砕けそうね」
水袋の水でパンを少し湿らせると、ようやく噛みちぎった。
「前線に近い街の携帯食は、どこもこんな感じだよ」
グリナは干し肉をナイフで小さく削ぎ切りながら答える。
「でも、ちゃんと噛めば旨味も出るし、腹持ちは抜群だからね!」
「それ、グリナちゃんが言うと説得力あるわね」
「ポーターは食事も大事だからね!」
「食事まで仕事なの?」
「もちろん!」
グリナは得意げに胸を張った。
前川先輩が苦笑する。
「……頼もしいんだか、食いしん坊なんだか分からないわね」
「ひどい!」
「ふふっ」
ミカが小さく笑った。
「でも、美味しいですよ」
「ミカちゃん、無理してない?」
「大丈夫ですよ、麗奈先輩。これでも少し慣れましたから」
ミカは黒パンを小さくちぎって口へ運ぶ。
何度か咀嚼していたが、ふと手を止めた。
視線が、周囲の木々へ滑っていく。
「……それにしても、思ったより静かですね」
「そうね」
前川先輩も周囲を見回した。
「街の門番さんは『魔物が増えてる』って言ってた割には、拍子抜けするくらい平穏だけど……」
「まだ森の浅いところだからじゃない?」
理人が干し肉を噛みながら言った。
「ここから先が本番なんだろ」
「そうだといいんですけどね」
ミカが森の奥へ目を向ける。
「……なんとなく、静かすぎる気もします」
「考えすぎじゃない?」
前川先輩が笑った。
「ほら、今だって鳥の声が――」
そこで言葉が止まった。
五人が一斉に森へ視線を向ける。
鳥の声は、聞こえなかった。
「……あれ?」
前川先輩が首を傾げる。
「本当に、静かね」
「気になりますか?」
「うん。でも、まだ何とも言えないわね」
前川先輩はメモを広げた。
「それより、街で聞いたことをもう一度整理しておきましょう」
五人の視線がメモへ集まる。
「ディーヌ洞窟は、立ち入り禁止で人があまり近づかない。そして……一年前くらいから、洞窟まで辿り着けた人がほとんどいない」
「ギルドの情報屋も同じことを言ってたな」
理人が頷く。
「途中で引き返すか、そのまま音信不通になる」
「しかも、最近は魔物の種類までおかしいって話でしたね」
ミカが続ける。
「うん」
グリナが水袋の口を締め直した。
「でも、洞窟そのものについては、ほとんど情報がないんだよね」
「……嫌な話だね」
前川先輩が小さく息を吐く。
「行った人がいないなら、分からないのも当然か」
「『道標』の感覚じゃ、方向も距離も狂ってない」
理人が地面に落ちていた枝を拾い、土の上へ簡単な地図を描く。
「洞窟自体は、間違いなくこの先だ」
勇雄も手帳に記した地図と、理人が示す方角を照合した。
「少なくとも、道を間違えているわけではないな」
「なら、問題は道そのものってことか」
「……そうかもしれないな」
勇雄は森の奥を見た。
「今は、先へ進むしかない」
「よし」
前川先輩がメモを畳む。
「じゃあ、サクッと食べて先を急みましょう」
「了解!」
グリナが元気よく答える。
「午後はもっと奥まで行かないとね!」
五人は手早く昼食を終えた。
食べ残しや干し肉のくずは丁寧に拾い、周囲に匂いが残らないよう片付ける。
そして荷物を整えると、グリナが全員の背嚢を確認していった。
「水、薬、食料……よし」
ベルトを引き、バックルを確かめる。
「各自の重量バランスも問題なし!」
最後に自分の背嚢を背負い直した。
「いつでも行けるよー!」
「相変わらず手際がいいな」
理人が感心する。
「ポーターだからね!」
グリナは胸を張った。
五人は再び歩き始めた。
♢
はじめのうちは、ごく普通の森だった。
木々が風に揺れる音。
小鳥の囀り。
草むらを跳ねる小動物の気配。
時折、見慣れない植物や小さな魔物を見かけることもあった。
だが、森の奥へ進むにつれて、少しずつ変化が現れ始めた。
鳥の声が減った。
小動物の気配も消えた。
風が木々を揺らしているはずなのに、その音さえも湿った静寂に吸い込まれていく。
「……静かすぎない?」
前川先輩が小声で言った。
「さっきより、明らかに静かになってます」
ミカも周囲を見回す。
「動物が逃げたのかな?」
グリナが尋ねる。
「分からない」
勇雄は短く答えた。
「ただ、警戒はしておこう」
「了解」
理人も笑みを消した。
五人の歩調が、自然と遅くなる。
♢
しばらく進んだところで、前川先輩が何度も後ろを振り返り始めた。
「……どうしました、先輩?」
勇雄が足を止めずに尋ねる。
「……いや」
前川先輩は眉をひそめた。
「なんか……嫌な感じがするのよ」
「嫌な感じ?」
「背筋がゾワゾワするっていうか……」
前川先輩は自分の腕をさする。
「誰かに見られてるような……でも、振り返っても何もいない」
「……実は、私もです」
グリナも周囲の暗がりへ視線を走らせた。
「さっきから、なんとなく落ち着かない」
ミカも長杖を握り直す。
「私も少しだけ……」
「感知魔法は?」
勇雄が尋ねる。
「今のところ、敵意のある反応はありません」
ミカは集中した。
「少なくとも、こちらへ攻撃を仕掛けようとしている存在は……」
そこで言葉を止めた。
「……でも」
「何かいるのか?」
「遠くに、何かを感じます」
理人が森の奥へ視線を向ける。
「いるぜ」
「……古賀くんも?」
「ああ」
理人の口元から、いつもの軽い笑みが消えていた。
「遠くに魔物の気配自体はある。ただ……こっちへ向かってくる感じじゃない」
「どのくらい?」
「距離までは分からない。けど、かなり遠いな」
勇雄も広範囲の感知魔法を展開する。
意識を森の奥へ伸ばしていく。
「……いる」
勇雄が静かに言った。
「進行方向に、確実に何かがいる」
「敵意は?」
「ない」
「なら、進める?」
前川先輩が尋ねる。
「……今のところは」
勇雄は答えた。
だが、その言葉とは裏腹に、胸の奥には説明できない違和感が残っていた。
「この魔物は……」
理人は誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
♢
さらに森の奥へ進む。
木々は次第に鬱蒼と茂り、頭上を覆う枝葉が日の光を遮っていった。
足元も湿り気を増し、腐葉土が靴へまとわりつく。
そして、グリナの歩幅が目に見えて狭くなった。
「……ねえ」
「グリナ、どうした?」
理人が振り返る。
「私たち……ちゃんと前に進んでるよね?」
「進んでる」
理人が即答した。
「『道標』も問題ない。方角も距離も、一ミリもズレてない」
「……それじゃあ……」
グリナが唇を噛む。
「なんで、こんなに足が重いの?」
「……」
「なんで、こんなに『引き返したい』って思っちゃうのよ……」
五人が足を止めた。
森は静まり返っている。
「グリナちゃん……すごく分かるわ」
前川先輩が青ざめた顔で頷いた。
「私も、さっきからずっとそう思ってた。でも、まだ余裕はあるかな……」
「私も先輩と一緒です」
ミカが胸元へ手を当てる。
「理由はないんです。でも……これ以上進まない方がいいんじゃないかって」
「……おいおい」
理人が周囲を見回す。
「俺はそこまで強くないぞ」
「俺もだ」
勇雄が答える。
「気味の悪さは感じる。でも、足を止めるほどじゃない」
「……二人だけ違う」
前川先輩が呟いた。
「私とグリナちゃんとミカちゃんは、明らかに『帰りたい』って思ってるのに……グリナちゃんが一番ひどいかな」
「人によって効き方が違うのかもしれない」
理人が低い声で言った。
「精神に直接作用してる?」
「可能性はある」
勇雄が森の奥を睨む。
その時、前川先輩が目を見開いた。
「……これ」
「どうしました?」
勇雄が聞き返した。
「昼に話してた噂と同じじゃない?」
前川先輩の声が震える。
「『洞窟へ辿り着く前に嫌気が差して引き返す』って……」
グリナが息を呑む。
「……これが、その原因?」
「分からない」
勇雄が答える。
「だが、ただの噂ではなさそうだ」
理人が剣へ手を添えた。
「俺たちに同じ症状が出てる以上、偶然とは考えにくい」
「じゃあ……」
ミカが森の奥を見る。
「この先に、何かいるんですね」
「ああ」
勇雄は頷いた。
「そう思って進もう」
♢
慎重に歩みを進める。
誰も余計な言葉を口にしなくなっていた。
足音だけが、湿った土の上へ小さく響く。
その時。
木々の隙間を、何かが横切った。
「……!」
グリナが足を止める。
「今、何か動かなかった!?」
「いたな」
理人が森の奥へ目を向けた。
「……狐?」
ほんの一瞬だった。
狐に似た、しなやかな体躯。
しかし、焦点を合わせようとした瞬間には、もう姿がない。
「どこへ行ったの?」
前川先輩が周囲を見る。
「分からない」
勇雄も視線を巡らせる。
「一匹じゃない」
「え?」
「……いる」
理人が声を低くして言った。
勇雄の前方でも、別の影が揺らめいた。
右。
左。
さらに奥。
一匹ではない。
「囲まれてる?」
ミカが杖を握り直す。
「まだ距離はある」
理人が答える。
「でも、数が多い」
それでも、殺気はない。
襲いかかってくる気配もない。
ただ、こちらを見ている。
その事実だけが、妙に不気味だった。
♢
さらに数歩進んだ。
そこで、五人は同時に足を止めた。
暗い森の中から、無数の視線が降り注いでいた。
茂みの陰。
太い木の幹の脇。
倒木の上。
暗がりの奥。
そこに━━
ぽつり。
金色の光が浮かび上がった。
一つ。
二つ。
三つ。
さらに増える。
十。
二十。
その光が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「……何、あれ」
前川先輩の声が震えた。
木漏れ日の中へ、最初の一匹が姿を現す。
狐に酷似した魔物だった。
しなやかで華奢な身体。
細い四肢。
そして━━
顔の半分を占めるほど巨大な両目。
金色の眼球が、一切揺らぐことなく五人を見つめている。
「……気味が悪い……」
前川先輩が息を呑む。
「こんな魔物……図鑑でも見たことないよ……」
グリナの声も引きつっていた。
「狐の魔物?」
ミカが小さく言う。
「魔物なのに……敵意が感じられない」
「敵なの?」
前川先輩の問いに、誰も答えられなかった。
「やはり、支配系の魔物か……」
理人の小さな呟きは、誰にも聞こえなかった。
幻影狐たちは襲ってこない。
ただ、道を塞ぐように立っている。
その視線だけが、五人から一度も離れない。
やがて、一匹がゆっくりと首を傾けた。
コテン。
その直後。
周囲にいた十数匹が、まったく同じ角度へ首を傾けた。
タイミングすら寸分違わない。
「……」
誰も言葉を発せなかった。
その光景は、生き物の群れというより━━
何か一つの意思が、何十もの身体を同時に動かしているようだった。
グリナが小さく後ずさる。
「……あれ、本当に魔物?」
「分からない」
勇雄は長剣の柄へ手を添えた。
「でも、邪魔をするなら……倒すのみ」
理人も腰の剣へ手をかける。
「だな!」
前川先輩がすぐにクロスボウを構えた。
「後ろは私が見る」
「お願いします」
ミカが長杖へ魔力を集める。
グリナも震える手で指揮棒を握りしめた。
「……怖いけど」
グリナが唇を引き結ぶ。
「逃げたくは、ない」
「無理すんなよ」
理人がグリナを一瞥する。
「危険なら遠慮せず、下がれ」
「うん!」
幻影狐たちが、同時に身体を低くした。
次の瞬間。
群れが、一斉に前へ踏み出した。
一歩。
ただ、それだけ。
しかし、無数の巨大な金色の瞳が、五人を一斉に捉えた。
前川先輩の指が、クロスボウの引き金へかかる。
「……来るよッ!」
第55話を読んで頂きありがとうございます。
幻影狐の登場如何でしょうか。「コテン」と全員が同じ動きをする不気味さを現しました。
次回は幻影狐戦です。お楽しみ下さい。




