第44話 深夜の宿営地
馬車隊の宿営地は、しんと静まり返っていた。
大型テントの周囲には人の気配もほとんどなく、中にいる三人の規則正しい寝息だけが、風に乗ってかすかに届いてくる。
春の夜風は凍えるほどではないものの、肌に触れる空気はわずかに冷たい。
遠くで馬がぶるりと鼻を鳴らす。
夜番の護衛が足音を殺して草を踏みしめる音が、静寂をより際立たせていた。
「……どうした?」
勇雄が尋ねる。
しかし、ミカはすぐには答えなかった。
地面へ視線を落とし、燃え尽きた薪を眺めている。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。
「火、少しだけ入れない?」
勇雄は黙って頷いた。
二人は周囲に落ちている枝や薪を拾い集め、残った黒炭の上へくべる。
火をつけると、小さなパチパチという音とともに、オレンジ色の温かな炎が揺らめき始めた。
勇雄は前川先輩が作ってくれたハーブティーの入った鍋を火の脇へ寄せ、温め直す。
その間、二人の間に会話はなかった。
勇雄は、ミカがただの世間話ではなく、何か深い話をするために自分を呼んだのだと察していた。
やがて、ハーブティーから湯気が立ち上る。
勇雄は二つのコップへ注ぎ、一つをミカへ手渡した。
ミカは両手でコップを包み込み、そっと口をつける。
「……熱くて飲めないや」
「少し置けば冷める」
勇雄も自分のコップへ口をつけ、喉を鳴らした。
温かな液体が身体へ落ちていき、張り詰めていた空気がほんの少しだけ解けていく。
勇雄は周囲の気配を窺った。
護衛の足音が遠ざかったのを確認すると、ミカがふっと息を吐く。
そして、口にした言葉が、日本語でもこの世界の言葉でもない「秘密言語」へと切り替わった。
「ここから先は、二人だけの話」
その音の響きだけで、周囲から切り離されたような感覚に陥る。
勇雄も自然に秘密言語で返した。
「ああ。白いアヒルの神━━ツルが言っていたな。神でも解読が難しいから、聞かれたくない話はこの言葉を使え、と」
「そうなんだ。他には何か言ってた?」
「あと、あのツルもこの言語を使っていた。間違いなく何か知っているはずだ」
ミカは安心したように、小さく笑った。
「そっか……何を知っているんだろうね」
その笑みの裏に、勇雄は微かな違和感を覚えた。
神ですら解読できない言語を、自分たちはこれほど滑らかに使いこなしている。
いつか、その理由を知ることになる。
そんな予感だけが、胸の奥に残った。
「それと……ツルから前川先輩のことを聞いた」
勇雄が切り出す。
「あの先輩はツルと契約していた。内容は『身の安全の保証』と引き換えに、俺たちのグループへ入ること。ツルからの接触は基本的にないが、緊急時には憑依してもらう手筈になっているらしい」
「やっぱり……」
ミカは小さく息を吐いた。
「転移四日目の朝食前に、急に『仲間に加わりたい』と言われたから、変だと思ってたの。でも、あの時の麗奈先輩が孤立していたのは本当だったし……私はただ、助けてあげたかった」
「分かってる。君の優しさを疑っちゃいない」
勇雄は一度言葉を切る。
「……君の方で、何か他に気づいたことはあったか?」
ミカは少し考え込んだあと、首を振った。
「先輩に関しては特に……。でも━━」
ミカは勇雄を正面から見つめ直した。
「……勇雄くん、ツルと何か取引したでしょ?」
「っ……なぜ分かる」
勇雄の動揺を見て、ミカは悪戯っぽく微笑んだ。
「神様が理由もなく、そんな情報をタダで教えるはずがないもの。……何を取引したの?」
「……ツルが提示する情報を、最後まで聞くことだ」
勇雄は観念して明かした。
「ただ、条件を一つ付け足した。『嘘をつかないこと。一度でも破れば、二度と話を聞かない』とな」
「えっ、話を聞くだけ? うーん……神様の考えることは、よく分からないね」
「もう、この話はいいだろ」
勇雄が強引に話を切り上げようとすると、ミカの目が鋭くなった。
「勇雄くん、私に何か隠してない?」
「……」
「急に話を終わらせようとするのは、隠し事がある証拠だよ」
「うっ……」
「私には分かるよ。長年一緒にいるからね」
「まだ出会って五日目だろ」
勇雄のツッコミを軽く受け流し、ミカは顎に手を当てて考え始めた。
「勇雄くんが提示した条件が、それだけなんてあり得ない。『麗奈先輩の安全』から考えて……うーん、勇雄くんなら私の方を優先するかな……。でも、『私、ミカの身の安全』ではなさそう……」
ミカはしばらく考え込む。
そして、何かに気づいたように勇雄を指差した。
「『ツルは私、ミカに手を出さない。利用もしない』……でしょう? どう?」
図星を突かれ、勇雄はぐうの音も出ずに頷いた。
ミカは嬉しそうに小さくガッツポーズを作り、花がほころぶように笑った。
♢
「今日の訓練についてだけど……」
ミカが空気を戻すように切り出した。
「私、五人でやってよかったと思う」
勇雄は素直な思いを口にした。
「……俺は、一人の方が楽だった」
ミカはくすっと笑った。
「そう言うと思った」
「事実だ。一人なら余計な気遣いも要らない」
「でも、五人だから見えたものもあったでしょ?」
ミカの口調は、教訓を押し付けるようなものではなかった。
「誰かを守ることとか、誰かに任せることとか……自分一人じゃ届かない場所を、他の人に託すこととか」
勇雄は完全には納得しきれない様子で、ハーブティーの表面を見つめた。
「……まあ、全く意味がなかったとは言わないが」
それだけで、ミカの表情がぱっと華やいだ。
「ふふ、なら良かった」
しかし、勇雄の胸の澱は消えていなかった。
「……やっぱり、俺は一人で戦った方がいいのかもしれない」
勇雄は低く言った。
「俺の戦闘力は異常だ。他の仲間を守りながら戦うのは、無駄が多い。それなら最初から、俺が一人で全ての敵を叩き潰すのが一番合理的だ」
ミカは、すぐには否定しなかった。
薪が爆ぜる音を聞きながら、静かに首を横に振る。
「……私は嫌だな」
勇雄が視線を向ける。
ミカの瞳には、揺らめく炎が映っていた。
「勇雄くんが一人で全部背負うの。……いつか限界が来て、無理が生じた時はどうするの?」
「……」
勇雄は反論できなかった。
一人になれば、傷の治療もできない。
広い視野での索敵も、荷物の管理も、毎日の食事の用意も、冷静な状況判断の補佐もなくなる。
自分一人の力だけでは、戦闘以外の部分でいずれ限界が来る。
そのことを、今日の訓練で勇雄自身も理解していた。
ミカは柔らかく微笑んだ。
「ほらね。訓練は無駄じゃなかったでしょ? だから、全部一人で背負わなくてもいいんだよ」
♢
言葉に詰まった勇雄は、話を切り替えるように言った。
「……古賀のことだが」
ミカの表情が、すっと引き締まった。
「……あの人、やっぱり変だと思う」
「ああ。君もそう思うか」
二人は、互いに感じていた異質さを確認するように言葉を重ねた。
「洞窟探索への同行を決めるまでが早すぎた」
ミカが言う。
「初対面からの距離の詰め方もおかしいし、神眼鏡の扱いにも妙に慣れてる……今日のVR訓練の動きだって、明らかに異常だった。それに、熊と戦っている時は、なんだか様子が変わってた……ともかく、あの人は注意したほうがいい」
勇雄も同意する。
「強さの質がおかしい」
勇雄は上を方を少し向いて続けた。
「俺の知っているあいつに似てはいるが……時折、何かを全て知っているかのような反応をする。……それに、グリナを異常に気にしている」
「うんうん。古賀くんの加護……『道標』だっけ?」
ミカが考え込む。
「洞窟の場所が正確に分かるっていうのも、本当なら都合が良すぎるよね」
二人は理人への警戒を共有していた。
それでも、ミカは追放を望んではいなかった。
「でも、グリナさんがいる限り、あの人は簡単にはおかしな動きをしないと思う。……無茶はできないはず」
「……あいつの弱点だな」
勇雄も頷く。
「うん。古賀くんとグリナさんに何かあると感じたから、麗奈先輩を勧誘する時、利用させてもらっちゃった」
ミカは少し申し訳なさそうに続ける。
「あの人、最初は反対していたのに、『グリナ』の名前を出した瞬間に簡単に折れちゃったし……あの二人……絶対、何かあるよ」
二人の間で、一つの認識が固まった。
━━古賀理人は危険だ。
だが、今は必要な戦力でもある。
「……そろそろ遅いし、寝ようか」
ミカが立ち上がろうとする。
勇雄は呼び止めた。
「話したいことは、それだけか?」
ミカは立ち止まり、静かに頷いた。
薪の火は、まだ静かに灯り続けている。
勇雄が手に持ったコップのハーブティーも、まだほんのりと温かかった。
♢
テントへ向かって歩き出したミカの背中に、勇雄は問いかけた。
「……ミカ、神眼鏡に慣れすぎてないか?」
ミカの足が、ピタリと止まった。
振り返ったその表情には、複雑な葛藤が滲んでいた。
どこか決心したような、けれど寂しげな瞳。
「最初に使った時から、まるで扱いを知っているようだった」
ミカは否定しなかった。
そのまま勇雄へ近づき、隣に腰掛ける。
「……前に、使ったことがあるから」
「どこで?」
ミカは口を閉ざした。
薪の音だけが静かに響く。
重く、長い沈黙が流れた。
「……話せない」
勇雄は、それ以上追及しなかった。
ただ、ミカの言葉を待つ姿勢を変えない。
それを見て、ミカが小さく口を開いた。
「……でも、私が普通の転移者じゃないってこと、もう分かってるよね?」
勇雄はしばし沈黙したあと、静かに答えた。
「……ああ」
ミカは胸を撫で下ろすように、小さく息を吐いた。
「俺のいた世界には、あんなものはなかった」
勇雄は自分の記憶を辿る。
「少なくとも、俺が知っている時代にはな」
ミカは、その言葉を噛み締めるように聞いていた。
そして、「時代」という言葉の響きに、決定的な違いを感じ取っていた。
沈黙を破り、ミカが弱々しい声で言った。
「この世界に残るっていう選択肢……覚えてる?」
勇雄は一瞬、首を傾げた。
だが、すぐに理解した。
「魔王討伐の報酬の?」
「うん」
「好きな星を選んで移住できるってやつか。転移初日に神━━シグナルドが皆に話していたが……」
「……もし、選べるなら━━」
ミカは、そこで言葉を区切った。
それ以上は何も言わなかった。
だが、勇雄は彼女が何か重大な決意を胸に秘めていることだけは察した。
♢
夜の冷気が、二人の間を埋めるように忍び寄る。
時間だけが静かに過ぎていく。
ミカがすっと手を伸ばし、勇雄の服の袖をぎゅっと掴んだ。
そのまま吸い寄せられるように距離を詰め、勇雄の胸元へそっと頭を預ける。
勇雄は驚きで身体を強張らせたが、突き放すことはしなかった。
「……今だけ、このままでいさせて」
消え入りそうな声だった。
勇雄は何も聞かず、ただその重みを受け止めた。
触れ合っているミカは、小刻みに震えている。
やがて、押し殺したような━━静かなすすり泣きが漏れてきた。
「……どうして、何にも聞いてくれないの……?」
ミカが勇雄の胸に顔を埋めたまま尋ねる。
勇雄は一瞬迷った末、彼女の背中にそっと手を回し、包み込むように抱き寄せた。
「私はね……あなたのことなら、いっぱい……いっぱい知ってるんだよ?」
ミカは溢れ出る涙を拭おうともせず、掠れた声で続けた。
「幼い頃にお母さんに出て行かれて……『でき損ない』って言われたことも知っている……親友に追いつきたくて、ずっと努力してきたことも……」
「……」
「あなたのその努力は……見れば嫌でも分かるの。今日の熊との戦いだって……ううん、最初のVR訓練であなたが剣を振るった……その一瞬から、血の滲むような技術と努力の結晶が詰まってた。誰もがそれを『チートだ』って笑っても……たとえ世界中の人がそう言ったって、私だけはあなたの苦労を信じる……っ!」
ミカは勇雄の左腕へ手を伸ばした。
先ほどVRで傷つき、今は何事もなかったかのように元へ戻っているその腕を、愛おしそうに撫でる。
「それに……あなたは誰よりも優しい。私なんかよりずっと……自分の身なんて顧みないで、いつだって私を守ろうとしてくれる……どうして……私なの? 私なんかより、守りたくなる子なんて……麗奈先輩だって、他の転移者だってたくさんいるのに……」
ミカは一呼吸置いた。
「どうして……」
ミカの瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。
「私のこと……本当は興味ないの……?」
「そんなわけない」
勇雄は迷うことなく、力強い声で即答した。
「じゃあ、お願いだから私のことを聞いてよ……っ! 私の本当の名前すら知らないでしょ!?」
ミカの声が震える。
「高校に行ってなくて、貧乏な家で仲のいい両親と暮らしてたこと! ……あなたが探している『望月美香』と顔が瓜二つだってことと、私の身体が何故か神であること以外」
ミカは嗚咽しながら、深く息を吸い込む。
「あなたは私について何も知らないでしょ!? あなたから聞いてくれたら、私……全部話せ━━」
極限まで張り詰めていた感情が、一気に爆発した。
だが、その言葉は最後まで続かなかった。
勇雄はミカの肩を軽く掴み、ゆっくりと引き離す。
そして、正面から彼女を見つめ返した。
彼女の瞳は涙で濡れ、鼻の頭を赤くして泣きじゃくっている。
「前に言ったろ。君が話したくなるまで待つ。……俺は、ミカを信用している」
「またその言葉……っ! 信用って何……!? 私たちが出会って、まだたったの五日だよ!? どうして……っ!?」
「期間なんて関係ない。俺は、ただ待つだけだ」
どこまでも愚直で、迷いのない言葉だった。
ミカは返す言葉を失い、ただ胸を大きく上下させながら涙を流し続ける。
夜風が静かに吹き抜け、小さくなった薪の炎が爆ぜた。
勇雄は意を決したように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……洞窟の調査が終わったら」
腕の中に残るミカの温もりを感じながら、勇雄は静かに語りかけた。
「君の話を聞かせてくれ。……もちろん、その時にまだ決心がつかなかったら、いつまでも待つ」
ミカは一瞬だけ躊躇うように目を揺らした。
やがて、勇雄のまっすぐな瞳に押されるように、小さく頷いた。
「……うん」
そして、涙に濡れた袖で目元を拭い、ぽつりと呟く。
「私……あなたの探している『望月美香』さんのことも気になってるの」
勇雄の目が、わずかに見開かれた。
望月美香の情報を得ること。
ミカの過去を解き明かすこと。
二つの目的が、これから向かう洞窟の暗闇の中で、一つに重なった瞬間だった。
やがて、焚き火はすっかり消え、白い灰だけになっていた。
「ハーブティー、冷えちゃったね」
ミカが冷めたハーブティーを口にし、呟いた。
「そうだな」
二人は顔を見合わせ、自然と苦笑いを漏らす。
「もう……寝ようか」
ミカが涙を拭い、微笑んだ。
二人は立ち上がり、テントの入り口へ向かった。
ミカは一度だけ足を止め、何かを言いたそうに勇雄を見つめた。
だが、結局、言葉にはしなかった。
そのまま、幕をくぐる。
少し間を置いて、勇雄も中へ入った。
仲間たちは静かな寝息を立てていた。
勇雄は自分の寝具に横たわり、天井の布地を見つめる。
胸の中にあった「一人で戦った方がいい」という冷徹な割り切りは、いつの間にか影を潜めていた。
一人で全てを背負う必要はないのかもしれない━━。
その考えが、温かな余韻となって胸に残る。
急速に、泥のような睡魔が押し寄せてきた。
普通の転移者ではないと言ったミカの横顔。
魔王討伐が終わった時、自分たちは別々の道を歩むことになるのかもしれない。
だが、彼女が言いかけた「もし選べるなら」の先の言葉が、どうしても頭から離れなかった。
疑問と確信、そしてかすかな予感を抱えたまま、勇雄は深い眠りへと落ちていった。
第44話を読んでいただきありがとうございます。
勇雄とミカの関係が更に近くなりました。
次は旅二日目です。お楽しみください。




