第39話 宿営地の夜
「━━断る」
勇雄は吐き捨てるように言い放つと、一歩を踏み出し、ツルに完全に背を向けた。
だが、ツルは焦る様子もなく、嘴の端を歪めたまま静かに言葉を続けた。
「前川麗奈さんとは、既に『お取り引き』を済ませていますよ」
ぴたりと、勇雄の足が止まった。
硬直した身体を、勇雄はゆっくりとツルのほうへ振り返らせた。
「……どういう意味だ」
「言葉通りの意味です」
ツルは淡々とした調子で秘密言語をつむぐ。
「前川麗奈さんとは、既に契約が成立しています」
「……内容を言え」
「私の話に耳を傾けてくださるのであれば、包み隠さず全てお話ししましょう」
勇雄は短く間を置いた。
この胡散臭い神の誘いを突っぱねる理由なら、いくらでもある。
……だが、前川先輩が既に関わっていると言うのなら話は別だ。
自分が知らぬ間に関係を断ち切った結果、前川先輩だけを危険に晒すことだけは、何としても避けなければならなかった。
「……聞こう」
「ありがとうございます。では、前川麗奈さんとの契約内容です」
ツルは軽く羽を羽ばたかせながら、淡々と条件を並べていった。
「一つ、前川麗奈の身の安全を保証すること。ただし、不可抗力による事故や病気など、避けようのない事態は除きます」
そこで一度、言葉を区切る。
「二つ、観測を目的として、あなた方のチームへ同行すること」
「三つ、必要な時に限り、私の『憑依』を認めてもらうこと」
「四つ、私からの不必要な接触は一切絶ち、緊急時にのみ直接干渉を行うこと」
「……以上か」
「以上です」
勇雄は提示された条件を脳内で素早く整理した。
一方的に何かを要求するような内容ではない。……少なくとも、ツルの目的が本当に勇雄たちの「観測」であるならば、筋は通っている。
「……その条件が事実なら、お前の話だけは聞いてやる」
「では次は、あなたへの『取引条件』です」
「言え」
「私の要望はたった一つ。」
ツルの嘴が、わずかに歪んだ。
「『これからは、私が提示する情報を、最後まで聞くこと』。……それだけです。聞かされた後で、どう判断するかは、完全に武藤勇雄さん、あなたに委ねます」
「それだけか?」
「ええ、それだけです」
ツルは少しだけ首を傾げた。
「原因が私にあることは重々承知していますが……今のあなたは、私が現れるだけで背を向けるでしょう?」
勇雄は返事をしなかった。図星だった。
ツルはどこか自嘲気味につぶやいた。
「これから、この世界で何かが起きようとしています」
ツルの声から、僅かに軽さが消える。
「神々が裏で何を企んでいるのか、私にすら全貌は掴めていません。……だからこそ、手遅れになる前に、あなた方に必要な情報を渡しておきたいのです」
「分かった」
勇雄は短く答えた。
「ただし、前川先輩の条件に二つ、追加させてもらう」
ツルは何も言わず、勇雄の言葉を待った。
「一つ、ミカの意思を無視して利用するな」
勇雄は言葉を強める。
「お前はミカについて何か知っているはずだ。これは念押しだ」
「二つ、俺に嘘をつくな」
勇雄の視線が鋭くなる。
「答えられない質問なら『黙秘』しろ。ただし理由があるなら、可能な範囲で説明しろ」
「……承諾しましょう」
「もう一つだ」
勇雄はさらに一歩踏み込み、ツルを真っ直ぐに見据えた。
「一度でも契約を破れば、その瞬間にこの取り決めは破棄される。俺はお前の言葉を二度と信用しないし、二度と話も聞かない」
ツルは小さな頭を傾げた、しばし思案するように沈黙した。
「……分かりました。それで結構です」
そしてツルは何気ない調子で勇雄に問いかけた。
「ところで……望月ミカさんの『身の安全の保証』は要求されないのですか?」
「ミカは俺が守る」
勇雄は即答した。
「神に命を預けるつもりはない」
「……実に人間らしい答えです」
「勘違いするな、俺はお前を一切信用していない」
「知っていますよ」
ツルは嘴を歪め、くつくつと可笑しそうに笑ったようにも見えた。
「信用していないからこそ、こうして『契約』を結ぶのでしょう?」
冷たい夜風が二人の間を吹き抜けていく。
握手すら交わさない、不気味な神と人間との、口約束。
それでも、言葉だけによる確かな契約が、ここに成立した。
♢
ツルはふっと視線を足元へ落とした。
「……最初の『神の居住区』の時は、本当に申し訳ありませんでした」
勇雄は何も返さなかった。
「あの時は状況が混乱しており、ほとんど説明もできなかった。その後の後手後手な対応も含めて、あなた方に強く警戒されても、言い訳はできません」
勇雄は責め立てることも、許すこともしなかった。ただ冷ややかに聞き流した。
「今のあなた方は、様々な『想定外』が交錯する中心点にいます。神々もあなた方を注視している」
ツルはそこで言葉を切った。
「……私としても、あなた方を見失うわけにはいかないのです」
「それが、お前が俺たちに接触してくる本当の理由か」
「……それについては、お話しできません」
「黙秘か」
「はい」
その声に拒絶の色はなかった。
ただ、どうしても話せない━━そんな切迫だけが、僅かに滲んでいた。
勇雄はそれ以上ツルへの追及をやめた。
「……この言葉はなんだ」
勇雄は秘密言語について問いただした。
「……それもお答えできません」
再びの黙秘。静かな間が流れる。
「ただ」
と、ツルは付け加えた。
「他の神々に聞かれたくない話なら、この言語をお使いになるといいでしょう。神々であっても、この言葉の解読は、ほぼ不可能ですから」
「……それだけは教えるのか」
「ええ、それだけです」
勇雄はそれ以上問いたださなかった。
「今夜、五人全員で『神眼鏡』をお使いになってはいかがですか?」
ツルが尋ねてきた。
「駄目だ」
「なぜです?」
「今夜全員で使うつもりはない。……他のメンバーにも無理に勧めはしない。他人の責任まで俺は負えないからだ。それに、ここが安全だとしても五人同時は危険すぎる」
ツルは少しの間、勇雄を見つめていたが、やがて小さく首を振った。
「分かりました。助言はいたしましたので、あとはあなたの判断に委ねます。私は契約に従いましょう」
ツルは去り際にふと思い出したように付け加えた。
「……ちなみにあの眼鏡は、現在のこの世界━━ワールの技術ではまず再現できません」
勇雄は黙って聞いている。
「ですが、神が直接作ったものでもありません。なので、恐ろしい『代償』のようなものは存在しません」ツルは続けた。「また、あなたが想像する以上に、安全性に優れた代物ですよ。」
勇雄は無言を貫いた。
ツルの言葉を鵜呑みにしたわけではない。ただ、ツルが今回はこれ以上深追いせず引き下がったことだけは理解した。
「……皆の判断に任せるだけだ」
それだけを告げると、ツルは身を翻して闇の中へ歩き出した。
「待て」
勇雄の声に、ツルは足を止め、振り向いた。
「……一つだけ答えろ」
「はい」
「お前は、俺たちの『敵』なのか?」
夜風が草木を静かに揺らした。
重苦しい沈黙が、二人の間に落ちる。
「━━“今は”、違います」
ツルはそれだけ言い残すと、再び歩みを進めた。
その白いシルエットは、夜の深い闇の中へ、滑り込むように消えていった。
♢
勇雄は一人、暗闇の中に残された。
契約は結ばれた。
だが、相手への不信感が拭えたわけではない。
頭の中で、先ほど交わした条項を何度も繰り返す。破れば即座に終わる契約。それだけは、何としてでも奴に守らせる。
「……契約は、必ず守らせる」
誰に聞かせるでもなく呟き、勇雄は宿営地の方角へと足を進めた。
信頼ではない。二人を結んでいるのは、ただの契約だけだった。
木立を抜けると、遠くに赤々と燃える焚き火の明かりが見えてきた。
こちらに気づいたミカが、どこか安心したように小さく手を振る。その周囲には、理人、前川先輩、そしてグリナが肩を寄せ合って焚き火にあたっていた。
勇雄は鞄の奥から神眼鏡を取り出すと、手の中でその不気味な白いフレームを静かに見つめた。
「……神眼鏡のこと、もう一度皆で話そう」
勇雄の言葉を受け、五人は再び焚き火を囲み直した。
♢
勇雄は手に持った神眼鏡の白いフレームに視線を落としたまま、静かに口を開いた。
「これを使うかどうか、まずは全員の意見を聞きたい」
最初に口を開いたのは前川先輩だった。
「━━私は、反対よ」
その声には一切の迷いがなかった。
「神という存在そのものが信用できない。それに、この眼鏡の危険性も未知数でしょう?」
前川先輩は神眼鏡を睨むように見つめた。
「 もし装着して二度と現実に戻ってこられなくなったら……そう考えるだけで、反対する理由としては十分よ」
続いて、理人が口を開く。
「俺も……どちらかと言えば反対寄りかな」
いつもの軽い口調ではあったが、その瞳には真剣な色が宿っている。
「相手が信用できるかどうか、俺たちには判断がつかない。不確定要素の塊である『神』との接触は、可能な限り避けるべきだ。俺の理由は、それだけだな」
「私は……賛成です」
ミカが静かに、しかしはっきりと言った。
「一度体験しましたが、危険性は極めて低いと感じました。それに、あの空間で指導を行ってくれる『四神』の方々は、信用できます」
「どうしてそこまで言い切れるの?」
前川先輩が鋭く問う。
「少なくとも私は、信用できると感じました。」
ミカの表情はいつも通り穏やかだった。しかしその瞳の奥には、揺るぎない確信の光が宿っていた。
「私も賛成!」
グリナが勢いよく手を上げた。
「本物の神様にまたお会いできるなら、私、絶対に行きたいです! それに実践的な訓練になるんでしょ? 強くならなきゃいけないんだから、行かない理由なんてありません!」
「危なくないの……本当に?」
「はい! 私が入った時も、ちゃんとこうして無事に戻ってこられましたから」
「それはそうなんだけど……」
前川先輩の眉根が寄る。
「俺は……使うこと自体には賛成だ」
最後に勇雄が口を開いた。
「ただし、安全の確認だけは最後まで徹底して行う。それが前提だ」
「賛成三、反対二……か」理人が呟いた。
♢
パチパチと爆ぜる焚き火の音だけが、沈黙の間に響く。
「ディーヌ洞窟へ到着するまで、もう時間がありません」
ミカが前川先輩を真っ直ぐに見つめて言った。
「四神から直接指導を受けるべきです。……あれは、間違いなく私たちの糧になる訓練です」
「でも……」
「私が保証します」ミカは言葉を重ねた。「あの神々━━四神は信頼できる存在です」
前川先輩は息を呑み、ミカの顔を見つめ返した。
ミカの口調には一切の揺らぎがない。己の目で確かめ、実際に経験してきた者だけが持つ、確信を秘めた目だった。
「この世界では……神様が存在すること自体は、疑いようのない事実なんだよね。実際にあった人はごく限られた人なんだけど……」
グリナが静かに言葉を添えた。
「それだけで十分じゃないですか。本物の神様に直接教えてもらえる機会なんて、普通に生きていたら絶対にあり得ないことです」
前川先輩は、ハァと小さなため息をつく。頑なだった表情がほんの少しだけ緩めた。
「……分かったわよ。そこまで言われたら……確かに、転移者だから神様に簡単に会えるけど、普通は絶対に会えないものね。」
理人も短く頷いた。
「……そこまで言うなら、俺も異論はないよ」
♢
「決まりだな。なら、三人と二人に分けよう」
勇雄が提案した。
「現実世界での見張りが必要だ。万が一の事態に備えてだ。全員同時に意識を飛ばしたら、外で何かあった時に誰も対応できない」
勇雄は自分の考えを全員に伝えた。そして、同意を求めるようにミカへ視線を向ける。
だが━━。
「いいえ、違います」
ミカが静かに首を横に振った。
その声には、普段の柔らかさはない。どこか厳格で、一切の否定を許さない重みがこもっていた。
「連携って、後から合わせるものじゃありません」
ミカは全員を見渡した。
「個々の力がどれほど高くても、最初から全員で息を合わせておかないと本番では間に合わないんです。実戦になってから慌てて合わせようとしても、それでは遅すぎるます」
焚き火が爆ぜた。
乾いた音だけが、重苦しく空気の中に響く。
誰も、ミカの言葉に反論できなかった。
━━ミカは……何かを知っている
勇雄は感覚的にそう悟った。ミカの言葉には、不思議な説得力があった。
思いつきではない。
そう思わせるだけの重みがあった。まるで、自ら経験したものだけが口にできる言葉だった。
勇雄は反論の余地は、まだある。
それでも、勇雄は、ミカのその真剣な眼差しに、言葉を失っていた。
勇雄は胸の奥に小さな違和感だけが残っていた。
「……多数決で決めよう」勇雄は仕切り直した。「五人同時に使うか、分けるかだ」
「五人同時での訓練に、賛成」
ミカが迷いなく手を上げた。グリナがそれに続く。
「……五人同時には反対」
勇雄が手を上げた。前川先輩も不安げに手を挙げる。
━━二対二。
全員の視線が、最後に残った一人━━理人へと集中した。
理人だった。
理人は無言のまま、しばらくじっと考えていた。
その瞳の焦点は定まっていない。自らの中にある論理を静かに整理しているようだった。
やがて、理人は顔を上げた。
「━━五人同時でいこう」
「理由は?」勇雄が問う。
「望月さんの言う通りだからだ。俺たちの課題は連携だ。」
理人は全員の顔を一人ずつ見回した。
「それと……もし危険だったら、俺は神眼鏡の使用を二度と提案しない。今後一切、俺自身も神眼鏡を使わない。それを条件にしてくれ」
静寂が走った。
相変わらず、ひょうひょうとした調子で口にしていた。だが、その背後にある腹の括り方、覚悟だけは、間違いなく本物だった。
勇雄は全員の顔を見渡した。
ミカとグリナは迷いなく頷いた。
前川先輩はまだ不安そうだったが、もう反対する素振りは見せなかった。
勇雄は深く息を吐いた。
「……分かった。五人同時でやろう」
勇雄は立ち上がり、焚き火に土をかぶせて火を消した。
♢
五人は宿営地の一角に張られた、大型の宿営用テントへと移動した。
兵士や身分の高い旅人向けに用意されたテント内は十分に広く、清潔な寝具が人数分整然と並べられていた。宿営地の管理者が配慮してくれたのだろう。中央には小さな魔力灯が一つ、淡い光を投げかけている。
「本当に……大丈夫なのよね?」
前川先輩が横になりながら、まだ少し固い声で尋ねる。
「私も最初はとても怖かったです」ミカが隣で優しく微笑んだ。「でも、大丈夫でしたから。安心して身を委ねてください」
ミカの落ち着いた声に引きずられるように、前川先輩の肩からようやく少しだけ力が抜けた。
「本格的な訓練の前に、一度だけ確認しておこう。」
横になった理人が不意に口を開いた。全員の視線が彼へ集まる。
「まずは四神のところへ確認しに行くんだ。見張りなしで五人同時に潜っても本当に安全なのかどうかをな」
理人は勇雄を見る。
「……武藤、一緒に来てくれ」
「責任を取るつもりか」勇雄が尋ねた。
「ああ」理人は短く笑った。
「分かった」
ミカが微笑み、前川先輩も小さく頷いた。
「二人とも、気をつけて行ってきてね!」グリナが手を振る。
勇雄と理人は寝具に横たわり、神眼鏡を手に取り、顔へ掛けた。
テントの天井を照らしていた魔力灯の淡い光が、急速に遠ざかっていく。
二人の視界は吸い込まれるように純白へ染まり、そのまま意識は静かに沈んでいった。
第39話を読んで頂きありがとうございます。
久々のツルとの会話?です。また、神眼鏡を五人で使う事を決めました。各々の考えを描きました。
次はVRでの訓練です。お楽しみ下さい。




