第37話 街道
馬車は一定の揺れを保ったまま、穏やかに街道を進んでいた。
車窓からはうららかな春風が吹き込み、車内の空気をやわらかく吹き抜けていく。
どこまでも続く小麦畑では、短い青葉の間を農民たちが鍬を手にして歩いていた。
遠くのゆるやかな丘では、白い羊の群れが散らばっている。
立ち並ぶ農家の石造りの家々の煙突から立ち上る灰色の煙が、春空へと溶けていっていた。
街道では、大きな荷物を載せた商人の馬車と何度かすれ違い、時には杖を手に一歩一歩確かめるように歩く老人や、旅衣に身を包んだ巡礼者の一団を追い抜いた。
♢
ガタゴトと揺れる車内で、ミカが手元の鞄に手を突っ込み、何かを探していた。汗を拭くためのハンカチでも探していたのだろう。
しかし、鞄の奥底を探っていたミカの手が、ピタリと止まった。
指先を動かし、奥からゆっくりと取り出されたもの━━それは、白いフレームで形作られた眼鏡の形をした「何か」だった。
それも、一つだけではない。三つ、重なるように入っていたのだ。
「勇雄君……これ」
勇雄はミカの手元に視線を落とした。
白アヒルの姿をした神━━ツルから渡された神眼鏡と、まったく同じものだった。
「……前川先輩の鞄の中に、入っていたのか?」
「ええ。……麗奈先輩、これ、知ってましたか?」
ミカが前川先輩へ視線を向ける。その眉が、わずかに警戒の色を帯びて寄っていた。
「いいえ……こんな眼鏡が入っている事は知らなかったわ」
前川先輩もまた、心当たりのない様子で首を横に振った。
勇雄は己の鞄を漁り、自分の所有していた神眼鏡を取り出し、ミカが取り出した三つと並べた。寸分たがわず同じ造形だった。
勇雄は上を向いた。
おそらくツルの仕業だろう。
隠したい訳ではないが、関わりは持ちたくなかった。だが、状況的に誤魔化すことはできなかった。
「……これについては、皆に説明がいるな」
勇雄は重い口を開いた。
「ええ、聞かせて」
前川先輩が真剣な眼差しで見つめ返してくる。
「ツルという神がいる。首が短く頭の大きい、白いアヒルの姿をした存在だ。」勇雄は低い声で続ける。「普段は人間の目には見えない。俺たち転移者の中から『何か』を探すために、監視しているらしい。」
勇雄は自分の眼鏡を手に持った。
「この眼鏡はそのツルから貰った。」
「……その神様が、麗奈先輩の鞄に忍ばせていたってこと?」
グリナが目を丸くして身を乗り出してきた。
「本当に、神様がいるんですか……?」
「いる」
「会ったことがあるの……?」
「あります」今度はミカが静かに答えた。「ツルだけではなく、あと二柱━━シグナルド様とエルクス様。その二柱は、厳格な男の姿をしていました」
「本当……!?」グリナの瞳が大きく見開かれた。「本当に、直接神様に会ったの!?」
勇雄とミカが同時に頷く。
「俺たち全員、神によってこの世界へ召喚された」
「貴方達は宮廷魔術師が召還したと聞かされてたので……知らなかった……!」
グリナは感嘆の声を漏らし、胸の前でキュッと手を握り締めた。
「私、幼い頃から『宝神教』を信仰しているんです。」グリナは真剣な表情で続けた。「天から私たちを常に見守ってくださっていると教えられてきましたけど……本当にいらっしゃるんですね。でも、アヒルの姿をした神様なんていうお話は、初めて聞きました」
「神という存在は、現れる場に応じて様々な姿を取るということ何でしょう」
ミカがなだめるように言った。
「それで、その眼鏡は何をするものなの?」
グリナが興味津々に尋ねる。
「訓練装置だ」勇雄が説明を継いだ。「装着すると意識が仮想空間へ引き込まれる。そこでは時間が引き延ばされて実践的な戦闘訓練ができる。」
「……なんだか、ずいぶんと胡散臭い話ね」
前川先輩が眉をひそめる。
「確かに怪しいな」勇雄も同意した。「だが、実際に訓練になることだけは確認済みだ」
「誰が訓練をつけてくれるの?」
グリナが目を輝かせる。
「『四神』と呼ばれるシステム上の存在だ。本人たちは意思の持たない神だと言っているが……正体は不明だ」
「本当なんですね!」グリナが思わず声を弾ませた。「そんな訓練まで用意されているなんて……」
「……まあ、そういうことになるな」
「私、やってみたい!」
グリナは待ちきれないといった様子で、テーブルに置かれた神眼鏡の一つをひょいと手に取った。
「待て、グリナ。まだ安全かどうか、わからない!」
勇雄が制止の声をかける。
「試すだけですから!」
グリナは、すばやく眼鏡を自らの顔に装着した。
━━しかし、何も起きなかった。
「あ……『転移者の許可が必要です』って、視界の隅に小さく文字が出ました……」
グリナはガックリと肩を落とし、がっかりとした顔で眼鏡を外した。
ミカが小さなため息をつき、鞄から出した自らの神眼鏡を手にとった。
「とりあえず、本当に起動するかどうかだけ、安全を確認しましょう」
ミカは己の眼鏡を装着すると、グリナの手にある眼鏡と接触させて同期の操作を行った。
次の瞬間━━ふっと二人の身体から力が抜け、意識が落ちた。
勇雄は素早く手を伸ばし、崩れ落ちそうになったミカの肩をしっかりと受け止めた。
隣では前川先輩が腕を組み、怪訝そうに事の成り行きを見守っている。
理人は無言のまま、静かにグリナの横顔を見ていたが、その表情には一切の動揺はないようだった。
ほんの数秒の後。
二人はほぼ同時に目を開いた。
「━━本当に神様でした……! 神の体に触れると時が止まったようになるんです!!」
グリナが叫ぶように言った。その目には、感動のあまり大きな涙粒が溜まっている。
「姉貴神様が優しく迎えて下さって……私感動してしまいました……!」
「グリナさん、神様に会えたのが嬉しくて、あちらで凄く興奮しちゃってました」
ミカが、どこか穏やかな苦笑いを浮かべながら勇雄の腕の中から体を起こした。
「私はまだ信用できないわ」前川先輩が容赦なく言い放った。「普通に考えて、こんな眼鏡で意識が飛ぶなんて、おかしいでしょ」
理人がポン、とグリナの肩を軽くなだめるように叩いた。
「まあ落ち着けよ」
「うん……」グリナは袖で目元の涙をゴシゴシと拭った。「でも……本当に凄かったんだから」
「……この眼鏡をどうするかは、今夜、改めて検討する」
勇雄は全員に聞こえるように声を張り上げた。
「今はひとまず保留だ」
全員が静かに頷き、神眼鏡は話し合った結果、再び前川先輩の鞄の中へと収められた。
♢
その後も、のどかな田園風景がしばらく続いていた。
ふと見ると、馬車のすぐ脇を歩いていた護衛が、静かに並走しながらこちらへ近づいてきていた。
勇雄は窓越しに彼へと声をかけた。
「さっきは、色々と教えていただきありがとうございました」
「ああ」男は短く応じた。
「おかげで……自分の剣について、少しだけ掴めた気がします」
「……そうか」
男の返答は素っ気ないものだった。
だが、その瞳の奥に、ほんのわずかな色の変化が宿るのを勇雄は見逃さなかった。
「……そう言えば、まだお名前を聞いていませんでしたね」
「ゼインだ」男は前を見据えたまま答えた。「元近衛第一隊だ。バーン王直属だった。」
「武藤勇雄です」
二人の間に、静かな一拍の間が流れる。
「この道はな」
ゼインがぽつりと口を開いた。
「つい先週まで、前線へ兵も物資も運んでいた道だ。亡くなられたバーン王陛下も、何度もこの道を馬で駆け抜けていかれた」
客車の中が、しんと静まり返った。
「……バーン王様は、最後まで前線におられたのですか?」
理人が、少し覚えたてのぎこちないワール語で尋ねた。片言ではあったが、その意味は通じていた。
ゼインは重く頷いた。
「聞いた話だが、王は最期まで最前線を離れようとはしなかったそうだ。」
ゼインは遠くの方を見た。
「全軍に『退却せよ』との命令だけを出し、ご自身はしんがりとしてその場に残られたのだ。護衛隊も王命で退去させられた……それが、王の最期となった。」
誰も、言葉を挟むことができなかった。
「その後、援軍が到着し戦況を巻き返して、前線を上げることができたが……そこに王の姿はなかったと聞いた」
ゼインの口調には、自慢するような誇り高さも、過去を悼むような過剰な悲哀もなかった。
ただ、動かすことのできない歴史の事実として、淡々とその言葉を紡いでいた。
♢
それからしばらく走った頃。
馬車のスピードが徐々に落ち、御者が静かに馬の手綱を引いた。
鞭の音すら立てず、低い声だけで馬たちを優しく落ち着かせる。
馬車が完全に停車した。
車内の旅人たちが、誰に指示されたわけでもなく、静かに外へと降り始めた。
言葉など必要なかった。
この場所が何を意味するのか、皆が感覚で理解していたからだ。
帽子を脱いで胸に抱く者。深く目を閉じる老人。
幼い子供は母親の真似をして、小さな手をつなぎ合わせてじっと突っ立っていた。
勇雄たちも周囲に倣って馬車を降り、その地に足を降ろした。
そこは、見渡す限りの開けた草原だった。
だが、青々と茂る草むらの隙間に、異様な「それら」は無数に転がっていた。
半ばからへし折れた木製の槍。刃が大きく欠けた鉄の剣。
半分に砕け散った、紋様の判別もつかない盾。
地面が抉られたような焦げた後。
どれもが、戦いが終わったあの日のままの姿で、風雨に晒されて放置されていた。
一人の老人が、足元から小さな小石を一つ拾い上げ、地面にそっと積んだ。
連れの女性が、硬いパンを指先で細かくちぎり、石の傍らに供える。誰一人として、音を立てる者はいない。
「……なぜ、片付けないんだ?」
勇雄は隣に立つゼインに、声をひそめて尋ねた。
「━━持ち主が、まだ帰ってきていないからだ」
ゼインの短い答えに、勇雄は思わず首を傾げた。
「宝神教の教えではね。全てのものに創造神が宿っているの」
グリナが祈るように手を重ねながら、ささやくような小声で教えてくれた。
「人は命を落とすと、その魂は創造神様のもとへ向かうの。そして自らの人生のすべてを報告するって教わるの。そこで評価されれば、次は神様の一員となって、残された私たちを見守る存在になる。だから……彼らはまだ『旅の途中』なのよ。魂がいつかここへ帰ってきた時に、自分たちの愛用していた物がないと困るでしょう?」
「勝手に持ち去ることは、その者の旅路を踏みにじることに等しい。」ゼインが付け加えた。「遺族か、あるいは生前の仲間が迎えに来るその日まで、遺品はこうしてこの地に残されるのだ」
グリナは足元から小石を拾い上げると、そっと地面に積み重ねた。
「ここには、バーン王様も眠っていらっしゃる。……名もなき兵士さんたちも、たくさん眠っているの。だから、全員のために祈るの」
勇雄の隣でミカが胸の前で小さな手をギュッと握り締めていた。ミカは見様見真似で祈っていた。
だが、次の瞬間彼女の体がビクッと小さく跳ね、そのまま頭を抱え込むよう膝を折った。
「……っ」
「ミカ!? 大丈夫か?」
慌てて肩を支える勇雄の手の上で、ミカは青ざめた顔を震わせながら、途切れ途切れに息を吐く。
「……ええ、もう大丈夫です。ちょっと頭痛がしただけです。」
「そうか……絶対に無理はするなよ!」
「ふふ、ありがとう」
そう言うとミカは一人で立ち上がった。勇雄は肩に力を入れ、ミカにいつでも手を貸せるように寄り添った。
勇雄は心配そうにミカを見つめていた。
しかし当の本人は「本当に大丈夫」と笑ってみせた。
勇雄が戦場跡を見渡すと、遠くの小高い丘の上に、無数の素朴な木製の墓標が立ち並んでいるのが見えた。
誰かが先ほど供えたパンの破片を目がけて、空から一羽の小鳥が舞い降りてきた。
鳥は静かにパンをついばみ始めたが、周囲の誰一人としてそれを追い払おうとはしなかった。まるで、それもまた創造神の意思であるかのように。
そこにあったのは静寂だった。吹き抜ける春風の音だけが、草木を揺らしている。
♢
やがて祈りが終わり、旅人たちは静かに元の馬車へと戻っていった。
御者が馬へ優しく声をかけ、車輪が再びゆっくりと回転を始める。
戦火の痕跡を残した原野が、次第に後方へと遠ざかっていく。
勇雄は車窓から、遠ざかる景色をいつまでもじっと見つめていた。
見渡す限りの墓標の群れが小さくなり、草むらに残された錆びた武器たちが視界から消えていく。
脳裏に、あの先輩神の言葉が唐突に蘇っていた。
━━この旅の終わりに……お前は何を見たい?
あの時、勇雄は答えることができなかった。
そして今もなお、答えは見えない。
だが━━ほんの少しだけ、自分の中で何かが変わりつつあった。
見たいものの姿がはっきりと分かってから歩き出すのではなく、ただひたすらに前を見続け、歩み続ける中でしか、見えてこない答えもあるのかもしれない。
自らの試練━━旅は、まだ終わってはいないのだという、実感だけは、胸の奥に宿っていた。
馬車はガタゴトと音を立てながら、どこまでも続く一本の街道を、ひたすらに突き進んでいった。
第37話を読んでいただきありがとうございます。
神眼鏡の発見からの世界観、死生観を表現しました。また、勇雄が先輩神の問いへの答えの一つを書きました。まだ答えは出ていないですが、勇雄の成長を見てください。
次は旅の宿や夕食の場面です。お楽しみください。




