第35話 宿場村での休憩
それは、馬車の護衛の男だった。
元近衛隊の精鋭━━頬に深い刃傷を持つその男の顔が、昼の乾いた陽光の下でくっきりと浮き彫りになっていた。男は少し離れた場所でがっしりと腕を組み、ただ静かに、勇雄の素振りを眺めていた。腰の鉄剣は、長年使い込まれた誇りを物語っていた。
いつから見ていたのかは分からない。しかし、勇雄はその鋭い視線だけは、肌で敏感に察知していた。
二人の間に、風の音が吹き抜けた。
やがて、男が低く重みのある声でゆっくりと口を開いた。
「……毎日、欠かさず振ってきた剣だな。実に目を見張る見事な剣筋だ」
勇雄は剣を振り続けながら、黙って男の言葉に耳を傾けていた。
「基礎が染みついている……技術も申し分ない。おそらく、一介の護衛兵に過ぎん私が、貴方に教えられるようなことは何一つないだろう」
男は言葉を切った。
「……だが」
男は何かを続けようとして、その言葉の先を飲み込むように小さく首を振った。そして、再び無言で勇雄の素振りをじっと見つめ直す。
勇雄はたまらず、剣をその場に下ろして動きを止めた。
「……『だが』のその先には、何を言おうとしたんですか」
二人の間に重い沈黙が流れる。遠くの宿場村から、旅人たちの賑やかな喧騒がかすかに響いていた。男は観念したように息を吐き、勇雄を真っ直ぐに見据えた。
「気にするな。余計な雑音だ。そのまま、己の剣を磨き続ければいい。……では失礼する。」
男はそのまま踵を返し、去ろうとした。だが、勇雄はその背中に向かって、すがり付くように声を張り上げた。
「お願いします。……教えてください」
男の足が止まった。ゆっくりと振り返ったその瞳が、勇雄の目を射抜く。
「━━貴方の剣には、『覚悟』が見えない」
勇雄は小さく息を呑み、聞き返した。
「……どういう意味、ですか」
「言葉通りの意味だ。分からないか?」
「わかりません」
男は自らの腰に下がった剣の柄へ、ごく自然に、そっと手を乗せた。決して剣を抜こうとはしない。ただ、その重みを確かめるように触れているだけだった。
「勝つためか」男の静かな声が響く。「誰かを守るためか。それとも、ただ自分が生き残るためか。━━何のために振る剣なのか、その『芯』がまるで見えてこない……」
「……!」
「芯がないから、私には貴方の剣が、酷く迷っているように見える」
勇雄は何も言えなかった。
反論する言葉を絞りだそうとしても出てこない。否定したかったが、身体は反論を許さないように硬直していた。なぜなら男の指摘は、昨夜、師匠神に突きつけられたあの問いと、全く同じ急所を射抜いていたからだ。
男はそれ以上、何も言わなかった。
今度こそ完全に踵を返し、村の方へと歩き出す。勇雄はその広い後ろ姿に向かって、深く、深く一礼した。
「……ご指導、ありがとうございました」
男は振り返らなかった。ただ、分かったと言わんばかりに無骨な右手を大きく一度だけ掲げた。遠ざかっていく足音。きっと、午後からの護衛の仕度に戻るのだろう。
勇雄は鉄剣を握り締めたまま、その場に立ち尽くしていた。
柔らかな草が、風に吹かれてさわさわと揺れる。遠くの水場から、馬のいななきが聞こえた。
━━何のために、剣を振っているのか。
やはり、どこを探しても答えはなかった。
♢
背後から、先ほどとは違う軽い足音が近づいてきた。
ミカだった。
彼女は少しだけ息を弾ませていた。村の中から勇雄を探して、急いで歩いてきたようだった。
「ここにいたんだね」
ミカが、周囲に配慮するように『秘密言語』で話しかけてきた。
「ああ。……探させてしまったか?」
勇雄もまた、同じ言葉で返す。
ミカは首を静かに横に振った。気づけば周囲には人の気配がなく、二人きりの空間だった。
ミカは勇雄に対して、丁寧な敬語を外して話すようになっていた。勇雄はその微細な変化に気づいていたが、あえて言葉にすることはしなかった。
「何か、考えてたの?」
「少しな」
「さっき、護衛の人と何かお話ししてた? 私、見てたよ」
「見られていたか……」
「遠くからだけどね。……何か、言われた?」
「……『覚悟』が見えない、とさ」
ミカは少し眉をひそめ、何かを思い巡らせるように視線を落とした。
「……剣の、お話?」
「そういう話だ。実は昨日、師匠神からも同じようなことを言われたんだ。『何故お前は強くなるのか』って」
「……」
「情けないけど、未だにその答えを出せずにいる」
「そっか。私、剣のことは詳しくないから、よくわからない。その『覚悟』っていうのがどういうものなのかも」
ミカが一歩歩み寄り、勇雄のすぐ隣に並んだ。
「でもね、勇雄君が誰よりも一生懸命なことだけは、私が一番よく知っているよ。私は、頑張っている勇雄君のことを、ずっと応援してる」
「ミカ……」
「だから、その答え、私も一緒に考えるね。二人で探せば、きっといつか分かるはずだから」
勇雄は何も言わず、ただ静かに頷いた。真っ直ぐに向けられるミカの視線が、不思議と心地よかった。その信頼に答えたいと自然と思った。
♢
━━その時だった。
ミカと話している最中、どこからともなく、背筋が粟立つような奇妙な「視線」を感じた。
「……待て。誰かが、俺たちの話を聞いている気がする」
「えっ……? 嘘、確かに……何か、変な気配がするわね」
「感知魔法を使う」
「私も、一緒に使うね!」
二人は同時に魔力を巡らせ、脳内に回路を構築して感知魔法を展開した。先輩神から教わったばかりの魔法だが、『遮るもののない開けた場所なら、まず見逃さない。』とお墨付きをもらっていたはずだった。……だが。
「……おかしいな。何の反応もない」
「私のほうも、何も引っかからないね……」
先輩神が以前言っていた、探知を無効化する『隠蔽魔法』の存在が脳裏をよぎる。しかし、そんな高等な技術はまだ教わっていないため、これ以上考えても埒が明かなかった。
♢
ミカは周囲への警戒を解かないまま、ふと何かを思い出したように勇雄へ問いかけた。
「ねえ、話は変わるんだけど……ディーヌ洞窟のこと、黒髪の神様から何か情報はもらっていないの?」
「いや。『調査』と、一言があっただけだ」
「それだけなの?」
「ああ、『特別試験』のあの時以来、一度も連絡は取っていない。加護を通じて『保留』とだけ意思を返してある」
「……私が、異変を起こしちゃった時のことだね」
ミカは小さな口元にそっと手を添え、少し不安げに眉を寄せた。
「でも、一応返事はしておいた方がいいと思うよ。向こうから何か有益な情報がもらえるかもしれないし、何より神様たちが何を考えているか分からないでしょう?」ミカは真剣な目で勇雄を見た。「黙って無視し続けてたら、後から何か面倒なことに巻き込まれるかもしれないし」
「確かにそうだな。ツルの奴も『加護の空打ちだけでも、通信は可能だ』と言っていた」
「……空打ちって、今までやったことあるの?」
「いや、一度もない。何が起こるかまでは分からないな」
「……前みたいに、あの砂漠の町にいた二人━━テルさんとコルディさんの意識のなかに、また飛ばされるのかな?」
「やってみないことには、何とも言えない……」
勇雄は思考を巡らせた。黒髪の神から与えられたあの『加護』には、未だに多くの謎がある。ただ、ミカの言うことは正論だった。神をあまり刺激しすぎるのも危険だ。今回は前回の時のように異変の無効化を行うわけではない。ただの「空打ち」による定時連絡だ。
「……よし。言われた通り、一度やってみる」
「うん、気をつけてね」
何が起こるかを予期してか、ミカは小さく身構えて、杖を構えた。
勇雄は自らの両目に意識を集中させる。脳の奥深くで、視覚そのものが切り替わるような、奇妙な感触が走る。魔力を静かに流し込んだ。
━━加護が、発動する。
しかし、周囲の景色には何の変化も起きなかった。神への通信には、それ相応の時間がかかるのだろうか。そう言えば、あの時も、すべてが終わった後に、ようやく黒髪の神からの通信が繋がったものだった。
「……どう? 何か来た?」ミカが顔を覗き込んでくる。
「いや、まだ何も━━」
「そっか……。あ、でもね、勇雄君が加護を発動させたとき、目の色が真っ青になってたよ」ミカが目を丸くする。「あの、砂漠にいたコルディさんみたいに……」
「え……? それは、どういう━━」
ミカにその詳細をさらに問い詰めようとした、まさにその瞬間。
視界が、強烈な闇によって一瞬で塗り潰された。
勇雄は直感的に理解した。特別試験の時、ミカの暴走を止めるために加護を使った時と全く同じ感覚。
━━加護を行使した時の代償だった。
緑豊かな景色が、音を立てて消え去っていく━━。
♢
次に視界が開けたとき、そこは驚くほど見慣れた、しかしここにあるはずのない広い空間だった。
綺麗に磨かれたフローリングの床。微かに鼻を突く、染み付いた防具の汗と革の匂い。壁際に整然と立てかけられた何本もの竹刀。
━━そこは、彼が通っていた中学校の剣道場だった。
気づけば、勇雄は竹刀を握り締めていた。前回の砂漠の記憶の時と同じだ。自らの意志では、指一本、声一つ出すことすらできない。ただ、前回と決定的に違っている点が一つだけあった。
この景色も、この状況も、勇雄は間違いなく知っている。これは他人の記憶などではない。自分自身の「過去の記憶」そのものだった。
目の前に、一人の少年が立っていた。
雰囲気が一瞬だけ、古賀理人に見えた。━━いや、違う。纏っている全体の雰囲気やたたずまいは酷く似ているが、その顔立ちは全くの別人だった。
小学校からの、かけがえのない親友━━塩野或人。
まだあどけなさの残る、中学時代の或人の顔だった。彼は防具を身につけたまま、じっとこちらを見つめている。いつものお調子者で軽い調子ではなく、その瞳は驚くほど落ち着いていて静かだった。
部活の練習試合が終わった直後なのだと、勇雄の記憶が告げていた。
勇雄は激しく息を切らしながら、剣道場の床に力なく座り込んでいた。
負けたのだ。最初から分かっていた。また、或人に負けた。これで一体、何度目の敗北になるのかさえもう数え切れなかった。
「……また、アルに負けた」
「でも、今のは一本取れそうな良い踏み込みだったよ」
或人が静かに声をかけてくる。
「全然だ。かすりもしなかった」
「イッサは、前より確実に強くなってるよ」
或人は笑っていなかった。その瞳は真剣そのものだった。
「だからさ、次もまたやろう。イッサ」
勇雄の身体が、記憶の通りに少しだけ自嘲気味に口元を綻ばせる。
ガラガラと音を立てて道場の引き戸が開き、誰かが剣道場の中に入ってきた。
一人の女子生徒だった。自分たちと同い年くらいの少女。
その顔立ちは、驚くほどグリナに似ていた。しかし、決定的に違っていた。グリナよりも少し幼く、そして彼女の髪の色は青ではなく、艶やかな黒色だった。
或人の幼馴染である、杉浦遥だった。
彼女は、手にしたスマートフォンを或人に向かって差し出した。
「或人、部室でずっと電話が鳴りっぱなしだったから、持ってきてあげたよ」杉浦さんは少し心配そうに言った。「たぶん、或人のお母さんからだと思う」
その言葉を聞いた瞬間、或人の表情が、ほんのわずかに強張った。
勇雄の記憶が、痛みを伴って蘇る。或人の母親が、自分のような人間と息子が親しくしていることを快く思っていない。なぜそこまで自分が嫌われているのか、その理由は今でも分からない。
「サンキュ」
或人はスマホを受け取ると、少し離れた道場の隅へと歩いていき、通話ボタンを押した。
ここからでは声が届かなかった。短い、ひどく事務的なやり取りだった。一分もしないうちに終わり、或人は何事もなかったかのような涼しい顔をして戻ってきた。
「……あ、血が出てるよ、イッサ」
或人が勇雄の顔を覗き込んで言った。
勇雄が自分の口元に手を触れると、指先に血がにじんだ。さっきの練習試合の最中、防具越しにどこかが激しく当たって切れたのだろう。
或人は無言のまま、自分のポケットから丁寧に畳まれた一枚のハンカチを取り出し、勇雄へと差し出した。
それを受け取り、傷口にそっと押し当てる。
「アル……悪いな。これ、洗ってから返すよ」
「いいって。次にイッサが俺に勝てた時、その時に返してくれればさ」
或人はいつもの悪戯っぽい冗談を口にして、少しだけ悪びれるように笑った。
「じゃあ、また明日な」
或人と杉浦さんは、並んで仲良さそうに剣道場を後にしていった。
夕方の斜陽が、誰もいなくなった道場の床に寂しげな光の帯を投げ入れている。
勇雄の手の中には、借りたばかりの、或人のハンカチだけが残っていた。
━━返せなかった。
その瞬間、世界が急速に闇へと融けていく。
勇雄の魂が、激しく拒絶するように叫んだ。
忘れていたわけではなかった。いつか必ず、彼に勝って、胸を張ってあのハンカチを返そうと、ずっと心に決めていたはずだったのに。
そう約束したはずだったのに━━。
胸を抉るような後悔だけを残し、世界は再び闇へと沈んだ。
第35話を読んでいただきありがとうございます。
護衛の「覚悟が見えない」という一言は、師匠神と同じ場所を突いています。後半では加護の代償の話です。今回は勇雄の過去です。ハンカチという小さなものに全部込めました。
次回は目を覚ました後からです。お楽しみください。




