第33話 エピローグ出発
夜明け前、まだ深い闇に沈んでいる時刻だった。
宿の前に、五人の影が集まった。
見上げる空はまだ濃い藍色に染まり、地平線の彼方にほんの数個の星が、名残惜しそうに冷たい光を瞬かせている。早朝の空気は肌寒く、吐き出す息がかすかに白く濁った。
グリナが手際よく荷台の荷物を確認し、一つずつ声に出して数えていく。
「忘れ物はない? 買い足した防具は忘れてない?」
「ない」勇雄が短く答える。
「保存食の袋は?」
「全部積んであるわ」前川先輩が応じた。
「水は?」
「水筒は全員分、満水なのを私が確認しました」ミカがしっかりとした声で告げる。
「よし、完璧ね!」
前川先輩は帳簿を開き、手元のわずかな明かりで路銀の残高と、これから背負うことになる借金の正確な数字を再確認した。
その隣で、ミカは一人一人の顔色や立ち姿を静かに確かめていた。終わると、前を向いて頷いた。
「皆さん、体調に問題はなさそうです」
「時間も、ちょうどぴったりだな」
理人が懐中時計を仕舞いながら言った。
勇雄は足元の湿った石畳に視線を落とした。夜明け前の王都は、驚くほど静まり返っていて、行き交う人の姿は皆無に等しい。ただ遠くの城壁の方から、夜番の兵士たちが交代する低く硬い声だけが、響いていた。
♢
乗り合い馬車の発着場へと向かう道すがら、五人は昨日まで過ごしていた学校に似た━━巨大な施設の前を通りかかった。
他の転移者たちは、まだ誰も起きていない。彼らが眠る施設の窓は、どれも一様に閉ざされていた。
施設の重い鉄門の入り口には、夜勤を終えた職員が三人、ひっそりと立っていた。
「……お気をつけて」一人目が、勇雄たちの荷物を見てぽつりと言った。
「決して、無理だけはしないでください」もう二人目も、気遣わしげに言葉を重ねる。
「無事に帰ってきたら、ぜひ外の世界のお土産話を聞かせてくださいね」
五人は足を止め、静かに、深く頭を下げた。
前川先輩だけが、歩き出しながらもほんの少しだけ足を止め、施設を振り返った。
この世界に召喚されてから、わずか五日間。
孤立し、加護がないと突き放され、それでも必死に生き残るために思考し、もがいていた場所。決して長い時間ではなかった。彼女にとっては永遠のようにも感じられる、濃密で過酷な日々だった。
「また、ちゃんと帰って来られますよ」
隣を歩くミカが、前川先輩の寂しげな横顔にそっと寄り添うように言った。
「……うん」前川先輩は小さく息を吐き、自嘲気味に口元を綻ばせた。「あんなに嫌な場所だったのにね。……せめて、絵梨花や琴音に、ちゃんと挨拶くらいしてくればよかったな」
彼女はそれ以上振り返ることなく、しっかりと前を向いて歩調を早めた。
♢
馬車乗り場に到着すると、五人乗りの大型馬車はすでに車体を揺らして待機していた。無骨な体格の御者が、手際よく彼らの荷物を後部の荷台へと積み込み始めている。
カツ、カツ、と石畳を叩く規則正しい足音が近付いてきた。
現れたのは、この国の王子━━カルス二十九世だった。
二十代前半の、若くも聡明な顔立ち。転移初日に見せた厳格なそれとは違い、今朝の彼の表情はどこか柔らかかった。その目元には隠しきれない色濃い疲労がにじんでいた。それでも彼は背筋を伸ばし五人を見送りに来た。
近くには近衛隊が数人控えている。鎧に身を包んだ二人の他にも、周囲の陰からいくつかの視線を感じた。
「諸君の旅路に、大いなる無事と栄光があらんことを」
カルス王子は五人全員を見据え、厳かに、しかし温かい声で告げた。
そのとき、理人が一歩前に歩み寄り、王子と真っ直ぐに視線を合わせた。
「王子。出発の前に、一つだけ、個人的な質問をしてもいいですか」
「何でしょうか」
「俺たちは、この国の期待に応えて魔王討伐に向かうわけじゃありません。自分たちの目的のために、勝手に安全な施設を出ていく。……それなのに、なぜあなたは、俺たちにここまで良くしてくれるんですか?」
カルス王子は少し間を置いた。理人の打算的な、しかし真っ当な疑問を受け止め、穏やかに答えた。
「━━我が国の、建国王より連なる教えなのです」
「建国王……」
「『異世界より訪れた方々は、いかなる理由があろうともこの国の恩人である。その恩は、たとえ千年が経とうとも、決して忘れてはならない』。……それが、この血脈に、そしてこの国に受け継がれてきた最初の言葉ですから」
理人は言葉を失い、静かにうなづいた。
彼の表情は、単なる感謝や感激に震えているのではなかった。もっと深い場所━━理人の心の奥底に、その「千年の重み」が静かに突き刺さったような、そんな複雑な顔をしていた。
「……分かりました」理人は視線を上げ、王子を見据えた。「ありがとうございます」
王子は理人に右手を出した。
近衛隊の二人は剣の柄に手を添えた。しかし、王子の意思を止めようとはしなかった。
二人は、男同士の固い握手を交わした。
勇雄はその様子を後ろからじっと眺めていた。
千年前の建国の祖が遺した、転移者への敬意と誓い。その遥か昔の言葉が、形を変えず、歪みもせず、今を生きるカルス王子を通じて自分たちに真っ直ぐ届いている。その事実に、勇雄の胸にも微かな熱が宿るのを感じた。
やがて、すべての荷物の積み込みが完了した。
♢
馬車へ乗り込もうとしたその時、ミカがふと周囲を見回して眉をひそめた。
「あれ……?」
「どうした、望月さん」勇雄がたずねる。
「白い鳥の神様━━ツルさんがいませんね。そういえば、昨日から一度も姿を見ていない気がして」
言われてみれば、と勇雄も周囲に目を凝らしたが、あの歪な白いアヒルはどこにも見当たらなかった。
「珍しいな。あいつのことだ、どうせまた何か悪巧みでもしてるんだろ。神様も色々と忙しいんじゃないか?」
勇雄は特に深くは考えなかった。
だが、理人は違った。彼は黙り込んだまま、視線だけで周囲の建物の影や路地裏を執拗に走らせていた。その瞳は五感のすべてを尖らせて警戒しているかのようだった。
前川先輩の顔からも、ふっと笑みが消える。彼女の胸の奥には、不安のようなものが小さく残っていた。
誰もその違和感について、それ以上口にすることはなかった。
♢
五人は促されるようにして、狭い馬車の客車へと乗り込んだ。
向かい合わせの席に腰を下ろし、それぞれの私物や武器を足元の隙間に滑り込ませる。
御者が鋭く鞭を振るうと、引き馬たちが力強く地を蹴った。
ゴトゴトと、石畳特有の硬い振動が車内全体に伝わってくる。それと同時に、眠っていた王都の街並みがゆっくりと遠ざかり、窓の外を古い石造りの建物が次々流れていく。
勇雄は額を窓ガラスに押し当て、遠ざかる景色を見つめていた。
脳裏には、昨夜の師匠神が残したあの低い声が、今も鮮明に残っている。
━━何故、お前は強くなる。
その問いに対する答えは、まだ見つからない。
それでも、勇雄は馬車が進む未知の方角へと視線を巡らせた。
あの洞窟の最奥へ向かえば、何かが分かるかもしれない。黒髪の神がわざわざ自分に「調べろ」と命じた理由。転移する直前に忽然と消え去った、『望月美香』のこと。
そして━━この世界における、自分自身の存在の意味も。
気づけば、王都カルサルト城の巨大な城壁がはるか後方へと遠ざかっていた。
彼らの目の前には、一本の街道が、地平線の彼方へと真っ直ぐに伸びている。
張り詰めた沈黙を破るように、客車の中では少女たちが言葉を交わしあっていた。
「馬車って……思った以上に揺れるんですね」ミカが座席の手すりをぎゅっと握り締めながらつぶやく。
「ねえ、結構ガタガタくるよね」グリナが苦笑混じりに同意した。
「……すでに坐骨が痛いんだけど」
前川先輩が早くも顔を顰めてお尻の位置をモゾモゾと動かす。
「ふふ、すぐに慣れますよ、麗奈先輩」グリナが楽しそうに笑う。
「どれくらいで慣れるの、これ?」
「そうねえ、ちょうど目的地に着く頃には、すっかり平気になってるんじゃないかしら」
「遠すぎるわよ……!」
前川先輩の本気のツッコミに、車内に小さな笑い声が弾けた。
馬車は速度を上げ、ぐんぐんと進んでいく。
やがて振り返っても王都の尖塔は見えなくなり、街道の両脇には、朝露に濡れた瑞々しい大草原が世界の果てまで広がっていった。
遮るもののない東の空から、まばゆい黄金色の光が差し込み、馬車の車内を一気に照らし出していく。
五人の新しい朝が、今、完全に始まろうとしていた。
♢♢
そこは、どこか洗練されたカフェテラスを思わせる空間だった。
中央にテーブルが一つ、それを挟むように椅子が二つ。純白の布が美しくかけられている。壁の代わりに設けられた大きな窓には、現実のものではない遠くの景色が映し出されていた。はるか眼下に広がる空と、そこから世界の果てまで続く大草原。神々の居住区と呼ばれる、隔絶された領域の光景であった。
宝玉神ハーパーは、繊細な磁器のティーカップを傾け、紅茶を口に含んでいた。ハーパーの身体には、その身長ほどもある黒く長い髪が流れ、肌の至るところに鮮烈な黄色の宝石が、まるで肉体の一部であるかのように深く埋め込まれている。
テーブルの上には、上品なフルーツケーキが置かれていた。
贅沢に盛り付けられたイチゴ、ブドウ、ミカン。その生地も果物も、すべて別々の世界から最高品質のものを取り寄せたものだった。並べてみれば一目で分かる、圧倒的な質の差。
「やはり、イチゴ、ブドウ、ミカン……これだけの果物が揃うと、実に美味い」
ハーパーは満足げにつぶやいた。フォークを小さく動かしながらの発言だったが、それは向かいの相手に伝えているというより、自らの中の事実を確認しているかのようだった。
向かいの席では、金髪で背の高い━━大異魂導神パトラが、黙々とミカンの皮を剥いていた。
長い指先で白い筋を丁寧に取り除いていく。テーブルのケーキには、最初から一切手をつけていなかった。
「……味に、そこまで明確な違いがあるものですか」
「あるとも」
「そうですか」
「あなたも一口食べれば分かりますよ」
「私は、このミカンだけで十分です。それより休憩が終わったら仕事に戻ってください。溜まっていますので」
ハーパーは少しだけパトラに視線を向けたが、特にそれ以上は何も言わず、再び紅茶に口を付けた。
♢
「休憩中、申し訳ございませんが━━武藤勇雄が、例の洞窟へ向けて動き出しました」
パトラは剥き終えたミカンを口に運びながら、本題を切り出した。
「おお、あの長期浮遊魂の魂か。予定通りか」
「はい。彼に付与した加護を通じて現在位置を確認しました。王都から魔王城へ向かうルートから、方角が少し外れています。間違いなく、あの洞窟の方向へ向かっています」
「問題ない」ハーパーの声には微塵の揺らぎもなかった。「あの場所にある『武具』さえ彼らの手に入れば、魔王は確実に討伐できます。すべてが順調に進むのであれば……」
「およそ、半年ほどで」とパトラが言葉を繋ぐ。
「ええ、そうなります」
ハーパーは深く満足した様子だった。表情そのものに劇的な変化はなかったが、その指先の動きには明らかな余裕が生まれていた。すべてが自分たちの計算通り、盤面の上を正確に動いていることを確認した者特有の確信だった。
♢
「それから、もう一点」パトラが声を落とした。
「何ですか」
「武藤勇雄が、こちらの世界で『望月美香』という人物を探しているという件についてです」
ハーパーはフォークを止め、少しの間を置いた。
「……誰ですか、それは」
「武藤勇雄がこの異世界へ転移する直前、あなたへ直接申告した人物です。この世界で探したい人間がいる、と。その名前が『望月美香』であったと、記録に残されています」
「そうでしたか」
ハーパーの口調は、全く変わらなかった。
その名前を聞いて何かを思い出した風でもなく、ただ重要性の低い不必要な情報として、右から左へ受け流しただけの顔だった。
「地球側でも調査を進めてはいますが」パトラが続ける。「ご存知の通り、あそこは我々神々であっても極めて干渉しづらい星の一つです。今のところ、まだ何の手がかりも判明していません」
「後回しでいい」ハーパーは興味なさそうに言い捨てた。「まずは魔王の討伐が最優先です。それ以外の雑音に構う必要はありません」
「承知いたしました」
パトラは平然と、ミカンをもう一切れ口へと運んだ。
♢
ハーパーがティーカップをソーサーに置いた。
静かに目を閉じ、自らの意識の焦点を遠く離れた地上へと向ける。武藤勇雄の魂に直接埋め込んだ、あの加護の接続状態を確認する。
そして、その魂の回路を通じて、一言だけを送り届けた。
『継続』
しかし━━返答は戻ってはこなかった。
「返答は?」様子を見ていたパトラが尋ねる。
「ない」ハーパーは目をあけた。「あの二日目の『保留』以来、いつものことです。私の声は確かに届いているはずですがね」
「武藤勇雄という男は、どうにも従順とは言い難い個体のようですね」
「従順である必要など最初からありませんよ。我々の敷いたレールの上を、ただ間違いなく動いてさえいれば、それで十分です」
ハーパーは再び紅茶を口に運んだ。
テラスの清浄な空気の中に、ほんのりと甘酸っぱいミカンの香りが、いつまでも漂っていた。
♢♢
そこは、闇に支配された世界だった。
一切の気配がなく、音という音が存在しない。
どこまで続いているのかさえ定かではない地下通路。石壁は、触れずとも分かるほどに冷たく湿った空気をはらんでいる。
その通路の果てに、ぽっかりと広大な空間が存在していた。
見上げるほどに天井は高かった。
その中央に、ひっそりと石の台座があった。
表面には、何らかの紋様が刻まれていたが、それが文字として読める代物なのかどうかすら分からない。
━━その台座の上に、ただ一本。
それは、一振りの剣だった。
周囲にはいかなる光源も存在しない。だが、その刀身はかすかな光をその身に反射して妖しくきらめいている。
その剣は、やがて訪れるであろう新たなる持ち主を、じっと待ち続けていた。
第33話を読んで頂きありがとうございます。
カルス王子や黒髪の神━━宝玉神ハーパーの久々の登場です。
洞窟の剣は誰を待っているのか。次話から洞窟へ向かいます。
この話で第一章は終了です。第一章は勇雄の旅立ちとそれを取り巻く神々の思惑が交差する章です。物語全体の中でも重要な章です。
最初から読んで頂いている方は本当にここまで読んで頂きありがとうございます。まだまだ勇雄の話は続きます。次の話もお楽しみください。




