第32話 出発前夜
部屋は狭かった。
備え付けられているのは、二つのベッド、小さな窓、それと古びた木製の棚、それだけだった。物を置くと、歩くための余白はほとんど残らなかった。しかし、その安さの割には室内はよく掃除されており、清潔なのが救いだった。
二人は並んでベッドの端に腰掛けた。窓の外から城下町のざわめきだけが、かすかに聞こえてきた。
しばらくの間、どちらからも特に言葉はなかった。室内に、静かな時間が流れる。
「……今日は結構歩いたな」理人が、背中を丸めながらぽつりと言った。
「思った以上に準備する物が多かったからな」
「前川先輩が管理してくれて本当に助かったわ。俺たちだけでやってたら、絶対にいくつか買い忘れてたろ」
「確かにそうだな」
「飯も施設よりひどかったし」
「旅が始まれば、あれが普通なんだろうな」
「明日はどうなるかね」
「まずは馬車だ。その先からが本番だ」
「乗り心地は期待しないでおくよ」
他愛のない会話の後、少しの沈黙が降りた。
「……望月さんとはさ」理人が視線を落としたまま、探るように尋ねてくる。「転移前から、本当は知り合いだったりしたのか?」
「いや、この世界にきて、ここで初めて会った」
「へえー。俺にはとてもそうは見えなかったけど」
「……理由は、自分でもよく分からない」
勇雄は少し考えてから答えた。
「ただ、一緒にいると不思議と落ち着くんだ。信頼できる。……そんな感じだ」
「出会って四日でそこまで行くか? 普通」
「普通かどうかはわからない」
「知らないんだな」
理人が少し笑った。相手のプライベートに深く踏み込まない、彼らしい押しつけがましくない笑い方だった。
「古賀こそ、グリナとはどうなんだ」
今度は勇雄が問い返した。理人は「俺?」と眉を上げ、少し天井を仰いで思考を巡らせた。
「俺もよく分からないんだよな」理人の声が少しトーンを落とす。「なんていうか、親とか、妹とか……そういう『家族』みたいな感じがするんだ。何となく、最初から信用できる。それだけ」
「出会って二日で、そこまでなるものなのか?」
「俺自身、めちゃくちゃ不思議に思ってる。けど、現にそうなってるんだから仕方ないだろ」
「そういうものか」
「そういうものらしいよ」
再び部屋は静かになった。
♢
外の通りからは、微かに人々の話し声や足音が聞こえてくる。城下町の、静かな夜の音だった。
その後も二人はベッドに横たわりながら、とり留めのない話を続けていた。
「……でさ、俺らの中学の時の修学旅行は秋ごろに行ったんだわ」
気付けば話は、元の世界での中学校の思い出話、その修学旅行のことになっていた。
「武藤は、修学旅行ってどこ行ったんだ?」
「沖縄だ」
「へえ、どうだった?」
「……戦争資料館に行った」
「ああ」
理人の相槌は短かった。だが、その言葉とは裏腹に、彼の目が一瞬だけ、鋭く光ったような気がした。
「色んな展示を見た。当時の写真とか、人々が残した記録とか。……思っていた以上に、中学生の俺には衝撃だった」
勇雄は言葉を区切り、当時の感情を思い起こすように少し間を置いた。
「平和であるということを、改めて考えさせられたよ。かつて悲惨な戦争があったという事実と、今こうして自分が平穏に生きているという事実を並べて見て……なんていうか、そういうことを考えたんだ」
「……それ、ちゃんと見た人の感想だな」
「見ない理由がなかったからな。ただ、こうして戦争のある世界にきて改めてそう思ったな」
「お前らしい感想だな。俺だったらそんな重苦しい展示なんて真面目に見ずに、海で泳ぐことばかり考えてるわ」
「古賀らしいな。まあ、俺は泳げないんだが」
「練習しろよ。泳げるようになると世界が広がるぞ?」
「そんなわけあるか」
「なるんだよ、これが」
理人が少し楽しそうに笑う。
「古賀はどこに行ったんだよ」
「俺? 俺は京都だった」
「京都か。やっぱり、寺巡りか?」
「寺もあったね。……ああ、あとスカイツリーも見たな」
勇雄は、暗闇の中で少し首を傾げた。
「……スカイツリーって、東京じゃないのか?」
ピタリ、と理人の動きが止まった。
部屋のわずかな月光の中で、一瞬だけ、彼の目から笑みが消えた。
「━━あ、そうだったかな」
理人は何事もなかったかのようにフッと笑った。
「あとは京都市内を班ごとに散策して観光したな。丁度紅葉の季節だったから、どこもかしこも綺麗で、今で言う『映え』ってやつだったよ」
「……そうか、楽しそうだな」
その後も理人の修学旅行の思い出話は続いた。
勇雄はそれ以上、スカイツリーの件を追及しなかった。昔の記憶の話だ。勘違いや、他の旅行の記憶と混ざって曖昧になることくらい、誰にでもあることだ。
━━しかし。
あの時、理人が見せた一瞬の「目の変化」だけは、勇雄の脳裏に不気味なトゲのように深く突き刺さって離れなかった。
♢
「……いよいよ明日から、洞窟の調査か」
どれくらい時間が経っただろうか、理人が眠たそうな声で呟いた。
「ああ」
「準備だけは、万全にしておきたいな」
「それだけは、もうしてある」
「無理だけはするなよ、武藤」
「お互いにな」
それから間もなくして、隣のベッドから規則正しい理人の寝息が聞こえ始めた。
勇雄は眠るのを止め、静かに天井を見つめた。
古賀理人。
少し変わった奴だとは、出会った時から思っていた。彼の口から出てくる情報や、周囲を誘導する立ち回りは、どこか冷徹に計算されているように見える。一見すると自然な会話に見せて、その実、すべてに何らかの「意図」が隠されているような、そんな得体の知れなさ。
━━まあ、悪い奴ではなさそうだが
ひとまず思考を打ち切るように、勇雄は小さく息を吐いた。
隣のベッドに背を向け、気配を殺して自分の荷物をそっと開ける。
音を立てないよう、細心の注意を払って奥から一つの眼鏡を取り出した。
━━『神眼鏡』。
昨夜、あの白いアヒル姿の神━━ツルが、不気味な笑みと共に置いていった代物だ。
勇雄はそれを顔に装着した。
カチリ、と小さな駆動音が響き、視界が完全な暗黒に染まる。
それと同時に、急激な睡魔のようなものが脳を支配し、彼の意識はゆっくりと、深い底へと落ちていった。
♢
勇雄は、その場にどさりと倒れ込んだ。
無機質な地面に背中が叩きつけられ、手からこぼれ落ちた木剣が、乾いた音を立てて転がっていく。
肺がちぎれそうなほど呼吸は乱れ、全身からは滝のような汗が吹き出していた。
見上げたVR空間の天井は、どこまでも白く、どこまでも平坦だった。
体感では、もう半日以上訓練を続けている。
剣術。体術。魔力制御。魔法の出力調整。さらには、周囲の気配を捉える感知の初歩、実戦形式における一瞬の判断の反復━━。
あらゆる訓練において叩きのめされ、一度たりとも勝てなかった。
しかし、昨日とは明らかに違っていた。
確かに自分の動きは良くなっている。昨日なら一撃で首を飛ばされていた攻撃を受け止められるようになり、こちらから一太刀をかすめられる回数も増えた。だが、なぜか不思議と満足感はなかった。
転移する前だと、これぐらいの努力で結果が出たことは一度もない。あれほど苦労しても届かなかった場所へ、たった数日で近づけてしまう。その事実は嬉しいはずだが……どこか過去の自分を否定された気がした。
息を荒らげる勇雄の前に、腕を組んだ師匠神がのっそりと立った。
「まだまだだな」
師匠神は眼下の少年を見下ろし、少しの間を置いてから続けた。
「……だが、今日だけの成果として見るならば、合格点だ」
勇雄は痛む身体を無理やり動かし、地面から這い上がった。
「……神の石の恩恵、かもしれない」勇雄は自分の掌を見つめる。「ツル━━あの白アヒルの調整や、転移者としてのこの肉体のスペック。そういった要因が重なっているだけで、これは、俺自身の本当の実力じゃない。これは……」
━━チートだ。
胸のうちにだけに響いた。その言葉は呪いのように勇雄の心を徐々に支配していき、まとわりつく。
「ならば」
師匠神が静かに、しかし断固とした声で問いかける。
「昨日より強くなったその体を動かし、そこから這い上がったのは誰だ?」
「……それは」
「お前は、血の滲むような己の努力まで、他人のものだと切り捨てるつもりか」
勇雄は答えを返せなかった。しかし身体はもう限界だった。全身の筋肉が悲鳴をあげ、これ以上は一歩も動けそうになかった。
返す言葉が見つからないまま、今日の訓練を終えて現実へ帰ろうとした。
「待て」
師匠神が呼び止める。
気づけば、周囲に四神の面々が自然と集まっていた。それは訓練後の単なる雑談ではない、明確な意志を持った集まりだった。一瞬にして、空間の空気が張り詰める。
最初に口を開いたのは、姉貴神だった。
「ねえ。あなたには、今、守りたい人はいる?」
「……います」勇雄は真っ直ぐに答えた。
「どうして、その人を守りたいの?」
「……一緒にいると、落ち着くんです。それだけでは、理由として駄目ですか」
「駄目じゃないよ」
姉貴神はそれ以上追及せず、ただ慈しむように小さく微笑んだ。
「旅の終わりに……魔王を倒したあと、お前は何を見たい? 」
次に問いかけたのは、先輩神だった。
「考えたこともありません」
「ないか」
「目の前の現実を生き残ることで、今は精一杯ですから」
「それも悪くない」先輩神はフッと肩の力を抜き、それ以上は言わなかった。「今のうちはな」
「では、お前は何を知りたいと思う?」
教授神が、いつものように手元の羊皮紙にペンを走らせながら尋ねる。
「今は、余裕がなくて何を知りたいのかすら分かりません。」
「知識とは単なる目的ではない」教授神は淡々と、しかし鋭く言った。「それは、自らの意志で未来を選ぶための『材料』だ。知りたいことがない人間は、己の手で自らの選択肢を削ぎ落としているに等しい。……まあ、今の段階ではそれでもいいですがね」
最後に、師匠神が一歩前に出た。
「━━これが最後だ」
空間が、水を打ったように静まり返る。
「何故、お前は強くなる?」
重苦しい沈黙が横たわった。
勇雄は必死に思考を巡らせた。
みんなの役に立ちたい。誰かの足手纏いにもなりたくない。ミカを守り抜きたい。明日からの洞窟を無事に攻略したい。転移前、いなくなった望月美香を見つけたい。
どれも本心だった。嘘ではない。しかし━━そのどれもが、今の師匠神の問いに対しては、あまりにも浅すぎる気がした。
「……誰かの、役に立ちたいからです」
師匠神は、静かに首を横に振った。
「それは、お前自身の『願い』じゃない」
言葉の重みが、勇雄の胸にズシリと響く。
「生き方でもない」
「お前は、強くなるための明確な理由を持たずに、ただ強くなろうとしている」
「それでは、いつか必ず━━大事な局面で立ち止まることになるぞ」
勇雄は何も言い返せなかった。
必死に反論の言葉を探したが、どうしても出てこなかった。
役に立ちたい。けれど、一体誰のために。何のために。何を守るために。
自分の中に、その根幹となる「答え」が、まだ存在していなかった。
師匠神の厳しい表情が、わずかに緩んだ。
「……次、ここに来るまでに考えてこい」師匠神は続けた。「何故、お前は強くなるのか」
「もし、答えが見つからなかったら……?」
「━━そのまま来い」
師匠神はそう言うと、ほんの少しだけ、本当にわずかだけ口元を綻ばせた気がした。
「答えなんてものはな、旅の途中で不意に見つかることもある。戦いの中で、嫌でも思い知らされることもある。……あるいは、一生見つからないまま死んでいく奴もいる。だから、ただ考え続けろ。それこそが、お前の『次の課題』だ」
「焦らなくていいよ」姉貴神が優しい声でそっと添える。「あなたはちゃんと、自分の足で前に進めているんだから」
「旅ってのは、目的地にいる時より、そこへ向かう途中の方が遥かに長いからな」先輩神がニカッと笑う。「ゆっくり見つければいいさ」
「答えは一つとは限りません」教授神がメモを取り終え、眼鏡を押し上げた。「状況によって形を変えることもある。非常に興味深いケースですね、あなたは。また次の機会に、詳しくお話ししましょう」
「ただし、考えることだけは絶対にやめるな」
師匠神が最後に締めくくった。
「それだけだ」
勇雄は、四神に向かって深く一礼した。
四つの視線が、少年の背中を静かに見送る。勇雄は静かに現実への帰還を願った。
視界が、一気に白濁していった。
♢
次に目を開けたとき、視界に飛び込んできたのは、宿屋の薄暗い天井だった。
顔から『神眼鏡』を静かに外す。
隣のベッドからは、先ほどと変わらない理人の規則正しい寝息が聞こえていた。
勇雄は外した眼鏡を胸に抱いたまま、しばらくの間、じっと暗闇の天井を見つめ続けた。
━━何故、自分は強くなるのか。
結局、答えは出なかった。
しかし、不思議と胸の中に焦りはなかった。
脳裏に、あの師匠神の「そのまま来い」という無骨な声が、温かい残響となって留まっていた。
勇雄は重い身体を起こし、神眼鏡を鞄に入れた。
「……明日も、早いな」
暗闇に溶けるような小さな声で呟き、再びベッドに横たわる。
ゆっくりと目を閉じた。
明日から始まる長い旅路を思い浮かべながら、勇雄は穏やかな眠りへと落ちていった。
第32話を読んで頂きありがとうございます。
前半は理人との会話です。前日のそわそわした様子を描きました。
後半はこの旅の目的の1つを示しました。勇雄の成長を見ていて下さい。
次回はいよいよ出発です。お楽しみください。




