第27話 神眼鏡
自室にツルがいた。
大きな嘴を持つアヒル姿の神が、机の上にちょこんと座っている。最初から、勇雄が戻るのをここで待っていたという気配だった。
「帰れ」
「お久しぶりの再会ですのに、少々冷たくはありませんか?」
「毎日会っているだろう。今日だけで何回目だ」
「直接は三回ですね。私はあなたとは何度でも会いたいと思ってますが……それはまた冷たいですね。」
「お前に関わると碌なことがない。帰れ」
勇雄はツルをじっと睨み据えた。なんと言って部屋から追い出そうかと言葉を選んだが、ツルは微動だにしない。
今日の午後から、ツルが他の転移者たちの訓練を見に行かず、自分たちの後をこっそりつけていたことは知っていた。ただ、ツルが転移者の観察という任務を放棄したのは、これが初めてのことだった。その理由を問い詰めようかとも思ったが、やめた。ツルの顔には、それ以上踏み込むな、とはっきりと書いてあった。
「……私の話を聞いてほしいのです」
「短くしろ」
ツルは、机の上に何かをコト、と置いた。
それは、二つの奇妙な物体だった。
全体の形状は眼鏡に酷似している。しかし、レンズに当たる部分が普通ではなかった。透明なレンズの奥では細い線が幾重にも走っていた。ただ見つめているだけでも、得体の知れない精密さを感じさせる魔道具であることが一目で分かった。
「何だ、それは」
「訓練用の道具です」
「いらない」
「まだ何の説明もしておりませんよ」
「神の持ち物だろう」
「その通りです。」
「なら、いらない」
ツルは少し間を置き、静かに言葉を重ねた。
「ディーヌ洞窟への出発まで、時間がありません」
「……」
「あなた方が今から強くなる方法は、限られています」
「だから、神頼みをしろと言うのか」
「神頼みではなく、あなたが努力をするための道具です。神眼鏡と言います。これを装着すれば、仮想現実の空間で実践的な戦闘訓練を積むことができます」ツルは真っ直ぐに勇雄を見つめた。「私が信用できないのは、承知しています。ですが……これは本当に、あなたのために持ってきたのです」
「信用できないな」
「分かっています」
ツルは、机の上の眼鏡から頑なに目を離そうとしなかった。
♢
トントン、と扉がノックされた。
一度だけ、遠慮がちに小さく扉が開いた。
勇雄が扉を開けると、そこにはミカが立っていた。胸元に、丁寧に畳まれた布団を抱きしめている。
「ごめんなさい、夜遅くに。お布団を返しにきた」
ミカが部屋に入り、ベッドの上に綺麗に布団を置いた。
ミカは机の上のツルの存在に気がついた。ミカは少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに丁寧にお辞儀をした。
「はじめまして……でしょうか。神様、ですよね? 私はミカといいます。よろしくお願いいたします。勇雄くんが、いつもお世話になっています」
「……ツル、と申します」
それだけだった。ツルはそれ以上言葉を続けず、すっとミカから距離を取った。
ツルは本来、物腰が柔らかく礼儀正しい神のはずだ。初対面の相手に対して、これほどあからさまに警戒し、距離を置くような態度をとるのは明らかに不自然だった。
ミカはツルの態度に戸惑ったのか、なぜかおろおろし始めた。
「どうした」
「いえ……」ミカは眉をひそめ、不思議そうにツルを見つめる。「この施設の中で、何度もそのお姿は拝見しているはずなのですが……」
一拍の沈黙。
「何か、変なのです。それよりもずっと前に、私、あなたにどこかで一度だけお会いしたことがあるような気がして……」ミカは記憶を辿るように言葉を紡ぐ。「でも、本当に出会ったその一瞬の場面だけなんです。その前後の記憶が、すっぽりと空白になっていて……。」
ミカは口元に手を添えた。
「いつの記憶で、何があって出会い、その後に何が起きたのかが全く思い出せません。」ミカはツルの目を見て言った「あなたにお会いしたということ、その事実だけしか頭にないのです。あなたにこうして直接お会いするまでは、ただの夢だと思っていました」
ツルは、ただ黙って彼女の言葉を聞いていた。
━━そのとき、ツルの顔が一瞬だけ劇的に変化した。
制御していた感情が、一瞬の隙を突いて表にあふれ出ていた。
ツルの目から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。
ツル自身も、それがこぼれたことに気付いていないようだった。
……その動揺は一瞬で消え、いつもの表情へと戻っていく。
「……気のせいですよ」
ツルの声は、かすかに震えていた。
「そう、でしょうか……」
「そういうことにしておきなさい、今は」
ミカはツルをじっと見つめたが、これ以上は何も追及しなかった。
ふと、ミカが机の上に置かれた二つの眼鏡に目を留めた。
「これ……見たことあるような気がします」
勇雄は驚いてミカの顔を見た。
「これが、何なのか分かるのか?」
「ええ、なんとなくですけれど」
「なんとなくで分かるような物じゃないだろう、これは」
「でも……どうしてもそう見えてしまうんです」
ミカはごく自然な動作で眼鏡を一つ手に取り、細部を確認するように眺めた。そこには驚きの色はなく、不思議と手に馴染む感覚であった。
ツルが静かに、扉の方へと歩き出した。
「待て、ツル」
「何でしょうか?」
「これは……本当に安全なんだろうな」
「危険性がゼロではないです」
「……おい」
「ですが、もし私があなたの立場であれば、迷わずこれを使います」ツルは扉の取っ手に手をかけた。「━━お伝えできるのは、それだけです」
パタン、と静かに扉が閉まり、ツルは去っていった。
部屋には勇雄とミカの二人だけが残された。
♢
勇雄が机の上のもう一つの眼鏡を見つめていると、ミカはそれを手に持ったままベッドの縁に腰掛け、今まさに自分の顔に装着しようとしていた。
「本当に使うつもりか?」
「実際に試してみなければ、何も分からないから」ミカは真っ直ぐに勇雄を見た。
「危険な道具かもしれないぞ」
「そのときは━━勇雄くんが助けてくださいね」
ミカは微笑んでそう言った。勇雄は無言で頷いた。
ミカはベッドにゆっくりと横たわり、意を決したように眼鏡を顔に装着した。
次の瞬間、彼女の意識が、すとんと深く落ちていった。
勇雄は慌ててミカの容態を確認した。
呼吸は続いている。規則正しく、乱れる様子もない。顔色も血の気が引くようなことはなく、体内の魔力の流れを見ても、異常は見られなかった。
「本当に、ただ眠っているだけなのか……?」
ぽつりと独り言が漏れる。
時間が静かに流れていく。実際の時間にして、一分にも満たないほどのごく短い間だった。
ミカが、ゆっくりと目を覚ました。
泳いでいた焦点がしっかりと結ばれ、まずは天井を、そして心配そうに見下ろす勇雄の顔を捉えた。
彼女は顔から静かに眼鏡を外した。勇雄は思わず身を乗り出した。
「何ともないか?」
「大丈夫ですよ。とても……不思議な感覚でした。」
「何が見えたんだ」
「どこか、近代的な訓練施設のような場所です」ミカは記憶を整理するように少し考え込んだ。「それと……」
「それと?」
「そこに、何人かの人がいました。指導教官でしょうか」
「何人いた」
「私が見たところ……、四人ほどいました」
「危険は感じたか?」
「いえ、全く感じないですね。おそらくはAIのようなものだと思うのですが、こっちの質問に、本物の人間が相手をしているみたいに、受け答えをしてくれました。害になるようなものは、何もなかったと思います」
勇雄はもう一度ミカの全身を観察した。
体に異常はなく、外傷もない。意識もはっきりとしていて、混濁している様子は皆無だ。
少なくとも、今すぐ命に関わるような異常は見当たらなかった。
机の上には、もう一つの眼鏡がポツンと残されている。
勇雄はそれをじっと見つめた。
目的地であるディーヌ洞窟までは、馬車を使っても三日はかかる距離だ。あの場所で一体何が待ち受けているのか、今の自分たちには知るよしもない。ツルの言う通り、今の自分たちには圧倒的に経験と訓練が足りていなかった。
ミカが静かに尋ねてきた。
「勇雄くんも、使うのですか?」
「……試してみるだけだ」
勇雄は眼鏡を手に取った。
ずっしりとした重みがある。普通の眼鏡に比べれば遥かに重いが、持てないほどではない。
昨日、自分の魔法で作った土の台座にゆっくりと横たわり、勇雄はそれを顔に装着した。
一瞬にして、視界が漆黒に染まる。
━━そして次の瞬間、世界が反転した。
♢♢
パタン、と扉が静かに閉まった。
ツルは人気のない廊下へと出た。
一度だけ、名残惜しそうに後ろを振り返る。
当然、部屋の木製の扉は閉ざされたままだ。中の様子を覗き見ることはできない。しかし、ツルにははっきりと分かった。あの『神眼鏡』が起動する直前特有の、空間の空気がわずかに爆ぜるような変化を感じ取ったからだ。
「ひとまず……今夜は問題ないですね」
あの二人は、これから神々の模倣体から訓練を受ける。もはや、自分がこれ以上余計な手を出す必要はなかった。
ツルは再び、静かに廊下を歩き始めた。
少し進んだところで、その足がふっと止まる。
頭をよぎったのは、今日の昼間の彼らの尾行についてだった。
正直に言って、かなり大変だった。勇雄、ミカ、理人の三人が、それぞれ別々の方向を歩くものだから、追いつくのは困難だった。さらに、武器屋では理人が立ち位置を頻繁に変えるものだから、見つからないように対応するのは苦労したものだった。
「……やはり、私だけでは手が足りませんね。昔が懐かしい……」
ぽつりと漏らした声が、薄暗い廊下に吸い込まれて消える。
「神力の制限というものは、実に面倒なものですね……。私の代わりとなる『目や耳』が欲しいところです」
視線を、無機質な廊下の壁へと向ける。
ツルは自分の手駒となり得る候補を一人ずつ挙げていった。
まずは、古賀理人の顔を思い浮かべる。
「却下ですね。そもそも勇者候補。彼は危険すぎます」
では、望月ミカはどうか。
「論外です。彼女は守るべき側にいるお方……こちらの都合で使う側に置けない」
では、武藤勇雄は。
「もっと論外ですね。論ずるまでもない」
ツルは再び静かに歩きながら、他の転移者たちのデータを記憶の底から検索した。
━━そこで、一人の少女の顔がパッと浮かんできた。
前川麗奈。
彼女は、神々による『特別試験』を一度も受けていなかった。当然、神からの『加護』も一切持っていない。彼女自身、この世界を生き抜くための情報を何とか得ようと密かに動いてはいたが、空回りしていた。今日の朝の食堂でも、ついに『加護なし』であることが周囲に発覚してしまい、完全に孤立してしまったはずだ。
ただ、彼女は確かに自分自身の意志で動いていた。何より、目立たなかった。
「戦力としては、期待できませんが……」
一拍。
「ですが、極めて冷静です。余計な真似もしないでしょう」
今日の食堂での一件でも、彼女は決して感情的になって取り乱したりしなかった。周囲から孤立するという状況に陥りながらも、その精神が崩れることはなく、どこまでも、自分でできることを模索していた。
「悪くありません。むしろ、今の私にはおあつらえ向きの人材です」
そのときだった。
遠く離れた場所で、世界の法則がかすかに変質するのを感じ取った。
微かな、しかし決定的な神力の反応。
その発生源は━━間違いなく、先ほどまで自分がいた勇雄の部屋の方向だった。
どうやら無事に、神眼鏡のシステムが完全起動したらしい。
ツルは嘴を少し歪め、ふっと苦笑した。
あちら側にいる神々が、今頃どんな顔をして二人を迎えているか、想像するだけで容易に思い浮かんだ。勇雄はともかくとして、ミカに対しては、強く当たる可能性が大いにあった。
「……あまり、彼女に強く当たらなければ良いのですが」
誰に聞かせるでもない独り言が、冷たい空気の中に溶けていく。
「まあ、まずはこの件が先、ですか」
ツルは小さく羽を動かし、再び歩行を再開した。
静まり返った施設の中、どこまでも深い、異世界の深夜が続いていく。
第27話を読んでいただきありがとうございます。
神眼鏡を使う場面いかがだったでしょうか。ミカと勇雄の信頼が高くなっている感じてください。
次はVRでの訓練です。お楽しみください。




